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孙中山为何立下三份遗嘱?

孙中山为何立下三份遗嘱?







编辑:章文君|2016-02-24 18:37:29|来源:中央广播电视总台海峡飞虹

中国民主革命先驱孙中山先生于临终前1天,在北京行馆的病床上先后签署了三分遗嘱,分别对国事、党事和家事做出最后的嘱托和安排。

 

李仙根(1893—1943)及其日记

李仙根(1893—1943)及其日记

 

1924年2月24日,农历二月初二,星期二。正在北京铁狮子胡同5号孙中山病房参加轮值的李仙根(孙中山追随者)于当天的日记中写道:


总理连日病势大变,今早已不能进饮食,且弱极,气促。各人惶恐,乃由汪、哲等婉叩遗言,以国事、党事付诸同志,奋斗完成三、五及建国大纲;以家事付托夫人。总理甚然各说,但云二、三日后乃签名字。犹呼起床进膳,然亦无力矣。

陆仲安、唐尧龄、周某三医来会诊、下药。遗嘱由汪、孔、廖、宋、哲知见。

总理睡熟……

下午八时,尚清醒,且云赴西山疗养。

 

该则日记所提到的孙中山对国事、党事和家事的安排,也就是我们所了解的孙中山遗书。它由三个文件组成。即,一、《国事遗嘱》(致中国国民党同志遗书)、二、《家事遗嘱》(致家属遗书)、三、《致苏联政府遗书》。在这三封遗书中,其产生过程最不清楚的是《致苏联政府遗书》,就连这份文书本身是否存在也成了很大的问题,曾引起了相当大的争论。下面一一略作介绍。

 

这一天下午,病房医护人员发现孙中山的病情转入极危险状态,便出而建议家属和党人抓紧时间做最后的请示。遂公推汪精卫、孙科、宋子文、孔祥熙四人至病榻前请孙对党务、国事及家事立下遗嘱。

 

孙中山的《国事遗嘱》


孙中山的《国事遗嘱》

 

《国事遗嘱》也称作《政治遗嘱》,由汪精卫等事先拟好,是日由汪现场读与孙中山听后而定稿。全文如下。

 

“余致力国民革命,凡四十年,其目的在求中国之自由平等。积四十年之经验,深知欲达到此目的,必须唤起民众,及联合世界上以平等待我之民族,共同奋斗。 现在革命尚未成功。凡我同志,务须依照余所着建国方略、建国大纲、三民主义及第一次全国代表大会宣言,继续努力,以求贯彻。最近主张开国民会议及废除不等条约,尤须于最短期间,促其实现。是所至嘱!”

 

图为孙中山《家事遗嘱》

图为孙中山《家事遗嘱》

 

待国事遗嘱定稿后,以家属身份侍疾的宋子文趁机继续请求弥留之际的姐夫孙中山对家属也照此做出交代,于是汪精卫又拿出第二张字条读与孙听:

 

“余因尽瘁国事,不治家产,其所遗之书籍、衣物、住宅等,一切均付余妻宋庆龄,以为纪念。余之儿女已长成,能自立,望各自爱,以继余志,此嘱!”对此孙中山亦表示赞成,即为《家事遗嘱》。在行将施行签字时刻,因怕触及夫人宋庆龄伤感,孙临时决定延期签字。

 

晚年的孙中山与苏联实现了联合,并得到其帮助。他亲自制订了联俄的明确政策,强调“今后之革命非以俄为师断无成就。”临终前夕,他再次把希望寄托于苏联,特地口授了《致苏联政府遗书》(以下简称为《苏联遗书》),该书的原件现保管在俄国国立社会政治史档案馆(简称РГАСПИ )。

 

图为《向导》所载孙中山致苏联遗书

图为《向导》所载孙中山致苏联遗书

 

自2月24日以后,孙中山的身体一日不如一日。延至3月11日中午,汪精卫将国事及家事遗嘱呈上,在孙氏家属及在京侍疾党人宋子文、孙科、邹鲁、邵元冲、孔祥熙、吴稚辉、何香凝、戴季陶、戴恩赛的见证下,由夫人宋庆龄托其手腕在两份遗嘱上分别签下:“孙文,3月11日补署”之字样。随之,笔记者和证明者一一签名。孙并嘱咐,待其死后可公之于世。

