置頂文章
東京大学の学徒動員・学徒出陣
なぜ "学徒出陣"では、主に文學部が神風特攻隊員として活躍するのだろうか?裕仁や軍部から見て、文學部の学生は思想犯や戦廢品と思われていたのだろうか?
「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟
「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟
神風の上原良司は「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の上原良司が言った。靖国神社で彼を見たのは?
#戦争の記憶
第二次世界大戦下、今から80年前の1944年10月、日本軍は爆弾を搭載した航空機ごと搭乗員が敵艦などに体当たりする特別攻撃隊=特攻を始めた。45年8月の敗戦までの10カ月間でおよそ4000人が命を落とした。その特攻隊員の中で、最も知られている1人が上原良司さんだろう。戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が掲載され、読み継がれてきた。だが、良司さんが家族に「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことはあまり知られていない。5人きょうだいの末っ子で次女の登志江さん(94)に、「上原家の戦争」を振り返ってもらった。【栗原俊雄】
3人の兄が戦死 「頭の中でぼかしながら生きてきた」
「はっきり覚えているのが、嫌なんですよ。悲しいというか……。あまり考えないように、自分の頭の中ではずっとぼかしながら生きてきました」。昨年9月、千葉県内の自宅で登志江さんは記者にそう話しつつも、亡くなった3人の兄たちや残された家族のことを語り始めてくれた。 良司さんは、長野県七貴村(現池田町)で、開業医だった父の上原寅太郎さんと母与志江さんの3男2女の三男として生まれた。 長男の良春さん、次男の龍男さんは慶応大医学部に進み、良司さんは同大経済学部に進学した。良司さんは「航空機のグラビア写真を見せてくれて『これはすごいんだよ』などと話していました」。また「ハーモニカが好きで。ときおり『わーかき血に』って歌ってもいましたね」。慶応の応援歌「若き血」だ。母と野球の「早慶戦」を観戦し、母は「すごく良かった」と話していたという。志望大学に進んだ若者の喜びが伝わってくる。 上原家の平穏な生活をよそに、日本は戦争を続けていた。37年に始まった日中戦争に続き、41年12月には米英などとの戦争も始めた。龍男さんは海軍軍医となった。43年10月22日。龍男さんが乗艦していた潜水艦「伊182」は南太平洋・ニューヘブリデス諸島方面で米軍に撃沈され、戦死した。
「人格的に問題」と上官をも批判する自由主義者
戦争が始まった後、大学など高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。だが戦況が悪化する中、文系の学徒らが陸海軍に召集され同年12月、陸海軍に入った(学徒出陣)。 良司さんは陸軍だった。地元長野県の松本第50連隊を経て翌年2月、特別操縦見習士官に合格した。その後、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊(神奈川県)から館林航空隊(群馬県)と移り、飛行訓練を重ねた。登志江さんは「航空隊に入って、勇ましいな、すごいんだと誇りに思っていました」と振り返る。 軍隊生活では個人の自由より国家、組織の秩序が優先だった。上官の部下に対する理不尽な指導や体罰、精神的いじめがまかり通ってもいた。良司さんが信条とした自由とはほど遠い環境だった。 たとえば44年5月28日。部隊の1の航空用眼鏡が行方不明になった。軍隊では持ち物を失うことは大きなペナルティーを課されることがあった。このため、何らかの理由で失ってしまった者が「戦友」のそれを盗むことがあった。この眼鏡がどうだったかは不明だが、「犯人」探しが始まった。名乗り出る者はいなかった。翌29日、良司さんらは炎天下に10時間以上立たされることになった。同日の「修養反省録」に、良司さんは書いた。「恥辱ノ日」。 「修養反省録」は、良司さんら生徒が訓練の内容や考えたことなどを書き、教官が返事を書くものだ。航空兵としての修練を重ねる一方で、良司さんは軍、上官への憤りもつのらせていたようだ。44年6月27日、記した。「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」 教官に「人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。上官の命令は絶対という軍隊にあっては極めて異例であった。教官は赤字で「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと書いた。殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。 「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるか分かっていた。それでも上原君は黙ってなかったですよ」。戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた。並外れた勇気を持つ、筋金入りの自由主義者だった。
特攻直前、敗戦覚悟し「死んだら靖国ではなく天国へ」
