特殊慰安協会設立趣意書

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小説特殊慰安施設協会#06/1-2 銀座一ノ七

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2020年10月20日 00:11
慰安部の高松八百吉とキャバレー部の林穣はそのころ既に犬猿の仲になっていた。小太りで鷹揚な旦那然とした高松と、いかにも洋行帰りの林穣とは、見た目も性格も考え方も水と油だった。その高松が、英語が堪能な林穣に頭を下げて大森海岸にある小町園まで来てもらったのだ。よほど大変なことになっているに違いないと、みんなは思っていた。
「とにかく、仕事は山のようにあるから。林部長が戻るまである程度。書類を整理しておいてくれ。」
「はい。」
千鶴子は椅子に着いた。そして目の前に積まれた書類を見つめた。そしてその書類の上にメモが乗っていることに気が付いた。端正な手書きのメモである。林護が書いた指示書だった。

《書類は全て進駐軍に提出する嘆願書と弊社の事業説明書です。先ず初めに、一番上にある事業趣意書から英訳してください。そうすれば弊社がどんなことをする会社か、君自身にも明確に判るでしょう。判らない単語は引き出しに辞書を入れておきましたから使ってください。それでも判らない単語や言い回しは。そのままローマ字打ちしておいてください。後で僕が直します。
 本日は事務所に戻れるかどうか判らないので、あなたは定刻で帰宅してください》とあった。
 千鶴子は一番上に置かれた特殊慰安協会設立趣意書を手にした。そしてオリベッティに真っ白な紙を差した。

特殊慰安施設協会・・なんて英訳すればいいんだろう。そう思いながら書類を手にすると、メモ用紙が挟んであるのに気が付いた。
《協会の英名はRecreation and Amusement Assosiationです》と書かれてあった千鶴子は先ず一読した。
《特殊慰安協会設立趣意書
畏くも聖断を拝し、慈に連合軍の進駐を見るに至りました。一億の純血を護り以て国体護持の大精神に則り、先に当局の命令を受け東京料理飲食業組合、東京待合業組合連合会。東京接待業組合連合会、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京都貸座敷組合、東京慰安所連合会、東京連妓場組合連盟の所属組合員をもって特殊慰安施設協会を構成致し、関東地区駐屯部隊将士の慰安施設を完備するため計画を進めてまいりました。本協会を通じて彼我両国民の意思の疎通を図り、併せて国民外交の円滑なる発展に寄与致しますと共に平和世界建設の一助ともなれば本協会の本懐とするところであります。 本協会は、右の趣意に基き、直に運営を開始致します所存で御座います故、何卒ご賛同の上大いに出資を賜り、如上の指名達成に万全の支援を御願致します。》
これをどう訳せばいいの?千鶴子は茫然とした。その趣意書の最後に林穣の手書きの指示が書かれていた。
《全体の文意が伝わればいいです。直訳しなくてよい。後半の出資の嘆願の部分は英訳しないでください。各団体の英名はこの紙の後ろに書いておきました。それを使ってください。》
戸惑っていても仕方ない。千鶴子は林穣のメモに押されて決然とタイプを打ち始めた。


特殊慰安施設協会は、敗戦から13日後の8月28日に警視庁から認可を受けて設立されている。設立目的は「関東区駐屯軍並びに一般兵士の慰安施設」である。時の警視総監坂信弥の要請によって、米兵のための慰安施設を民間団体として設立したのだ。
協会の理事長は宮沢浜次郎。副理事長は野本源三郎、成川敏、大竹広吉。専務理事として渡辺政次、林穣、高松八百吉。その下に15名の常務理事を置いていた。
 事業部は、慰安部、キャバレー部、娯楽部に分けられて、それを物資部、総務、経理が支える組織になっていた。
 慰安部は、米兵のための慰安設備を営業。キャバレー部は、ダンスホール、キャバレー、ビヤホールを営業。娯楽部はビリヤードなどを営業。連合軍兵士のための総合的な娯楽設備の提供を目指す、と有った。

慰安部?千鶴子は一瞬タイプを打つ手が止まった。要するに売春組織?米兵のために女性を用意する会社?
翻訳しているうちに、千鶴子は「女子挺身隊」という文字に出会った。日本人の純潔を守るために女子挺身隊を組織する・・これをどう訳せばいいのか??千鶴子は戸惑った。
千鶴子は、自分が巨大な蠢くモノに立ち向かっているような気がした。本当に私に出来るの?タイプを打ちながら、千鶴子は何度も何度もそう思った。 時間は矢のように過ぎた。疲れた。英訳は思っていた量の半分も出来なかった。それでも定刻には周囲の人に挨拶をして事務所を出た。目の奥に強いしこりが有った。

交詢社通りの角に、ゲートル姿に国民坊を被ったゲンが立っていた。 
「ゲンちゃん。どうしたの?」
「オフクロが迎えに行けって。」そう言いながら両手に荷物を持ったまま頭を掻いた。
「出かけてたの?」
「うん、新橋のヤミ市にオカズになりそうなもの買いに行ってきた。
そしたらさ、大井の軍需工場で一緒に働いてた奴にあったんだ。一緒に働かないかって言われた。」ゲンが嬉しそうに言った。
「ほんと?よかったわね。どんな仕事?」
「ここなんだ。」ゲンは目の前に建つ大日本ビールを指差した。「来月、再開店するんだって、そんでボーイできそうな連中を集めてるんだって。俺、紹介してくれるって。」
「ほんと?良かったわね。ここってウチの会社がやるのよ。ゲンちゃんもウチの社員になるのね。すごい」
 しかし今日一日、特殊慰安協会についての書類を英訳して、その内容を知っている千鶴子は、もろ手を振って喜ぶ気持ちにはなれなかった。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました

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1951年生まれです。ついに70の声をきく年になってしまいました。このnoteではワインを巡る歴史話。僕が子供の頃の東京下町のこと。青春時代に歩いた米軍キャンプとNYCの話。そして日々徒然に書き散らしたものなどを並べています。
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