轉念、轉向才是戰後日本經濟復興的原因
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轉念、轉向才是戰後日本經濟復興的原因
轉念、轉向才是戰後日本經濟復興的原因
“我们曾是牺牲品的时代”——学徒出征80周年 壮行会 答辞的真相
川岛先生 “当游行开始时,现场响起‘哇’的一片欢呼声,看台上的女学生们齐声高唱《海ゆかば》时,我的心情是复杂的,既有喜悦,也有悲伤,还有无力感。学生代表以‘我们是为了国家’为题发表答辞,起初声音低沉悲壮,但逐渐变得热情高涨。我完全感同身受,我们正处于‘牺牲的时代’,为了后代的年轻人,我们只能不惜一切代价奉献生命和身体,这种悲壮的决心。”
江桥先生(2016年证言) “那卷纸不是我写的。虽然有人说‘你来当代表’或‘去写代表的演讲稿’,但实际上是学生委员会的老师们修改后交给我。我最初写的是‘我会精神饱满地去’之类的话。”
新藤浩伸准教授 “当时的教师们,即便在战时,也怀着作为研究者的信念,或是类似父母般的心意,希望学生们在大学期间至少能专心学术,尽可能引导他们投入学习并保护他们。然而仅靠教师们的力量无能为力,这或许就是80年前全国范围内举行那样仪式,并修改答辞的原因吧。”
川岛先生 “在学校里,我们被教导说‘为了杀死敌人,不择手段,自己的生命要自己处理’。成为战俘意味着玷污祖先的名誉,所以活着是没有意义的。保卫日本意味着我活着就是保卫,这是理所当然的,是一种对死亡的淡然态度,所以并不害怕。现在回想起来,真是可怕。”
川岛先生 “得知战争结束时,因为被灌输日本会胜利的观念,虽然对失败感到遗憾,但想到每天的轰炸终于停止,也感到一丝轻松,各种情绪交织在一起。然而战后,当时日本有很多士兵认为‘我们并没有完全失败’,‘真正的战争才刚刚开始’,他们告诉我‘要保护美国’。就在不久前,我在明治神宫外苑为东条英机举行阅兵式时,还挺着胸膛流着泪宣誓要保卫国家,没想到几年后却要保护美国,这到底是怎么回事呢?即使活了下来,那也是悲惨的青春。”
「我々は捨て石の時代だった」学徒出陣80年 壮行会 答辞の真実
川島さん 「行進が始まると『わー』っと大歓声があがり、スタンドの女子学生が『海ゆかば』を大合唱したときの気持ちは、嬉しかったり、悲しかったり、情けなかったりと複雑だった。学生の代表が『われわれは国のために』と答辞をして、最初は悲壮な声が低かったけど、だんだんと燃えるような声になっていったのを覚えている。全くの同感で、われわれは『捨て石の時代』であとの時代の若い連中のためにわれわれが命も体も全部投げ打っていくしかないという、悲壮な覚悟だった」
江橋さん(2016年の証言) 「あの巻紙は僕が書いたんじゃないんだよ。『おまえが代表をやれ』とか『代表の文章作ってこい』と言われたけど、学生委員の先生方が添削したものを僕に渡したんだ。(最初に書いたのは)『元気で行ってきます』っていうようなもんです」
新藤浩伸准教授 「あの当時の教師たちは、戦時下にあっても大学にいる間はせめて学問に打ち込んでもらおうという研究者としての信念、あるいは親心のようなものがあって、できるだけ学生を学問に向かわせてあげたい、守ってあげようという思いがあったと想像できます。それでも教員たちだけではどうしようもなく、それが80年前に国全体であのような儀式を行い、そしてその答辞にも手を加えるということになったのではないか」
