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「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 

「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 

神風の上原良司は「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の上原良司が言った。靖国神社で彼を見たのは?

https://jp.quora.com/unanswered/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E3%81%AE%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%8F%B8%E3%81%AF-%E6%A8%A9%E5%8A%9B%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AF%E5%9C%9F%E5%8F%B0%E7%9F%B3%E3%81%AE%E5%A3%8A%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%BB%BA



#戦争の記憶


自殺式飛行員的哥哥向妹妹吐露戰敗的決心時留下的話#戰爭的回憶


神風自殺飛行員的哥哥留下的話,他向妹妹吐露了自己即使死也不會去靖國的決心 #Memories of War
2023年9月21日,千葉縣松戶市(後藤裕也攝影),上原良治的妹妹利江(利江是上原良治的妹妹,學生時參戰,後因 「自殺式襲擊 」喪生)。

 80 年前的 1944 年 10 月,第二次世界大戰期間,日本軍方發動了自殺式襲擊,用載有炸彈的飛機撞擊敵方船隻等,在 1945 年 8 月戰敗前的 10 個月內,約有 4000 人喪生。 在這些神風特攻隊飛行員中,最為人熟知的可能是上原良治(Ryoji Uehara)。 他在遺書《Ki Wadawami no Koe》中寫道:"明天,一個自由主義者將離開這個世界。 他的遺書被收錄在戰死者遺集《箕輪之歌》中,世代閱讀流傳。 五兄妹中最小的二女兒利江(Toshie,94 歲)回顧「上原家的戰爭」。 栗原敏夫

三個哥哥在戰爭中死去:'我這一生都在腦海中模糊它。
自殺襲擊者的哥哥留下遺言,向妹妹吐露心聲#戰爭的回憶
上原家三兄弟。 從右至左:義晴,背景是良治和辰雄;約於 1923 年由父親 Torataro 拍攝(由 Toshie 提供)。

 我不喜歡我記得如此清楚的事實。 這是悲哀或 ....... 我這一生都在模糊記憶,所以不會想太多。 去年 9 月,在千葉縣的家中,利江對記者說了這番話,卻開始談起她已故的三個哥哥和其他家人。  良治出生在長野縣七木村(現池田町),是父親上原虎太郎(Torataro Uehara)和母親吉江(Yoshie)三子二女中的第三個兒子。  長子 Yoshiharu 和次子 Tatsuo 在慶應義塾大學攻讀醫學,而 Ryoji 則在同一所大學攻讀經濟。 Ryoji "給我看飛機的凹版照片,告訴我「這太神奇了」這樣的話"。 他還說:"他喜歡吹口琴。 他有時會唱'Waki ki ki ni'。 慶應義塾的加油歌'Young Blood'。 他和母親一起看早稻田和京王的棒球比賽,母親說「非常好」。 年輕人考上心儀的大學,喜悅之情溢於言表。  儘管上原一家過著和平的生活,但日本仍在繼續發動戰爭:繼 1937 年開始的中日戰爭後,1941 年 12 月,日本與美國、英國等國開戰。 Tatsuo-san 於 43 年 10 月 22 日成為一名海軍醫生。 1943 年 10 月 22 日,Tatsuo 所服役的 I-182 潛艇在南太平洋的新赫布里底群島方向被美軍擊沉,他在戰鬥中陣亡。