 

图为上海孙中山故居外景

图为上海孙中山故居外景

 

当国事、家事遗嘱签署完毕后,英文秘书陈友仁将由他与鲍罗廷用英文起草的致苏联政府遗书呈上,由宋子文通读一编,孙听后即用英文签上名字:Sun yat sen(即孙逸仙)。 

 

《致苏联政府遗书》是孙中山所立三份遗嘱中篇幅最长,也最能体现其反帝思想和联俄外交政策的一篇。这一文件的形式明显地与其他两封《遗嘱》不同。《苏联遗书》并不是与《国事遗嘱》《家事遗嘱》一起形成的文件,而是在孙中山将近临终的时候,部分党人为预防党内分裂,感到需要有这种文件,在孙中山病危期间秘密拟定,并于孙中山签署其他两份《遗嘱》之际(或者紧接签名之后)而当即提出签署的。

 

与国共合作时期的很多事件一样,孙中山的去世以及他的遗书也是与当时以及后世国共两党的争夺紧密结合的一个高度的政治事件。长时段内,关于孙中山遗嘱的订立时间有着各种不同说法。

 

不忘初心,方得久远。撇开家属、党人,各派各系在孙中山病榻前的勾心斗角不论,孙中山的三份遗嘱从国事、世事和家事三个方面陈述其遗愿,反映了他的世界观、家国观的基本看法和妥善安排,充分体现了其伟人品质,也是这位民主先行者遗留给全中国人的宝贵精神遗产。

 

参考文献:
1. 王业晋主编,黄健敏、李宁整理:《李仙根日记•诗集》文物出版社2006年10月版。
2. 石川祯浩:《孙中山致苏联遗书》,日本《当代中国探索》丛刊,第1缉,2008年11月。
3. 黄昌谷:《大元帅北上患病逝世以来之详情》,载尚明轩等编:《孙中山生平事业追忆录》人民出版社1986年6月版。
4. 陈锡祺主编:《孙中山年谱长编》,中华书局1991年8月版。
5. 林家有着:《重读孙中山遗嘱》,广东人民出版社2011年10月版。

 

栏目简介:

以铜为镜,可以正衣冠;以史为镜,可以知兴替;以人为镜,可以明是非。海峡飞虹中文网携手孙中山故居纪念馆特别策划推出《声音档案——中山先生的一天》,借2016年孙中山先生诞辰150周年的日子,我们梳理中山先生亲历的历史事件,为您讲述民国的史事与人物,缅怀中山先生的历史功勋。孙中山先生曾说过:吾志所向,一往无前,愈挫愈奋,再接再厉。 

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總理遺囑致蘇俄遺書作者:孫中山

總理遺囑 編輯

1925年中國國民黨總理孫中山先生的遺囑

總理遺囑》是中國國民黨總理、前中華民國臨時大總統孫文遺囑。1925年,孫中山病重,孫中山之子孫科文膽汪精衛戴傳賢中國國民黨要員恐怕總理未留遺囑即辭世,遂商議替總理代擬遺囑。遺囑由汪精衛於2月24日寫下[註 1]。據說孫中山非常滿意遺囑內容,一字未改。隨後,又由宋子文向孫請示,另外留下一份家事遺囑,把底稿也讀給孫聽,孫又點頭表示贊成;汪精衛取筆來,請孫親自簽名[1]:250。3月11日,孫病勢極度危險,中午孫中山由其妻宋慶齡幫助,在遺囑上簽名[1]:251宋子文孔祥熙何香凝鄒魯等,也在遺囑簽名證明[1]:251;翌日,孫逝世[1]:252

國父遺囑的國事部分

1940年4月1日,國民政府正式尊孫文為國父,國民政府亦稱《總理遺囑》為《國父遺囑[2][3]

遺囑內容

編輯

《總理遺囑》分兩部分:第一部分總結40年來國民革命成果,並為日後的革命指明方向;第二部分交代身後家事。一般提到《總理遺囑》,多指第一部份。

(一)