川島さん 「学校では『敵を殺すためには何でも手段を選ばない、そして自分の命は自分で処理しろ』と言われましたね。捕虜になるということは先祖に泥を塗ることだから生きていけないと思え、と。日本の国を守るっていうことは俺自身が生きていることであり、守るの当たり前だっていう死の諦観というのか、怖くないんだね。いま思うと恐ろしいよ」
川島さん 「終戦を知った時は、日本が勝つという気にさせられていたので、負けたことへの悔しさはあったが、毎日あった爆撃がもうこないと思うとほっとする部分もあり、いろんな感情がミックスした気持ちだった。ところが敗戦後、当時日本には『完全に負けたんじゃない』、『これからが本物の戦争だ』という兵隊がいっぱいいたので、その連中からアメリカを守ってなさいと言われたんです。ついこのあいだ神宮外苑で東条英機の前で行軍して胸張って涙流して国を守るとやってたのが、数年も経たないうちにアメリカを守れと、どういうことになっているだと思いましたね。生き残っても悲しき青春でした」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231031/k10014241911000.html
新藤博信副教授
:「我想,當時的老師們,作為研究人員,即使在戰爭時期,也希望學生至少在大學期間能夠專心學習,並懷著一種家長般的情懷,希望盡可能地引導學生專心學習,保護他們。但即便如此,單靠老師們也無能為力,所以80年前全國舉行了那個典禮,辯詞也大概做了修改,這就是為什麼吧。
川島:
“在學校裡,我們被告知‘必須不惜一切代價殺死敵人,保住自己的性命。’我們被告知,被俘意味著給祖先丟臉,我們活不下去。保衛日本意味著我還活著,所以我對死亡抱有一種‘認命’的態度,認為保衛日本是理所當然的,所以我並不害怕。現在想,我當時真的感到恐懼,我當時真的感到恐懼。”
川岛先生
“当我得知战争结束时,因为一直被灌输日本会胜利的观念,虽然对失败感到懊悔,但想到每天的轰炸终于停止,心中也有一丝轻松,各种情绪交织在一起。然而战后,当时日本有很多士兵认为‘我们并没有完全失败’,‘真正的战争才刚刚开始’,他们告诉我‘要保护美国’。就在不久前,还在神宮外苑东条英机雕像前列队行进,挺胸流泪誓言保卫国家,没想到短短几年后竟被要求保卫美国,这究竟是怎么回事呢?即使幸存下来,那也是悲惨的青春。”
江橋:
「現在回想起來,那顯然是個錯誤,但當時你無法意識到這一點。信息受到控制,只能單向發布。所以,你不應該用今天的眼光看待那段時光。我想對今天的年輕人說,請不要犯我們曾經犯過的錯誤。青春一去不復返,我希望你們決定從這個意義上來說,我們不再是這個意義。
川島說
:「每當我緬懷逝去的摯友,我都會由衷地感受到和平的珍貴。戰爭無論勝敗,都會失去所有的熱情,隨之而來的是焦慮、恐懼和失望。只要學生的教育不被打斷,他們就能重拾信心、希望和勇氣。正因如此,派遣學生參戰才顯得格格不入。」 「
我認為,當時全國上下都存在著一種傾向,只要接到命令,就拿起竹矛,團結起來,帶頭衝鋒。所以,愛國之心很沉重,制約權力也很重要。我們難道不應該更加謙遜,傾聽不同的意見嗎?”