自由黨連上司都批評 「人品有問題」
上原良治(左)與辰雄(俊江提供)。

 戰爭爆發後,在大學等高等教育機構就讀的學生被免除徵兵。 然而,隨著戰爭形勢的惡化,人文學科的學生被徵召加入陸海軍,同年 12 月,他們加入了陸海軍(Gakusei Dasshi)。
 良治在陸軍中 在他的本團,也就是長野縣的松本 50 團服役後,翌年 2 月,他被錄取為特別飛行員訓練官。 之後,他從熊谷陸軍飛行學校相模訓練隊(神奈川縣)轉到館林航空隊(群馬縣),繼續接受飛行訓練。 Toshie 回憶說:「我以加入空軍為榮,勇敢又了不起。
 在軍隊生活中,國家和組織秩序凌駕於個人自由之上。 上司對下屬不合理的教導、體罰和心理欺凌也是家常便飯。 這種環境與良治所相信的自由相去甚遠。
 例如,1944 年 5 月 28 日。 第一小隊的航空眼鏡不見了。 在軍隊中,遺失物品可能會受到重罰。 因此,那些因故遺失物品的人有時會偷竊「戰友」的物品。 不知道這些眼鏡發生了什麼事,但尋找「兇手」的行動已經開始。 沒有人站出來。 第二天,即 1 月 29 日,良治和其他人被迫在烈日下站了 10 個多小時。 同一天,良治在他的 「書友漫談 」中寫道:「可恥的一天」。 「可恥的一天」。
 在《書友錄》中,良治和其他學生寫下了他們的訓練和感想,他們的教官也寫了回信。 1944 年 6 月 27 日,良治寫道:"你應該感到羞愧。 你必須成為一個有品格的人。 令人遺憾的是,教育團中有品格的人太少了。 如果你是一個有品格的人,你就會少說多教"。
 他好像是在指出教官們「品格有問題」。 這在上級命令是絕對的軍隊中是極不尋常的。 教官用紅字說:'你在批評你的上司。 在此之前,做你該做的事。 擺脫你的學生氣質!"教官用紅字寫道:諸如。 寫法像潦草的字跡,傳達出強烈的憤怒。
 我知道如果我寫或說這樣的話會有什麼後果。 即使如此,上原君也不會沉默。 戰後,良治的戰友這樣對他說。 他是一個堅定的自由主義者,具有非凡的勇氣。

就在自殺式攻擊之前,他已做好戰敗的準備,並說:「如果我死了,我會去天堂,而不是靖國」。
1945年5月11日,鹿兒島縣奇蘭空軍基地,上原亮司(最左)在進行自殺行動前(Toshie提供)。

 1945 年 4 月。 良治先生最後一次回家。 吃晚飯的時候,良治突然說了這樣一句話 我們會輸掉這場戰爭。 俊江說:'我很驚訝。 我以為日本一定會贏。 我一直被教導,神風隊會吹到最後。 這就是我被教導的。 我很驚訝,所以我打開百葉窗,往外面看。 我害怕神風特攻隊會聽到我的聲音。 我還記得我看了看是否有人在那裏。 軍警負責監視人民的反戰思想。 事實上,如果他們問起,我不知道他們會怎麼做。
 良治在他們二人的私密處進一步思索。 '即使我死了,我也不會去靖國神社。 我會去天堂。"
 1869 年,明治天皇在東京九段設立了正神社,「將為國家犧牲者的名字傳給後世,以慰其靈魂」(靖國神社網站),1879 年正神社更名為靖國神社。 戰爭陣亡者被供奉在靖國神社,作為 「為國捐軀的寶貴靈魂」。 準備赴死的士兵有時會承諾在靖國會面。
 很多戰死者的屍體和遺骸從未歸還給他們的家人。 喪親者通過參拜供奉死者靈魂的靖國來尋求心靈的安寧。 然而,良治拒絕前往。
 離家時,良治向送行的家人喊道:「再見」。 他說了三次 「再見」。 我不知道自殺任務的事,但我覺得我母親說,「也許他們不會回來了 ......」"。
 1945 年 5 月 11 日。 1945 年 5 月 11 日,良治駕駛載滿炸彈的戰鬥機 "Hien",從鹿兒島千蘭的自殺式攻擊基地飛往沖繩,在戰鬥中陣亡,年僅 22 歲。 亮司當時 22 歲。 自殺式襲擊真的很可怕。 ....... 我想聽聽(那些發動自殺襲擊的人)的感受。 我想聽聽他們的感受。

我的兄弟們的死是什麼樣的?
上原兄妹寄給出征的父親寅太郎的照片。 從左至右:義晴、達雄、良治、清子和俊江,攝於 1938 年春(由俊江提供)。

 戰爭於 1945 年夏季 8 月 15 日結束。 日本政府接受了盟國的投降建議《波茨坦公告》。 聽到行宮廣播的公告時,敏江想:'我的兄弟們為什麼而死?
 此時,上原家的長子吉治還活著。 缺席的家人相信,被派往緬甸地區擔任軍醫的吉治先生會回國。 然而,義春先生在戰敗後於 45 年 9 月 24 日死於與戰爭有關的疾病。 上原家在戰爭中失去了所有三個兄弟姐妹。
 儘管長女清子(Kiyoko)和敏江(Toshie)仍然健在,但她們的父母一定深感悲痛。 即便如此,"我的父母從未談起我的兄弟。 我從未見過他們哭。 他們是一個人在哭。...... 我們一家人從未談論過「如果他們還活著」。 也許是因為太痛苦了,大家都不想提起」。
 然而,戰後她的母親 Yoshie 經常參拜靖國神社。 俊江有時也會陪著去,但她不是自願去的。 這是因為良治的那句 「我不會去靖國 」深深地刻在了她的心中。 然而,敏江卻無法把亮司的話告訴母親。 '因為媽媽一定以為我們三個會去。