余致力國民革命,凡四十年,其目的在求中國之自由平等。積四十年之經驗,深知欲達到此目的,必須喚起民眾及聯合世界上以平等待我之民族,共同奮鬥。
現在革命尚未成功,凡我同志,務須依照余所著《建國方略》、《建國大綱》、《三民主義》及《第一次全國代表大會宣言》,繼續努力,以求貫徹。最近主張開國民會議及廢除不平等條約,尤須於最短期間,促其實現。是所至囑![4]

孫文 三月十一日補簽

中華民國十四年二月二十四日

筆記者 汪精衛

證明者 宋子文






(二)

余因盡瘁國事,不治家產。其所遺之書籍、衣物、住宅等,一切均付吾妻宋慶齡,以為紀念。余之兒女已長成,能自立,望各自愛,以繼余志。此囑[5]

孫文 三月十一日補簽

民國十四年二月二十四日

筆記者 汪精衛

證明者 何香凝

宋子文

鄒魯 孔祥熙

吳敬恆 孫科

邵元沖 戴季陶

戴恩賽

總理遺囑的家事部分

其他遺囑

編輯
致蘇俄遺書

1925年2月24日,孫中山在完成前兩篇遺囑後,用英語口述,由陳友仁宋子文孫科以及共產國際代表鮑羅廷記錄,起草《致蘇俄遺書》,孫中山於1925年3月11日簽字[6][7]。此份遺囑當時在中國亦僅為少數國人所知[8],並且在蘇聯刊發時出現幾種不同版本。其中文翻譯如下:

蘇維埃社會主義共和國大聯合中央執行委員會

親愛的同志:
我在此身患不治之症。我的心念,此時轉向於你們,轉向於我黨及我國的將來。
你們是自由的共和國大聯合之首領。此自由的共和國大聯合,是不朽的列寧遺產與被壓迫民族的世界之真遺產。帝國主義下的難民,將藉此以保衛其自由,從以古代奴役戰爭偏私為基礎之國際制度中謀解放
我遺下的是國民黨,我希望國民黨在完成其由帝國主義制度解放中國及其他被侵略國之歷史的工作中,與你們合力共作。命運使我必須放下我未竟之業,移交於彼謹守國民黨主義與教訓而組織我真正同志之人。
故我已囑咐國民黨進行民族革命運動之工作,中國可免帝國主義加諸中國的半殖民地狀況之羈縛。為達到此項目的起見,我已命國民黨長此繼續與你們提攜。我深信你們政府亦必繼續前此予我國之援助。
親愛的同志!當此與你們訣別之際,我願表示我熱烈的希望,希望不久即將破曉,斯時蘇聯以良友及盟國而歡迎強盛獨立之中國,兩國在爭為世界被壓迫民族自由之大戰中,攜手並進以取得勝利。
謹以兄弟之誼祝你們平安!

孫逸仙

1925年3月11日簽字,證明者:

宋子文

汪精衛

何香凝

孫科

戴恩賽

鄒魯

孔祥熙

革命尚未成功,同志仍須努力

編輯

第一份遺囑中「革命尚未成功,凡我同志,務須……繼續努力」的句子,衍生出「革命尚未成功,同志仍須努力」的句子[9]。而這句話也出現在國父紀念歌歌詞中。

遺囑影響

編輯
民國24年(1935年),黃埔軍校特別黨部執委合影
民國24年(1935年),蔣中正在總理悼念儀式上

本遺囑對中華民國的影響十分深遠,尤其是早期的革命志士。中國國民黨訓政一黨專政期間,「恭讀《總理遺囑》(《國父遺囑》)」曾經是許多公家與民間集會、會議與典禮開始時的制式程序之一[9]

2022年,中共二十大開幕日當天,男子彭立發在北京四通橋高掛反習橫幅。事前,彭立發向多名網絡大V寄出電子郵件,事後其推特頁面出現孫文遺囑亞洲自由電台報道引述「移居台灣的中國網路觀察者佐拉」說:「這種口號是幾十年來前所未見的大膽,甚至要求起義,在中國都沒有人敢在公開場合要求起義。他做了非常縝密的準備工作,除了做海報、寫罷免習的PDF文檔,上四通橋,燃煙、大喇喇掛條幅,他知道自己會被抓仍做這麼多整備工作,確實要進行孫文的說法,必須喚起民眾聯合平等待我民族的人,共同奮鬥,只是喚醒民眾必須效法孫中山。」[10]