「我々は捨て石の時代だった」学徒出陣80年 壮行会 答辞の真実
2023年10月31日 18時07分
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「我們的時代是犧牲的時代」——學生運動80週年歡送儀式致詞背後的真相
2023年10月31日 18:07
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「我們不指望活著回來」
——從一開始就沒有活著回來的打算——
這是80年前太平洋戰爭期間「學生總動員」歡送儀式上,一位學生代表說的話。
從這位學生的證言中可以清楚看出,這句原本旨在鼓舞鬥志的話語,實際上被大學相關人員竄改了。
「我們處在一個充滿犧牲的時代。」
我們調查了導致許多年輕人在未能實現學業目標之前就獻出生命的歷史教訓。
(社會事務部記者 富田亮)
“我從沒想過自己能活著回來。”
1943年,太平洋戰爭爆發。
由於兵源不足,日本戰敗的可能性越來越大,被緩徵的大學和高中文科生被派往戰場。
文部省在全國各地以及滿洲地區舉行了送別儀式。
10月21日,東京「學生出戰送別儀式」在明治神宮外苑(現國立競技場)舉行。
來自關東地區77所學校(包括現在的東京大學、一橋大學、早稻田大學和慶應義塾大學)的約25,000名學生,手持步槍,在連綿雨水造成的泥濘地面上,伴著進行曲行進。
1943年10月21日歡送會
據說,約有6.5萬人聚集在看台上觀看,其中包括學生家屬、理工科系學生以及繼續延期服兵役的女學生。
針對東條英機首相的講話,一名學生代表做出如下回應:
「我要拿起那把必殺之刺刀,把我多年的辛勤付出和辛勞都奉獻給這項光榮的責任,用我的身體去消滅頑固的敵人。
」「從一開始,我就沒有活著回來的希望」 ——他們根本沒有活著回來的責任——他提高了聲音,代表著那些奔赴戰場送死的決心。
當時報道學生動員的視頻日本新聞 第177期 學生動員
“這是一個犧牲的時刻。”
「我們穿著綁腿,在雨中行進,『恰恰恰恰,嗒嗒嗒』的校旗聲在空中迴盪。我當時在學校門口,但校旗因為雨水而顯得沉重,」
家住仙台的舊生東川島(99歲)說道。
川島在歡送會上擔任專脩大學的旗手,站在學校門口。
當時遊行隊伍由東京帝國大學領隊,專脩大學則排在第18名。
每個學校都組成一個大隊,他們手持校旗和寫有大隊名稱的小旗,在學生帽和製服上套著綁腿,並攜帶步槍。
川島回憶說,歡送會上看台上聚集的人們的熱情以及學生代表的發言讓他深受感動,他努力讓自己相信,自己會在學習期間被派往戰場。
東川島
川島說:
「遊行開始時,歡呼聲震天動地,看台上的女學生們齊聲唱起《海浴場》時,我感受到了複雜的情緒——快樂、悲傷、悲涼,各種情緒都有。學生代表發表了回應發言,說『我們是為了國家』。我記得,一開始那聲音低沉而憂鬱,但漸漸地,它變得越來越激昂。
更正後的“回覆”
80年前的歡送會上,當時就讀東京帝國大學的二年級學生江橋信四郎代表學生致詞
。江橋信四郎表示,自己決心以赴死的決心奔赴戰場,他說:「我們學生當然不指望活著回來。」
江橋信四郎作為學生時代沒有上過戰場,親眼目睹了戰爭的結束,據說他多年來都沒有談論過戰爭。
然而,戰後60多年,他開始談論戰爭,並表示:「我希望人們向我學習。」
他在證言中透露,那次演講的內容是在大學的倡議下創作的。
江橋(2016年證詞):
“那卷不是我寫的。有人跟我說‘你來當代表’,‘寫個代表聲明’,結果學生會的老師修改了一下,就給了我。(我寫的第一句話)是‘我鬥志昂揚地去’之類的。”
江橋表示,原文是“一篇比較簡短的文章”,但經過學校人員的編輯,變成了一篇鼓舞士氣的英雄之作。
為什麼要編輯回覆?
東京大學研究生院副教授新藤博信聽取了這項證詞,他目前仍在研究學生動員。
新藤博信表示,當時的老師們不一定支持學生動員。
事實上,根據新藤博信的研究,老師和大學的態度是保護學生免受當前局勢的影響,讓他們專心學習。
那麼,江橋的回覆為什麼要被編輯呢?