有前途的年輕人成為犧牲品:「別讓自殺襲擊成為美麗的故事」。
仲夏拍攝的快照。 從右至左:俊江、良治、親戚青木扶佐子、辰雄和清子,1937 年 8 月由 Yoshiharu 拍攝(由俊江提供)。

 出征前夕,良治應作為陸軍記者團成員在芝蘭的高木敏郎之請,在七張稿紙上寫下了他的 「印象」。
 他寫道:「一個明顯的事實是,專制極權國家無論如何暫時繁榮,最終一定會被打敗」,並借鑒日本的盟友德國和義大利已被打敗的事實,補充說道:「專制極權國家一個接一個被摧毀,就像地基斷裂的建築物一樣。 這封遺書以「日本必然戰敗」的預言作結,並以「我心中充滿滿足感」作結語,在未來的歲月中,這封遺書將繼續被人閱讀。
 在自殺式襲擊中喪生的士兵有時被稱讚為「英雄」。 他們經常被描述成美好的故事,例如「為家庭和國家獻出生命的年輕人」。 Toshie 說:「我不希望事情變成那樣。 另一方面,「新的戰爭」正變得更現實,政府也在為這些戰爭做準備。
 戰爭可以摧毀一個和平的家庭。 如果你仔細想想,戰爭是不可能發生的。 我的兄弟們都死了,儘管他們每個人都有很多想做的事情。 我希望我們的社會是一個能讓年輕人盡情享受生活的社會,讓這種事情不會發生在他們身上"。

編輯後記
記者簡介。

 全年八月的新聞工作
 大眾媒體經常使用「戰後 XX 年」這種說法。 79 年前的夏天,大日本帝國的戰爭結束了。 但戰爭造成的傷害並未結束。 Toshie 的妹妹懷念 79 年前戰死的哥哥 Ryoji Uehara,她說:'5 月 11 日對我來說仍然是非常糟糕的一天。 自殺式攻擊真的很可怕。 ......" 告訴我們「未完成的戰爭」的狀況。
 在戰爭期間,報紙與日本皇室政府合作進行戰爭。 戰敗之後,報紙應該以「再也不配合戰爭,再也不為戰爭拿起一支筆、拿起一台照相機、轉動一個旋轉印刷機」的決心開始。
 我認為報紙新聞的最大作用就是防止國家再次製造戰爭。 如果我說了數百萬次「不要戰爭」,也不會有任何影響力。 然而,我相信,傳達一旦發動戰爭將對普通人造成的長期、深遠和廣泛損害的具體信息,將導致戰爭是令人憤慨的意識的普及,進而對戰爭產生威懾作用。
 媒體每年八月都會密集報導戰爭。 我一年到頭都在做這件事,所以我稱自己為「永遠是夏天的記者」。 我要繼續「永遠的夏日記者」,以發揮報紙最大的作用。

*本文由每日新聞與 Yahoo 共同合作!
「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶

学徒出陣し、「特攻」で戦死した上原良司さんの妹、登志江さん=千葉県松戸市で2023年9月21日、後藤由耶撮影

 第二次世界大戦下、今から80年前の1944年10月、日本軍は爆弾を搭載した航空機ごと搭乗員が敵艦などに体当たりする特別攻撃隊=特攻を始めた。45年8月の敗戦までの10カ月間でおよそ4000人が命を落とした。その特攻隊員の中で、最も知られている1人が上原良司さんだろう。戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が掲載され、読み継がれてきた。だが、良司さんが家族に「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことはあまり知られていない。5人きょうだいの末っ子で次女の登志江さん(94)に、「上原家の戦争」を振り返ってもらった。【栗原俊雄】

3人の兄が戦死 「頭の中でぼかしながら生きてきた」

「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶

上原家の3兄弟。右から良春さん、背に良司さん、龍男さん=1923年ごろ、父・寅太郎さん撮影(登志江さん提供)