45年4月。良司さんが最後の帰省をした。夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」。憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。実際、聞かれたら何をされたか分からない。 良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから」 1869年、明治天皇によって「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた。戦死者は「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた。死を覚悟した兵士たちが「靖国で会おう」と約束することもあった。 戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった。遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。 帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。「さようなら、と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします」 1945年5月11日。良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。22歳。「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。登志江さんはそう話す。
「兄たちの死はなんだったのか」
45年夏に戦争は終わった。8月15日。日本政府が連合国による降伏勧告「ポツダム宣言」を受諾する。玉音放送を聞いた登志江さんは「兄たちが死んだのはなんだったんだ」と思った。 この時点で、上原家では長男の良春さんが生きていた。留守家族は陸軍軍医としてビルマ方面に派遣されていた良春さんが帰還することを信じていた。だが、良春さんは敗戦後の45年9月24日に戦病死していた。上原家は兄弟3人をすべて戦争で亡くしてしまったのだ。 長女の清子さん、登志江さんが健在とはいえ両親の悲しみも深かっただろう。それでも「両親は兄たちの話はしませんでした。泣いているところも見たことがありません。一人で泣いていたのか……。家族で『生きていたら』、なんて話したことがありません。つらすぎて、みんなそれに触れたくなかったからでしょうか」。 ただ戦後、母の与志江さんはしばしば靖国神社を訪れた。登志江さんは付き添いで行くことはあったが、自分から進んでは行かなかった。良司さんの「靖国には行かない」という言葉が胸に刻まれていたからだ。登志江さんはしかし、母に良司さんのその言葉を伝えることができなかった。「だって、母は3人がそこにいると思っていたはずですから」
未来ある若者たちが犠牲に 「特攻を美談にしないで」
良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に「所感」を書き残した。 「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。 特攻で命を落とした兵士達は「英霊」とたたえられることがある。「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。登志江さんは「そういうふうになってほしくないですね」と言う。他方、「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。 「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」
編集後記
「一年中8月ジャーナリズム」 マスメディアは「戦後○○年」という表現をよく使う。大日本帝国の戦闘は、79年前の夏に終わった。しかし、戦争による被害は終わらない。「戦後」何年たとうと、体験者たちが心身に負った傷は完全には癒えない。79年前に戦死した兄・上原良司さんを思う妹の登志江さんの言葉、「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……」が、「未完の戦争」の有りようを私たちに伝えている。 戦時下、新聞は大日本帝国政府の戦争に協力した。敗戦後の新聞は「二度と戦争に協力しない、戦争のためにペンを握らない、カメラを手にしない、輪転機を回さない」という決意から始まったはずだ。 私は、新聞ジャーナリズムの最大の役目は国家に二度と戦争をさせない事だと思っている。私が「戦争反対」と何百万回言ったところで、影響力は無いだろう。しかし、戦争になれば庶民に被害が長く深く広く及ぶことを具体的に伝えることが、「戦争なんてとんでもない」という意識の広がりにつながり、ひいては戦争抑止力になると信じている。 メディアは毎年8月、集中的に戦争報道を行う。私はそれを一年中やっていることから、「常夏記者」を名乗っている。新聞の最大の役目を果たすために、「常夏ジャーナリズム」を続けたい。
※この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。
記者來鴻:神風特攻隊情願去送死?
最不尋常的遺書中有一封來自年輕的中尉上原良治(Ryoji Uehara)。
他寫道,「明天,堅信民主的人將離開這個世界。他可能看上去很孤獨,但是,他的內心很知足。法西斯意大利、納粹德國都被擊敗了。獨裁,猶如用碎石蓋起的房子。」
記者來鴻:神風特攻隊情願去送死?

圖像來源,BBC World Service
- Author,BBC記者傅東飛
- Role,發自日本
日本提出為二戰期間日本空軍的「神風敢死隊」遺物申遺。中國強烈反駁,稱這是美化「軍國主義的人肉炸彈」、無異於美化侵略戰爭。BBC駐日本記者傅東飛採訪了一位多年致力於搜集神風遺書的日本老人,與這位當年的敢死隊的飛行員一起探討戰爭記憶。
「神風敢死隊」,成了所有瘋癲、狂熱、自我毀滅行動的代名詞。
我還記得,小時候在英國上學時,學到神風敢死隊(又稱神風特攻隊)的飛行員。在我看來,他們的所作所為難以理解。之後很長一段時間,這影響了我對日本的看法,給我留下一個時常困擾的問題:什麼原因讓大批日本年輕人情願去送死?