當時,日本正大力宣傳鼓舞國民鬥志,「學生也應該參戰」的輿論日益高漲,學生動員已成必然。
新藤博信指出,在這種背景下,大學裡有人可能編輯了回复,使其適合在歡送儀式上使用,以鼓舞鬥志。
東京大學研究所副教授 Hironobu Shindo
新藤博信副教授
:「我想,當時的老師們,作為研究人員,即使在戰爭時期,也希望學生至少在大學期間能夠專心學習,並懷著一種家長般的情懷,希望盡可能地引導學生專心學習,保護他們。但即便如此,單靠老師們也無能為力,所以80年前全國舉行了那個典禮,辯詞也大概做了修改,這就是為什麼吧。
“雖然活了下來,但那是一個悲傷的青春。”
一些參戰的學生後來成為“神風特攻隊”,駕駛飛機撞向敵艦而犧牲。
據說參戰的學生多達10萬,但因空襲期間記錄被燒毀,具體數字已無法考證。
川島東作為專脩大學的旗手參加了送別會。
送別會結束後,他的同學們紛紛被徵召入伍,但他卻沒有被徵召,並於同年9月大學畢業。他
進入日本國鐵工作,到任第二天就被命令進入陸軍預備役軍官學校。
僅僅六個月後,他就被分配到陸軍部隊。
每當得知大學同學和部隊戰友被派往戰場犧牲的消息,他都要親自赴死的決心就更加堅定。
川島:
“在學校裡,我們被告知‘必須不惜一切代價殺死敵人,保住自己的性命。’我們被告知,被俘意味著給祖先丟臉,我們活不下去。保衛日本意味著我還活著,所以我對死亡抱有一種‘認命’的態度,認為保衛日本是理所當然的,所以我並不害怕。現在想,我當時真的感到恐懼,我當時真的感到恐懼。”
後來,為了回應美軍在相模灣的登陸,川島先生被調往橫濱氣像台,擔任氣象通訊組組長。
戰爭結束之際,他正在繪製氣象圖。
當時的川島
然而川島的軍事活動並未就此結束。
由於他擁有大學學歷,且被認為能夠聽懂英語,他被美軍命令守衛盟軍最高司令麥克阿瑟將軍等人在橫濱下榻的酒店。
川島:
「聽到戰爭結束的消息時,我一直被灌輸日本會贏的觀念,所以既難過我們輸了,又因為不再有每天的轟炸而感到輕鬆,百感交集。然而,戰爭結束後,日本有很多士兵認為‘我們還沒有真正輸掉’,‘真正的戰爭才剛剛開始’,所以他們告訴我要保衛美國。
現在的大學生...
東京大學研究生院副教授新藤博信持續進行學生動員研究。
為了讓與退伍士兵同輩的學生對戰爭產生興趣,過去10年來,他一直安排課堂時間,讓學生了解退伍士兵的話語,例如參觀展示著學生們臨終遺書的“海之聲紀念館”,以及讓學生聆聽他迄今為止錄製的採訪內容。
新藤副教授
:「我們往往把戰爭想像成教科書裡發生的事情,是歷史上發生過的事情。但它並非遙遠的過去。在那裡戰鬥的人們是80年前走過同一所大學校園的先輩們,它並非與你們無關的事情。我希望人們理解,戰爭歷史遺留問題,而是今天影響我們每個人的問題。」
一名名叫岡奈月 (Natsuki Oka) 的大學四年級學生在參加了 Shindo 的課程後,開始主動宣傳學生動員運動。
甘夏希
去年他隨班參觀紀念館,第一次看到學生的遺囑和日記時,他意識到這些學生和他是同一代人。
岡奈月:
“當我聽說下午居然還有訓練時,我心裡湧起一股強烈的感動,心想,我在學習的時候,他們好像在訓練,或者他們肯定已經被派往戰場了,或者正在戰場上。”
岡在今年5月的大學節上,為展示東京大學學生遺留物品的計畫製作了傳單和宣傳影片。今年
10月,他作為工作人員參與了「和田津美之聲紀念館」學生動員80週年特別展,並將繼續盡自己所能。
雖然要突然引起人們對學生動員和戰爭歷史的興趣可能很困難,但岡希望先創造一個讓人們自己思考的機會。
岡:
“日本曾經有過一段不太平的時期,我認為讓人們知道學生們曾經被迫參戰的那些情況很重要。即使你周圍的人說‘戰爭不會降臨到你頭上’,或者‘你需要為和平做出更多貢獻’之類的話,我認為這也無法改變人們的根本態度。”
80年前學生的留言
在那個以國戰為榮、以現代價值和標準為準則的時代,那些在戰場上犧牲的學生們的感受難以言喻。
然而,這些昔日的學生們留下了寶貴的寶貴訊息,希望人們在回顧80年前的往事時能夠學習。
江橋:
「現在回想起來,那顯然是個錯誤,但當時你無法意識到這一點。信息受到控制,只能單向發布。所以,你不應該用今天的眼光看待那段時光。我想對今天的年輕人說,請不要犯我們曾經犯過的錯誤。青春一去不復返,我希望你們決定從這個意義上來說,我們不再是這個意義。
川島說
:「每當我緬懷逝去的摯友,我都會由衷地感受到和平的珍貴。戰爭無論勝敗,都會失去所有的熱情,隨之而來的是焦慮、恐懼和失望。只要學生的教育不被打斷,他們就能重拾信心、希望和勇氣。正因如此,派遣學生參戰才顯得格格不入。」 「
我認為,當時全國上下都存在著一種傾向,只要接到命令,就拿起竹矛,團結起來,帶頭衝鋒。所以,愛國之心很沉重,制約權力也很重要。我們難道不應該更加謙遜,傾聽不同的意見嗎?”