注釋

參考文獻

外部連結

參見

致蘇俄遺書作者:孫中山

致蘇俄遺書
作者:孫中山
1925年3月11日  
姊妹計劃姊妹計劃: 數據項
蘇維埃社會主義共和國大聯合中央執行委員會親愛的同志:

我在此身患不治之症。我的心念此時轉向於你們,轉向於我黨及我國的將來。

你們是自由的共和國大聯合之首領。此自由的共和國大聯合,是不朽的列寧遺與被壓迫民族的世界之真遺產。帝國主義下的難民,將藉此以保衛其自由,從以古代奴役戰爭偏私為基礎之國際制度中謀解放。

我遺下的是國民黨。我希望國民黨在完成其由帝國主義制度解放中國及其他被侵略國之歷史的工作中,與你們合力共作。命運使我必須放下我未竟之業,移交與彼謹守國民黨主義與教訓而組織我真正同志之人。故我已囑咐國民黨進行民族革命運動之工作,俾中國可免帝國主義加諸中國的半殖民地狀況之羈縛。為達到此項目的起見,我已命國民黨長此繼續與你們提攜。我深信,你們政府亦必繼續前此予我國之援助。

親愛的同志,當此與你們訣別之際,我願表示我熱烈的希望,希望不久即將破曉斯時蘇聯以良友及盟國而欣迎強盛獨立之中國,兩國在爭世界被壓迫民族自由之大戰中,攜手並進以取得勝利。

謹以兄弟之誼,祝你們平安!

孫逸仙(簽名)

東條英機の遺書

東條英機の遺書
2015/08/10日本人の心


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若き日の東條英機閣下


上の写真は若き日の東條英機閣下です。
いかにも優秀な青年といった印象を受けます。
その東條英機閣下が東京巣鴨において刑死されたのが昭和23(1948)年12月23日のことです。
64歳でした。

東條英機閣下は、明治17年生まれ。陸軍大学を卒業し、陸軍大将となられ、改選前の昭和16(1941)年10月に、勅命をもって内閣総理大臣に就任されました。
いささか私的なことになりますが、いまの自分と同じ年代のときに、勇気を持って大きな決断をし、苦しい戦いを遂行され、その全責任を負って刑死されたということを考えると、本当にすごい人がいたのだなあと、その感慨を深くします。

その東條英機閣下には、遺書(遺言状)があります。
死の直前の文であり、そこにはまさに血を吐くような至誠が読み取れます。
この遺書は、ネットなどでもたくさん出回っていますが、なんと、そのひとりの優秀な人間の死を前にした覚悟の遺書が、なんと信じられないことに、改ざんされて出回っているのです。


たとえば、実際の遺書には
『今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の
 国民罹災者の一大追悼慰安会を行われたし。
 世界平和の精神的礎石としたいのである。』
の文が、肝心の「世界平和の精神的礎石としたい」や「慰安会」が取り払われて、
<今回の処刑を機として敵、味方、中立国の
 罹災者の一大追悼会を発起せられたし>
とされています。
『国民罹災者』がただの<罹災者>に、『慰安会』が<追悼会>に、それぞれ書き換えられ、肝心の『世界平和の精神的礎石としたい』という目的を書いた一文が欠落しています。

この部分の東條英機閣下の遺書の一文は、大東亜戦争が「有色人種の植民地支配からの脱却と独立、アジアの平和と繁栄を意図したものであった」ということが背骨となっています。
だからこそ、東条閣下はこの戦争を「精神的礎石としたい」と書いているし、そのために戦い、散華された方々についての「慰安」をしたいと書いているわけです。

それが「追悼」になると意味が変わります。
無意味な侵略戦争に強制的に駆り立てられて亡くなった人々だから「追悼」であり、東條閣下自身にその自覚があったのだ、と解釈できる余地を生むのです。
このあたりの言葉のすり替えは、非常に悪質であり巧妙です。

あるいは、遺書に
『再建軍隊の教育は、
 精神教育を採らなければならぬ。
 忠君愛国を基礎としなければならぬが、
 責任観念のないことは淋しさを感じた。
 この点については、大いに米国に学ぶべきである。』
とあります。