我一直夢想著能有機會親自去問問神風敢死隊的飛行員。
不久前的一天,我來到日本中部城市名古屋外一座舒適的民宅,按響了門鈴。沒過多久,一位老人來給我開門,他身材矮小、很有活力、衣著整潔、笑意贏面。
島津忠正(Tadamasa Itatsu)今年89歲,精神矍鑠、雙目有神,握手很有力。他說因為和我有約、取消了今天的網球賽。
很難相信,這個開朗的老頭曾經是敢死隊的飛行員。

圖像來源,BBC World Service
1945年3月,19歲的島津是一名普通飛行員。美國、英國軍艦、航母正在向沖繩集結。島津的上司問他願不願意加入「特攻隊」。
島津告訴我說,「如果沖繩島被佔,美國戰機就能夠以此為基地、攻擊日本主要島嶼。所以,我們年輕人必須阻止。1945年3月,成為神風飛行員很普通。我們所有被問到的人都同意了。」
島津的家,如同供奉犧牲戰友的神社,牆上貼滿了身穿飛行服的年輕人模模糊糊的照片。我們談話中,他一次又一次返回同一個話題:這些年輕人並不是狂熱已極,他們相信自己的行動可以讓祖國免遭災難。
島津說,「人只有一條命,這是常識。那麼,為什麼要送命呢?為什麼會自願去送命?但是當時,我認識的所有的人都表示了自願。我們需要成為勇士,阻止侵略。我們下了決心。對此我們毫無疑問。」
島津沒有死。他開著飛機朝著南方的目標飛去,飛機引擎出故障,他在海上迫降,返回基地。但是,在他再次嘗試之前,戰爭結束了。
戰後很多年,島津從不向外人提起這個故事。活了下來,讓他感覺很羞愧。島津說,他想過自殺,但是沒有勇氣。
時光推移,1970年代,他開始聯絡當年陣亡同志的家屬,收集老照片、家書。他的收藏品成為現在我們所說的「神風遺書」的重要組成部分。
島津從長長的硬紙筒中抽出一張薄紙,小心翼翼地打開,讀了起來。

圖像來源,BBC World Service
「親愛的媽媽,不能更多照顧您,是我一大遺憾。但是,作為天皇的戰士而死,是光榮。不要悲傷。」
好多遺書表述的都是這樣的主題。看上去好像證實:整整一代日本人被洗腦、放棄自我、盲目效忠天皇。
但是也有其他一些遺書,從中可以看出,一小部分神風敢死隊的飛行員並沒有囫圇吞下宣傳;甚至還有一些人,看上去並不認同日本的事業。
最不尋常的遺書中有一封來自年輕的中尉上原良司(Ryoji Uehara)。
他寫道,「明天,堅信民主的人將離開這個世界。他可能看上去很孤獨,但是,他的內心很知足。法西斯意大利、納粹德國都被擊敗了。獨裁,猶如用碎石蓋起的房子。」
那麼,我們應該怎樣看待神風遺書?神風敢死隊的遺物應不應該收入聯合國教科文組織《世界記憶名錄》?
島津認為,當然應該。他形容,遺物是「傳給後代的寶貴財產」。但是,即使是今天、有70年的後見之明作後盾,島津對他和同志的過去依然令人驚訝地缺乏反思。

圖像來源,BBC World Service
他說,「我從不帶著遺憾看過去。死了的人都是自願去死的。當時我想,活下來運氣真糟糕。我真的想和他們一起死。相反,我需要把努力集中在保護他們的記憶上。」
日本對戰爭的記憶有很大的問題。著名政客、媒體人仍然經常出面表示擁護荒謬的歷史修正版—日本從來沒有發動戰爭,南京大屠殺根本沒有發生,成千上萬的慰安婦都是「心甘情願」地去給日本軍人作性奴。
二戰末期,日本城市受到大規模轟炸,特別是廣島和長崎的原子彈爆炸,給日本提供了「受害者」說的基礎。日本是唯一一個遭受原爆的國家;東京大轟炸,僅僅一個晚上,就造成至少10萬平民喪生。
但是,說起戰爭恐怖之時,被忽略的一點常常是:這一切都是如何發生的。
同樣,不忘那些年輕飛行員的犧牲,這樣的願望可以理解。不過,看上去經常被遺忘的一個問題:怎麼走到的這一步?
(編譯:蘇平/責編:李莉)
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