社會部記者
富田亮
於2013年加入NHK ,
曾在長崎分社報道原子彈爆炸等戰爭相關議題以及文化遺產相關議題。在科學文化部工作後,他繼續在社會部報道戰爭與和平相關議題。
(10月22日新聞7台播出)
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「生等もとより生還を期せず」
ーはじめから生きて帰るつもりはないー
80年前の太平洋戦争中に行われた「学徒出陣」の壮行会で、学生代表が述べたことばです。
戦意を高揚するこのことば、実は大学の関係者によって手が加えられていたものだったことが本人の証言で分かってきました。
「我々は捨て石の時代だった」
多くの若者が学業の志半ばで命を落とすことになった歴史の教訓を取材しました。
(社会部 記者 富田良)
「もとより生還を期せず」
太平洋戦争中の1943年。
日本の敗色が濃くなる中、兵員の不足から、徴兵を猶予されていた大学や高等学校などの文科系学生・生徒も戦地に送られることになりました。
文部省主催の壮行会が全国各地や満州などで開かれます。
10月21日、明治神宮外苑競技場(いまの国立競技場)で行われた東京の「出陣学徒壮行会」
現在の東京大学や一橋大学、早稲田大学、慶応大学など関東近郊の77校の学徒およそ2万5000人が行進曲に合わせ、降り続く雨でぬかるんだ地面を小銃を担いで行進しました。
1943年10月21日の壮行会
スタンドでは学徒の家族らのほか、引き続き徴兵猶予された理工系の学部や女子学生など、学校ごとに集められた約6万5000人が見守ったとされています。
東條英機首相による訓示に対し、学生の代表はこう答辞を述べました。
「見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん」
「生等もとより生還を期せず」
ーはじめから生きて帰るつもりはないー
声を張り上げ、戦地に赴く決死の覚悟を代弁しました。
学徒出陣を伝えた当時の動画日本ニュース第177号 学徒出陣
「捨て石の時代だった」
「雨の降る中をゲートル巻いて、チャッチャッチャ、タッタッタと鳴り響いて行進しましたね。私は学校の先頭だったんですが、校旗が重いんですよ、雨で」
こう語るのは仙台市に暮らす元学徒の川島東さん(99)です。
川島さんは壮行会では専修大学の旗手として、学校の先頭に立っていました。
行進は当時の東京帝国大学を先頭に、専修大学は18番目だったといいます。
学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服にゲートルを巻いた姿で小銃を担いで行進しまた。
川島さんは、壮行会でスタンドに集まった人たちの熱気や学生代表の答辞に心を揺さぶられながら、学業半ばで戦地にかり出されることを自分自身に納得させようとしていたと振り返ります。
川島東さん
川島さん
「行進が始まると『わー』っと大歓声があがり、スタンドの女子学生が『海ゆかば』を大合唱したときの気持ちは、嬉しかったり、悲しかったり、情けなかったりと複雑だった。学生の代表が『われわれは国のために』と答辞をして、最初は悲壮な声が低かったけど、だんだんと燃えるような声になっていったのを覚えている。全くの同感で、われわれは『捨て石の時代』であとの時代の若い連中のためにわれわれが命も体も全部投げ打っていくしかないという、悲壮な覚悟だった」
添削されていた”答辞”
80年前の壮行会で学生代表として答辞を述べたのは、当時、東京帝国大学2年生だった江橋慎四郎さんです。
「生等もとより生還を期せず」と決死の覚悟で戦地へ赴く決意を述べた江橋さん。
学徒として戦地に行かずに終戦を迎えた江橋さんは、長年、戦争について語ることは無かったといいます。
しかし、戦後60年以上が経過してから「自分を教訓にしてほしいと」と証言をするようになったそうです。
その証言で、答辞の内容は大学側が主導して作ったものだったことを明らかにしていました。
江橋さん(2016年の証言)
「あの巻紙は僕が書いたんじゃないんだよ。『おまえが代表をやれ』とか『代表の文章作ってこい』と言われたけど、学生委員の先生方が添削したものを僕に渡したんだ。(最初に書いたのは)『元気で行ってきます』っていうようなもんです」
江橋さんによると、もともとは「そっけない文章だった」という内容が、大学関係者の添削によって戦意を高揚させる勇壮な文章に変わっていたのだといいます。
なぜ答辞は添削されたのか?