 「はっきり覚えているのが、嫌なんですよ。悲しいというか……。あまり考えないように、自分の頭の中ではずっとぼかしながら生きてきました」。昨年9月、千葉県内の自宅で登志江さんは記者にそう話しつつも、亡くなった3人の兄たちや残された家族のことを語り始めてくれた。  良司さんは、長野県七貴村(現池田町)で、開業医だった父の上原寅太郎さんと母与志江さんの3男2女の三男として生まれた。  長男の良春さん、次男の龍男さんは慶応大医学部に進み、良司さんは同大経済学部に進学した。良司さんは「航空機のグラビア写真を見せてくれて『これはすごいんだよ』などと話していました」。また「ハーモニカが好きで。ときおり『わーかき血に』って歌ってもいましたね」。慶応の応援歌「若き血」だ。母と野球の「早慶戦」を観戦し、母は「すごく良かった」と話していたという。志望大学に進んだ若者の喜びが伝わってくる。  上原家の平穏な生活をよそに、日本は戦争を続けていた。37年に始まった日中戦争に続き、41年12月には米英などとの戦争も始めた。龍男さんは海軍軍医となった。43年10月22日。龍男さんが乗艦していた潜水艦「伊182」は南太平洋・ニューヘブリデス諸島方面で米軍に撃沈され、戦死した。


「人格的に問題」と上官をも批判する自由主義者

「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶

上原良司さん(左)と龍男さん=登志江さん提供

 戦争が始まった後、大学など高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。だが戦況が悪化する中、文系の学徒らが陸海軍に召集され同年12月、陸海軍に入った(学徒出陣)。  良司さんは陸軍だった。地元長野県の松本第50連隊を経て翌年2月、特別操縦見習士官に合格した。その後、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊(神奈川県)から館林航空隊(群馬県)と移り、飛行訓練を重ねた。登志江さんは「航空隊に入って、勇ましいな、すごいんだと誇りに思っていました」と振り返る。  軍隊生活では個人の自由より国家、組織の秩序が優先だった。上官の部下に対する理不尽な指導や体罰、精神的いじめがまかり通ってもいた。良司さんが信条とした自由とはほど遠い環境だった。  たとえば44年5月28日。部隊の1の航空用眼鏡が行方不明になった。軍隊では持ち物を失うことは大きなペナルティーを課されることがあった。このため、何らかの理由で失ってしまった者が「戦友」のそれを盗むことがあった。この眼鏡がどうだったかは不明だが、「犯人」探しが始まった。名乗り出る者はいなかった。翌29日、良司さんらは炎天下に10時間以上立たされることになった。同日の「修養反省録」に、良司さんは書いた。「恥辱ノ日」。  「修養反省録」は、良司さんら生徒が訓練の内容や考えたことなどを書き、教官が返事を書くものだ。航空兵としての修練を重ねる一方で、良司さんは軍、上官への憤りもつのらせていたようだ。44年6月27日、記した。「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」  教官に「人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。上官の命令は絶対という軍隊にあっては極めて異例であった。教官は赤字で「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと書いた。殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。  「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるか分かっていた。それでも上原君は黙ってなかったですよ」。戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた。並外れた勇気を持つ、筋金入りの自由主義者だった。


特攻直前、敗戦覚悟し「死んだら靖国ではなく天国へ」

「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶

特攻出撃前の上原良司さん(左端)=1945年5月11日、鹿児島県・知覧基地で撮影(登志江さん提供)

 45年4月。良司さんが最後の帰省をした。夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」。憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。実際、聞かれたら何をされたか分からない。  良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから」  1869年、明治天皇によって「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた。戦死者は「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた。死を覚悟した兵士たちが「靖国で会おう」と約束することもあった。  戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった。遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。  帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。「さようなら、と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします」  1945年5月11日。良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。22歳。「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。登志江さんはそう話す。

「兄たちの死はなんだったのか」

「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶

上原家のきょうだいが出征中の父・寅太郎さんに送った写真。左から良春さん、龍男さん、良司さん、清子さん、登志江さん=1938年春撮影(登志江さん提供)

 45年夏に戦争は終わった。8月15日。日本政府が連合国による降伏勧告「ポツダム宣言」を受諾する。玉音放送を聞いた登志江さんは「兄たちが死んだのはなんだったんだ」と思った。  この時点で、上原家では長男の良春さんが生きていた。留守家族は陸軍軍医としてビルマ方面に派遣されていた良春さんが帰還することを信じていた。だが、良春さんは敗戦後の45年9月24日に戦病死していた。上原家は兄弟3人をすべて戦争で亡くしてしまったのだ。  長女の清子さん、登志江さんが健在とはいえ両親の悲しみも深かっただろう。それでも「両親は兄たちの話はしませんでした。泣いているところも見たことがありません。一人で泣いていたのか……。家族で『生きていたら』、なんて話したことがありません。つらすぎて、みんなそれに触れたくなかったからでしょうか」。  ただ戦後、母の与志江さんはしばしば靖国神社を訪れた。登志江さんは付き添いで行くことはあったが、自分から進んでは行かなかった。良司さんの「靖国には行かない」という言葉が胸に刻まれていたからだ。登志江さんはしかし、母に良司さんのその言葉を伝えることができなかった。「だって、母は3人がそこにいると思っていたはずですから」