この文は、あきらかに「将来再建する日本軍」のことを書いています。
ところが流布されている「東條英機の遺書」の多くは、主語が「再建軍隊」ではなく、単に「教育」と置き換えられ、「忠君愛国を基礎としなければならぬ」が取り払われて、「淋しさを感じた」が「ゆるがせにしてはならぬ」に変えられています。

するとどうなるかというと、
<教育は、精神教育を採らなければならぬ。
 責任感をゆるがせにしてはならぬ>
となります。
読み比べたらわかりますが、これではまるでただの精神主義者の妄言であるかのようです。

ここで東條英機閣下が述べられていることは、一般的な青少年への教育問題ではありません。
軍隊教育についてです。
大東亜戦争末期において、現場が本部命令に背いて、進撃すべきものを現場指揮官の判断で勝手に逗留したり反転したりするような事態が、特にインパール陸戦やレイテ沖海戦など、重要な前線で顕著にみられました。
そうしたことへの痛切な反省から、『責任観念のないことは淋しさを感じた』と述べておいでなのです。
単に、<教育は大いに米国に学ぶべきである>では、全然、意味どころか趣旨自体が違ったものになります。

というわけで、実際の東條英機閣下の直筆の遺書から、直接文字起こしさせていただきました。
文章は、ほぼそのままです。
漢字等の表記のみ、現代語に訳しています。

できるだけ読みやすくなるよう、改行を多くしておきました。
一国の戦争指導者であった人物の、これが最後の遺書です。
是非、ご一読たまわればと思います。

とっても透明感のある文章です。
読むだけで、その人物の誠意が伝わってくるようで、泣けてきます。

~~~~~~~~~~~
【遺言】東條英機

開戦当時の責任者として
敗戦のあとをみると
実に断腸の思いがする。

今回の刑死は、
個人的には慰められておるが、
国内的の自らの責任は、
死をもって贖(あがな)えるものではない。

しかし国際的の犯罪としては、
無罪を主張した。
いまも同感である。

ただ力の前に屈服した。

自分としては
国民に対する責任を負って、
満足して刑場に行く。

ただこれにつき、
同僚に責任を及ぼしたこと、
また下級者にまでも
刑が及んだことは
実に残念である。
天皇陛下に対し、
また国民に対しても
申し訳ないことで、
深く謝罪する。

元来、日本の軍隊は、
陛下の仁慈の御志により
行動すべきものであったが、
一部過ち犯し、
世界の誤解を受けたのは
遺憾であった。

このたびの戦争に
従軍して斃れた人、
およびこれらの人々の
遺家族に対しては、
実に相済まぬと思っている。
心から陳謝する。
 
今回の裁判の是非に関しては、
もとより歴史の批判に待つ。
もしこれが永久平和のため
ということであったら、
も少し大きな態度で
事に臨まなければ
ならぬのではないか。

この裁判は、
結局は政治裁判に終わった。
勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
 
天皇陛下の御地位
および陛下の御存在は、
動かすべからざるものである。

天皇存在の形式については、
あえて言わぬ。
存在そのものが
絶対に必要なのである。
それは私だけでなく
多くの者は同感と思う。
空間や地面のごとき大きな恩は、
忘れられぬものである。

東亜の諸民族は
今回のことを忘れて、
将来相協力すべきものである。
東亜民族もまた他の民族と同様、
この天地に
生きる権利を有つべきものであって、
その有色たることを、
むしろ神の恵みとしている。

インドの判事には、
尊敬の念を禁じ得ない。
これをもって
東亜民族の誇りと感じた。

今回の戦争によりて
東亜民族の生存の権利が
了解せられ始めたのであったら、
幸である。
列国も排他的の感情を忘れて、
共栄の心持をもって
進むべきである。

現在の日本の事実上の統治者である
米国人に対して一言するが、
どうか日本の米人に対する心持ちを
離れしめざるように願いたい。

また、
日本人が赤化しないように頼む。
東亜民族の誠意を認識して、
これと協力して行くように
されなければならぬ。

実は東亜の多民族の協力を
得ることができなかったことが、
今回の敗戦の原因であると考えている。

今後、日本は米国の保護の下に
生活していくのであらうが、
極東の大勢はどうであらうか。

終戦後わずか3年にして、
亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。
今後のことを考えれば、
実に憂慮にたえぬ。
もし日本が赤化の温床ともならば、
危険この上ないではないか。

今、日本は米国よりの
食糧の供給その他の援助につき
感謝している。

しかし一般がもし、
自己に直接なる生活の困難や
インフレや食糧の不足等が、
米軍が日本に在るがためなりというような
感想をもつようになったならば、