証言を聞き取ったのは、学徒出陣の調査・研究を続けている東京大学大学院の新藤浩伸准教授です。
新藤さんによると、当時の教員たちは必ずしも学徒出陣を支持していたわけではないといいます。
実際に、新藤さんの調査によれば、学生を時局から守り、勉学に集中してもらおうとする教員たちや大学側の姿勢があったといいます。
ではなぜ江橋さんの答辞は添削されたのか。
当時は国民の戦意を高揚させるプロパガンダが展開され「学徒も出征すべきだ」という世論も高まったことで、学徒出陣は避けられない状況となっていました。
そうした背景から、戦意高揚の儀式として開かれた壮行会としてふさわしい答辞になるよう、大学関係者が手を加えたのではないかと新藤さんは指摘します。
東京大学大学院 新藤浩伸准教授
新藤浩伸准教授
「あの当時の教師たちは、戦時下にあっても大学にいる間はせめて学問に打ち込んでもらおうという研究者としての信念、あるいは親心のようなものがあって、できるだけ学生を学問に向かわせてあげたい、守ってあげようという思いがあったと想像できます。それでも教員たちだけではどうしようもなく、それが80年前に国全体であのような儀式を行い、そしてその答辞にも手を加えるということになったのではないか」
「生き残っても悲しき青春でした」
その後、出陣した学徒の一部は「特攻隊」として飛行機ごと敵艦に体当たりして亡くなっていきました。
出陣した学徒は、10万人とも言われていますが、空襲で記録が焼けるなどしたため、正確な人数は分かっていません。
専修大学の旗手として壮行会に参加した川島東さん。
壮行会のあと学友たちが次々と徴兵される一方で招集がかからず、よくとしの9月には大学を卒業。
国鉄への就職が決まり、勤務地に到着した翌日、陸軍の予備士官学校への入校を命じられます。
それからわずか半年あまりで陸軍の部隊に配属。
戦地に送られた大学の同級生や部隊の仲間の戦死の知らせが届くたびに、”自分も戦地で死ぬのだ”という覚悟を強めていったといいます。
川島さん
「学校では『敵を殺すためには何でも手段を選ばない、そして自分の命は自分で処理しろ』と言われましたね。捕虜になるということは先祖に泥を塗ることだから生きていけないと思え、と。日本の国を守るっていうことは俺自身が生きていることであり、守るの当たり前だっていう死の諦観というのか、怖くないんだね。いま思うと恐ろしいよ」
その後、川島さんは、アメリカ軍が相模湾から上陸することに備えて異動となり、横浜気象台で気象伝達の班長となります。
終戦は、天気図を作成していた時に迎えました。
当時の川島さん
しかし、川島さんの軍での活動はこれで終わりではありませんでした。
大卒だっため英語が理解できると見なされ、アメリカ軍の指令でGHQのマッカーサー最高司令官などが滞在していた横浜のホテルの警備を命じられたのです。
川島さん
「終戦を知った時は、日本が勝つという気にさせられていたので、負けたことへの悔しさはあったが、毎日あった爆撃がもうこないと思うとほっとする部分もあり、いろんな感情がミックスした気持ちだった。ところが敗戦後、当時日本には『完全に負けたんじゃない』、『これからが本物の戦争だ』という兵隊がいっぱいいたので、その連中からアメリカを守ってなさいと言われたんです。ついこのあいだ神宮外苑で東条英機の前で行軍して胸張って涙流して国を守るとやってたのが、数年も経たないうちにアメリカを守れと、どういうことになっているだと思いましたね。生き残っても悲しき青春でした」
今の大学生たちは…
学徒出陣の調査・研究を続けている東京大学大学院の新藤浩伸准教授。
学徒と同世代の学生たちに関心を持ってもらおうと、10年ほど前から授業の中で、学徒の遺書を展示する「わだつみのこえ記念館」の見学やこれまで記録した元学徒のインタビューを聞いてもらうなど、学徒のことばに触れる時間を作ってきました。
