4年前に亡くなった父から聞いた話しです。
父は94歳で亡くなりましたが、戦時中の話しは殆ど聞いた事は無かったのですが、亡くなる2、3年前からポツリポツリと話しをする様になりました。その中でも印象に残っているのは、昭和20年、学徒出陣によりいよいよ出征となった時に、大学内の講堂にて壮行会が行われた際の話しでした。
壇上には、陸海軍の将官クラスのお偉方が ズラリと列席していました。それぞれ、大層ご立派な訓示を学生達に向かって朗々と述べていました。そして、最後に壇上に上がって訓示を与えたのは、父達の軍事教練を担当していた陸軍大尉でした。
普段から父達はこの教官と助教の下士官に散々しごかれていたそうです。そして、この大尉さん、なんと片腕を無くした傷痍軍人だったそうです。
当日、その制服の胸には将官クラスにも負けないほど沢山の勲章が付いており、その堂々とした姿に父は目を見張ったそうです。
そして、壇上に上がるやいなや、「今次この大戦においてこれからの君たちの行末を思うと、本官として誠に悲痛かつ遺憾に思わざるを得ない」と言う、思いもよらない第一声でした。
瞬間、会場は一斉に凍りついた様な静寂に包まれたそうです。さらに、まず自身がノモンハンでのソ連軍との戦闘において、機械化された圧倒的な火力と兵器、兵力の差により大損害を受けたこと。その無謀な作戦立案のまずさなどなど、軍部上層部に対しての強烈な批判を放ち始めました。
当然、会場には憲兵だって居ます。しかし彼はそんな事はお構いなしに、更に軍部批判の発言はエスカレートしていきます。
ところが、後ろに居並ぶ列の将軍さん達は、みな苦虫を噛み潰した様な顔をするだけで誰1人として彼の発言を遮る高官は居ません。
簡単に言えば、「日本は井の中の蛙だ、こんな勝ち目の無い戦争をおっぱじめたアホな高官や政治家の為に、優秀な君達をむざむざ殺すなんて、なんと馬鹿らしい事か。しかし、いま自分に出来る事は、少しでも君達が生き残れる様に 厳しく訓練をする以外にない。悪く思わんでくれ。そして無駄死にせず生きて帰り、将来の日本の為に尽くしてくれ」と言った内容だった様です。
もうその頃には負け戦一辺倒で、お偉いさん達もデカい顔も出来ないし、さすがに相手は多数勲章を授かったノモンハンの勇士、文句も言えなかったんだろう、とは父の弁。
それでも、数多くの同窓生との再会は果たせなかった様です。
父が亡くなる1年ほど前に聞いた話しです。
普段から厳しい軍事教練を受けていた父達は、教官の最後の訓示は、ただ立派に死んでこい、と言われるに違い無いと思っていたところ、意外な惜別の辞に心底驚いたそうです。大した訓練も出来ず前線に送られる彼らの運命が痛いほど分かる教官にとっても、おそらく辛かった事でしょう。
当時大学生だった父達は、既に日本に勝ち目は無いと解っていた様です。敗戦後、どの様に連合国側と折り合いを付けるかまで議論していたそうです。学徒出陣で海軍に志願した人達は皆還らず、実に気の毒だったと。こうして数多くの優秀な人材が失われていったのだと思います。父が生前、戦争の話をしなかったのも、こうして自分だけが生き残った、と言う自責の念からだったと気がついたのは、だいぶ後になってからでした。

ありがとうございます。
亡き父が生き残ったのは、祖母が海軍などに志願しては駄目だ、お船か飛行機に乗せられ生きては帰れないからと諭された(と言うより強制的ですが)のが理由で陸軍に入営した事だと思います。
先輩、同級生など海軍に志願した人の多くは特攻戦死など、その多くは生還できなかったようです。ところが多くの人が進んで海軍に入隊したそうです。その理由は?と聞くと「たぶん恰好が良かったからだろう、、」と。
一番堪えたのは、戦後、同じ生き残った友人と戦死した同級生のお宅に訪ねて行った際に、その母親にさめざめと泣かれて、あの時は参った、、とこぼしていました。
戦後の平和な時代を過ごしてきた私にとって、先の大戦で亡くなった先人達に、改めて感謝と哀悼の意を感じずにはいられません。
強大な敵に勝つ為には敵の中枢部を突く事で有り中世迄は敵の王様などを叩く事だったが近代では選挙によって代わりは幾らでも選ぶ事が出来るので近代戦争は消耗戦で有り兵器工場や建艦ドックを叩き兵器工場を作らせなくする事で有る。
アメリカは日本の八幡製鉄所と航空機工場を最初に特に叩いたのがそれで有る。
アメリカ太平洋艦隊を叩いただけではアメリカはエセックス空母が昭和18年以降に続々と作られていくことによって日本はこれではもう勝てない事態になる前に戦おうとした。
他方アメリカは現有勢力を無くしてもエセックス空母に代表される新勢力誕生迄持ち堪えれば良かったので早期停戦講和の必要は無かった。
日清戦争や日露戦争では敵勢力を叩いたが更に清露とも内部情勢はまもなく革命が起きる状態だったので停戦となった事がアメリカには不安要素はなかった。
すなわちアメリカ本土の建艦ドックを攻撃出来る兵器を作ってから開戦すべきで有りあの時点で可能性があるのは富嶽か伊400しかなくて富嶽は排気タービンと与圧室技術が無いしエンジンも試作段階だった。
伊400なら現実に完成していたので実行可能とおもわれるが出来たのが昭和20年以降であり遅すぎるので大和型戦艦艦4隻を作らず開戦前に伊400型60-80隻作って開戦してアメリカ艦隊撃滅後アメリカ本土の建艦ドックを攻撃すれば良い。
B29の工場は中央アメリカのウイチタにあって晴嵐は届かないがマリアナ諸島を占領されなければB29は日本本土には届かないので大丈夫です。
更に残酷な話をすると、人類史上、戦争の一番の原因となったのはある国で若者が増えて失業率が上がり過ぎた事。そして戦争になって戦死者が多数でて口減らしがある程度済むと、別にあった大義名分はどこへやらで終戦となった。
ウクライナとガザ地区の惨状は永年に渡る遺恨で違うけど、大体は失業率が上がると社会が当然不穏になり、若者は外に向かわせる事になり移民から始まりそのうち現地人と軋轢が生まれ軍が進出し・・・という流れで戦争まで行ったりする。明治中頃から主に九州から朝鮮に一儲けしようと渡ってインチキ商売する者が多数現れ明治政府の頭痛の種となり日清戦争まで起きてしまった。
その後もあちこち移民してアメリカでは制限くらい、それで満州の方に押し寄せたら馬賊が跳梁跋扈していて関東軍は何で守ってくれない!腰に差したる軍刀は竹光か!と罵られ折りからの大不況による日本全体の怒りも加わり遂に満州事変が起きたら大衆は万歳三唱。海軍もそれを見て上海事変起こしたら、これも拍手喝采。歯止めが利かなくなり大戦争へ。上が悪いというのは嘘で、あんな果てしない戦争は中央政府も参謀本部も企図した者はいなかった。
そして大量に戦死しても戦後も引き揚げ者とベビーブームで政府は国民に食わせるのに困り、移民政策は昭和30年まで続いて猪木もその頃ブラジルに渡っている。問題になっている優生保護法もその頃口減らしの意図もあって成立し乱用されてしまっている。その後高度成長期が訪れ、ようやくその苦しみから逃れる事ができた。戦争だけ見てやってはいけないと言っても意味はない。