それは危険である。

実際は、
かかる宣伝をなしつつある者が
あるのである。
よって米軍が、
日本人の心を失わぬよう希望する。

今次戦争の指導者たる
米英側の指導者は、
大きな失敗を犯した。

第一は、日本といふ赤化の防壁を
    破壊し去ったことである。
第二は、満州を赤化の根拠地たらしめた。
第三は、朝鮮を二分して
    東亜紛糾の因たらしめた。

米英の指導者は、
これを救済する責任を負うて居る。
従ってトルーマン大統領が
再選せられたことは、
この点に関して有り難いと思ふ。

日本は米国の指導に基づき、
武力を全面的に抛棄(ほうき)した。
これは賢明であったと思う。
しかし、世界全国家が、
全面的に武装を排除するならばよい。
然(しか)らざれば、
盗人がばっこする形となる。
泥棒がまだいるのに
警察をやめるやうなものである。

私は、
戦争を根絶するには
欲心を
取り払わねばならぬと思う。
現に世界各国は、
いずれも自国の存在や
自衛権の確保を主としている。
これはお互いに
欲心を抛棄(ほうき)
して居らぬ証拠である。

国家から欲心を除くということは、
不可能のことである。
されば世界より
今後も戦争を除くということは
不可能のことである。
これでは結局は
人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、
事実はこの通りである。
それゆえ第3次世界大戦は
避けることができない。

第3次世界大戦に於いて
主なる立場に立つものは、
米国およびソ連である。
日本とドイツというものが
取り去られてしまった。

それがため
米国とソ連というものが
直接に接触することとなった。
米・ソ2国の思想上の
相違はやむを得ぬ。
この見地からみても、
第3次世界大戦は
避けることはできぬ。

第3次世界大戦において
極東、日本とChina、Koreaが、
その戦場となる。
この時にあって米国は
武力なき日本を守の
策を立てなければならぬ。
これは当然米国の責任である。

日本を属領と考えるのであったならば、
また何をかいわんや。
そうでなしとすれば、
米国は何等かの考えがなければならぬ。

米国は、
日本人8千万国民の
生きて行ける道を
考えてくれねばならない。
およそ生物として、
自ら生きる生命は、
神の恵みである。
産児制限の如きは
神意に反するもので、
行うべきでない。

なお言いたきことは、
公・教職追放や
戦犯容疑者の逮捕の件である。
いまは既に戦後3年を
経過しているのではないか。
従ってこれは
速やかに止めてほしい。
日本国民が正業に安心して就くよう、
米国は寛容な気持ちを
もってもらいたい。

我々の処刑をもって
一段落として、
戦死病者、戦災死者、ソ連抑留者の
遺家族を慰安すること。

戦死者、戦災死者の霊は、
遺族の申出あらば、
これを靖国神社に合祀せられたし。

出征地に在る戦死者の墓には
保護を与えられたし。
従って遺族の希望申出あらば、
これを内地へ返還されたし。
戦犯者の家族には
保護を与えられたし。

青少年男女の教育は
注意を要する。
将来大事なことである。
近時、いかがわしき風潮あるは、
占領軍の影響から
きているものが少なくない。
この点については、
我国の古来の美風を
保つことが大切である。

今回の処刑を機として、
敵・味方・中立国の
国民罹災者の
一大追悼慰安会を行われたし。
世界平和の
精神的礎石としたいのである。

もちろん、
日本軍人の一部の間に
間違いを犯した者はあらう。
これらについては
衷心謝罪する。

これと同時に
無差別爆撃の投下による
悲惨な結果については、
米軍側も大いに同情し憐憫して
悔悟あるべきである。

最後に軍事的問題について一言する。

我国従来の
統帥権独立の思想は
確かに間違っている。
あれでは
陸海軍一本の行動は
採れない。

兵役制については
徴兵制によるか、
傭兵制によるかは
考えなければならない。
我が国民性に鑑みて、
再建軍の際に考慮すべし。

再建軍隊の教育は、
精神教育を採らなければならぬ。
忠君愛国を基礎としなければならぬが、
責任観念のないことは
淋しさを感じた。
この点については、
大いに米国に学ぶべきである。

学校教育は従前の
質朴剛健のみでは足らぬ。
人として完成を図る
教育が大切だ。
いいかえれば
宗教教育である。
欧米の風俗を知らすことも
必要である。

俘虜のことについては、
研究して、
国際間の俘虜の観念を
徹底せしめる必要がある。

 辞 世

 我ゆくも またこの土地に かへり来ん
 国に酬ゆる ことの足らねば

 さらばなり 苔の下にて われ待たん
 大和島根に 花薫るとき

 散る花も 落つる木の実も 心なき
 さそうはただに 嵐のみかは

 今ははや 心にかかる 雲もなし
 心豊かに 西へぞ急ぐ