新藤准教授
「戦争というものは教科書の中の出来事、歴史の中の出来事のように感じてしまいがちです。しかし決して遠い日の出来事ではなく、今、同じ大学の同じキャンパスで80年前に歩いていた君たちの先輩なんだと、自分と無関係な存在ではないということをまずは感じてもらいたい。戦争っていうものを歴史ではなくて、今の私たち一人ひとりと関わる問題として捉えてほしい」
新藤さんの授業をきっかけに、学徒出陣を伝える取り組みを始めた学生もいます。
大学4年生の岡夏希さんです。
岡夏希さん
去年授業で記念館を訪れ、学徒たちの遺書や日記を初めて目にし、学徒が自分たちと同世代の学生だったことに気づかされたといいます。
岡夏希さん
「実際に授業の午後が訓練だったということもあったというお話を聞いていくと、今自分が勉強している時間に訓練していたのかとか、もう出陣していたんだろうな、戦地にいたんだろうなって思うと、グッとくるような、胸が詰まるような感情がわき起こってきます」
岡さんは、ことし5月の大学祭で東京大学の学徒が残した遺品を展示する企画でチラシや広報動画を制作。
ことし10月には、わだつみのこえ記念館が開いた学徒出陣80年の企画展でスタッフとして携わるなど、自分ができることを続けています。
学徒出陣や戦争の歴史について、急に大勢の関心を高めていくことは難しくても、まずは自分で考えるきっかけを作りたいと岡さんは考えています。
岡さん
「日本にも平和じゃない時代というものがあり、当時の学生たちが戦場に行かなくてはいけなかったような状況だったことを知ってもらうことがまずは大事だと思います。周りの人が『戦争は他人事じゃないんだよ』とか、『平和のためにもっと活動していかなくちゃいけないんだよ』ということを言っても、そこはなかなか根本的な意識は変わらないと思う」
80年前の学徒からのメッセージ
国のために戦うことが当たり前だとされた時代に戦地で命を落とした学生たちの思いを、現代の価値観や尺度だけで語ることはできません。
しかし元学徒たちは、80年前を振り返り、教訓として学んでほしいとメッセージを残しています。
江橋さん
「今考えるとそれは間違いだったっとはっきりしているけど、その当時はそんなことは分からないんだよ。情報が統制されて、一方的にしか流されないわけだから。だから今の時代感覚でその当時を考えてはいけないわけよ。今の若者に言いたいのは、僕らと同じ過ちはしないでほしいということ。青春は二度と返ってこないんだからもっと青春時代の生き方を大事にしてほしい。そしてこういう過ちは二度としませんという決意をして下されば、教訓として生かされるからね。だからそういう意味で歴史っていうのはすごく大事なんだ」
川島さん
「今、亡くなった友を思い出しながら、平和がいかに貴重なものかを心にしみています。戦争は勝っても負けても、勝っても負けても不安と恐怖と失望、すべての情熱を失ってしまいますよ。学徒の教育が中断されない限り、自信と希望と勇気がまた出てくるんです。だから学徒出陣なんて、とんでもないことだ」
「やれって言われれば竹槍をもって一緒になって先になって行くきらいが国民全体にあったのではないか。だから国を愛する気持ちというのは重いものだし、権力を監視するっていうのは大事だと思うな。異なる主張でも謙虚に耳を傾けてるべきじゃなかったのか」
社会部記者
富田良
2013年入局
長崎局で原爆を中心に戦争関連の課題や文化財をめぐる問題点などを取材。科学文化部を経て社会部で戦争や平和に関する取材を続けている。
(10月22日 ニュース7で放送)
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