~~~~~~~~~~~~~

東條英機閣下については、現代日本ではA級戦犯であり戦争犯罪者であるという評価をする方もおいでになります。
私は、ひとつの時代を責任者として真摯に生きた人を、後世の平和な日本という環境の中で、裁いたり評価したりするのは間違っていると思います。

理由は三つあります。
1 大東亜戦争の意義
2 戦争責任者
3 歴史に対する姿勢、です。

1 大東亜戦争の意義

日本は、明治維新以来、欧米列強の植民地奴隷になるか、自存自衛を図るか、そして有色人種である近隣のアジア諸国の解放を願って日清、日露、第二次世界大戦、大東亜戦争を戦いました。
大東亜戦争では、やむにやまれぬところまで追いつめられて、やむなく乾坤一擲立ち上がっています。

そして立ち上がるに際しては、ただ自存自衛のためというだけでなく、大東亜の民族自立と東亜の植民地支配からの脱却を大義として掲げました。
こういうことを「ただの大義名分だ」と馬鹿にする人がいますが、そういう見方自体が間違いです。
なぜならそこに日本人の日本人たる所以(ゆえん)があるからです。

世界の歴史を見れば、近世までは、ウシハク領主などが、自己の都合で傭兵を雇って戦争をし、それによって民間人が悲惨な境遇に陥ったとしてもまるで関知しないということが、一般的でした。
それが近代となり、国民国家が成立するようになると、国民を騙して相手国への敵意を煽り立て、それによって一種の集団ヒステリーのようなものを形成して、戦争を遂行するということが、あたりまえのように起きるようになりました。

米国が大東亜戦争に際して「Remember Perl Harbor」を標語にしたこともそうだし、いまだに中共や韓国は、抗日反日によって国民に憎悪を駆り立てることで、自国を正当化し、相手国を攻めようとしています。
ところが日本では、源平合戦や戦国の昔から、相手国への憎悪のために、あるいはウシハク領主のために戦争が遂行されたことは、歴史に見ることができません。
そういう戦いが、歴史に存在しないのです。

日本人の戦いは、常に大切なものを護るため、正道を貫くためのものでした。
だからこそ、誰もが納得できる大義名分を常に明確に掲げなければならなかったのです。

領主が民衆を私的に支配するという世界の諸国と異なり、日本では、全ての民衆は天子様の「おおみたから」です。
「おおみたから」であって、私物ではないのですから、民衆に後ろから銃を突きつけて、無理矢理前線で戦わせるなどということはできません。
また、戦いは武士が行うものであり、武士はそれぞれが領民を抱えている小領主ですから、共同して戦うなら、そこにちゃんとした「戦う意味」がなければ、誰も動かない。
武士が憎悪に煽動され、狂気に駆られたのでは、そもそも武士の名に値しません。
だからこそ日本人の戦いには、常に大義名分が必要とされたのです。
このことは、大東亜戦争も同じです。

2 戦争責任者

第二に、東條英機閣下は「戦争犯罪者」ではなく、日本の「戦争責任者」です。
戦争犯罪者というのは、非常に偏った内容を持つ東京裁判の判決による一方的な呼称です。
東條英機氏は、陛下の勅命を受けて戦時下の内閣総理大臣として、戦争を遂行した戦争の総責任者なのであって、犯罪のために戦争を遂行したわけではありません。

3 歴史に対する姿勢

三つ目は、私達自身の「歴史に対する姿勢」です。
歴史は、評価するためにあるのではありません。
学ぶためにこそあります。
何度も書いていることですが、例えば織田信長は正しかったか間違っていたのかなどと、私達が評価しても、そこには何の意味もありません。
むしろ「なぜそのとき信長はそのような決断をし行動したのか」を考え、学ぶことによって、私達は歴史を「今を生きる知恵」にし、「未来を拓く手がかり」にすることができます。
ただ「評価する」というのは、傲慢の誹(そし)りを免(まぬが)れないと思います。

ところで東條英機閣下は、明治17(1884)年の生まれで、もともとは盛岡藩に仕えた家柄です。
父の東條英教氏は、陸大の一期生を首席した人で、同期には日露戦争の奉天戦で活躍した秋山好古などがいます。

東條英機氏は、その三男で、陸軍士官学校を卒業後、関東軍参謀、陸軍次官、陸軍大臣を経て、首相に就任されました。
無責任な新聞各社が、「鬼畜米英と開戦やむなし!」などと、どこかの国の真似をして大騒ぎするなか、昭和天皇から、そのような時勢を抑えれるのは東條しかいないと言われて総理の任命を受けたというのは、有名な話です。

昭和16年12月8日、真珠湾攻撃成功の報がもたらされたとき、その日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができなかったと、東條英機氏は、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣したと伝えられています。
そして総理の職を辞した時、昭和天皇から前例のない感謝の勅語が贈られてもいます。

日米が開戦してから、約100日の間、日本は東南アジアではなく、米国領だったフィリピンや太平洋において、米陸海軍をことごとく粉砕しました。
日本国中が勝った勝ったと沸き立っっていました。

同じころ、米国内では、負けた負けたという報告ばかりです。
米国内は、負け戦のたびに失われる米兵の生命で、世論は日米開戦に踏み切ったルーズベルト大統領に対して怨嗟の声が満ち溢れる状況となりました。
米国は、とにかくなんとかして世論を鎮めなければならない。
そこで「話題つくりに」と行われたのが、「ドーリットル空襲」でした。

これは、米陸軍の長距離爆撃機を、米海軍の空母から飛ばして、日本の東京や名古屋などの都市を空爆しようというもので、米側は、これが明らかなハーグ陸戦条約違反である(一般人への無差別攻撃)ことを承知で、この空襲を実現しました。

空爆の被害はたいしたことはなく、「ドゥ?、リトルだった」という軽口も出るほどだったのだけれど、米国内では、開戦後、はじめて日本をやっつけた快挙として、おおいに戦意高揚に寄与したといいます。

このとき、空爆の際に撃ち落された米軍機の乗員が日本の捕虜になりました。
参謀本部は、「死刑にすべし!」と建言しました。
このとき東條英機氏は、これを許さず、世界中のだれが見ても正当な軍事裁判を行うことを決めています。

また、サイパン戦では、島に民間人が多数残っていたことから、民間人に死傷者を出してはならないと、東條英機総理は玉砕戦にひどく反対されています。

そして戦後、GHQが日本にやってきたとき、東條元首相の逮捕後すぐに、都内の東條邸や、青森にある東條英機の実家にまで、GHQは、「戦争を遂行した首相なのだから、どこかに隠し財産があるはずだ」と、徹底した調査を行っています。
それはそれは、とてもひどい徹底した調査だったのだそうです。

その結果は。
何も出てきませんでした。
青森で調査にあたった米軍の指揮官は、一国の総理が、こんなにまで質素な生活をしていたのかと、たいへんに驚愕し、むしろ感銘を受けて帰られました。
このことは、当時、青森でかなりの話題になった出来事です。

そして東條家のご遺族の方々にとっては、この「何もなかった」ということが、いまでも一族の誇りなのだそうです。
それこそが日本です。

私は、東條英機氏は、尊敬すべき立派な日本人であったと思います。
靖国合祀をどうのこうのという人がいますが、それこそ占領軍に媚びへつらう卑怯な人間の振る舞いだと思います。


※この記事は2013年3月の記事をリニューアルしたものです。


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元首相から戦争を知らない日本人へ





 

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