未来ある若者たちが犠牲に 「特攻を美談にしないで」

「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶

盛夏のスナップ写真。右から登志江さん、良司さん、親戚の青木房子さん、龍男さん、清子さん=1937年8月、良春さん撮影(登志江さん提供)

 良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に「所感」を書き残した。  「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。  特攻で命を落とした兵士達は「英霊」とたたえられることがある。「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。登志江さんは「そういうふうになってほしくないですね」と言う。他方、「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。  「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」

編集後記

「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶

記者プロフィール

 「一年中8月ジャーナリズム」  マスメディアは「戦後○○年」という表現をよく使う。大日本帝国の戦闘は、79年前の夏に終わった。しかし、戦争による被害は終わらない。「戦後」何年たとうと、体験者たちが心身に負った傷は完全には癒えない。79年前に戦死した兄・上原良司さんを思う妹の登志江さんの言葉、「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……」が、「未完の戦争」の有りようを私たちに伝えている。  戦時下、新聞は大日本帝国政府の戦争に協力した。敗戦後の新聞は「二度と戦争に協力しない、戦争のためにペンを握らない、カメラを手にしない、輪転機を回さない」という決意から始まったはずだ。  私は、新聞ジャーナリズムの最大の役目は国家に二度と戦争をさせない事だと思っている。私が「戦争反対」と何百万回言ったところで、影響力は無いだろう。しかし、戦争になれば庶民に被害が長く深く広く及ぶことを具体的に伝えることが、「戦争なんてとんでもない」という意識の広がりにつながり、ひいては戦争抑止力になると信じている。  メディアは毎年8月、集中的に戦争報道を行う。私はそれを一年中やっていることから、「常夏記者」を名乗っている。新聞の最大の役目を果たすために、「常夏ジャーナリズム」を続けたい。

※この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。

記者來鴻:神風特攻隊情願去送死?

 最不尋常的遺書中有一封來自年輕的中尉上原良治(Ryoji Uehara)。

他寫道,「明天,堅信民主的人將離開這個世界。他可能看上去很孤獨,但是,他的內心很知足。法西斯意大利、納粹德國都被擊敗了。獨裁,猶如用碎石蓋起的房子。」


記者來鴻:神風特攻隊情願去送死?

圖像來源,BBC World Service

  • Author,BBC記者傅東飛
  • Role,發自日本

日本提出為二戰期間日本空軍的「神風敢死隊」遺物申遺。中國強烈反駁,稱這是美化「軍國主義的人肉炸彈」、無異於美化侵略戰爭。BBC駐日本記者傅東飛採訪了一位多年致力於搜集神風遺書的日本老人,與這位當年的敢死隊的飛行員一起探討戰爭記憶。

「神風敢死隊」,成了所有瘋癲、狂熱、自我毀滅行動的代名詞。

我還記得,小時候在英國上學時,學到神風敢死隊(又稱神風特攻隊)的飛行員。在我看來,他們的所作所為難以理解。之後很長一段時間,這影響了我對日本的看法,給我留下一個時常困擾的問題:什麼原因讓大批日本年輕人情願去送死?

我一直夢想著能有機會親自去問問神風敢死隊的飛行員。

不久前的一天,我來到日本中部城市名古屋外一座舒適的民宅,按響了門鈴。沒過多久,一位老人來給我開門,他身材矮小、很有活力、衣著整潔、笑意贏面。

島津忠正(Tadamasa Itatsu)今年89歲,精神矍鑠、雙目有神,握手很有力。他說因為和我有約、取消了今天的網球賽。

很難相信,這個開朗的老頭曾經是敢死隊的飛行員。

島津忠正:他們都是自願去死的,否則我就不會收集這些遺書了。

圖像來源,BBC World Service

圖像加註文字,島津忠正:他們都是自願去死的,否則我就不會收集這些遺書了。

1945年3月,19歲的島津是一名普通飛行員。美國、英國軍艦、航母正在向沖繩集結。島津的上司問他願不願意加入「特攻隊」。

島津告訴我說,「如果沖繩島被佔,美國戰機就能夠以此為基地、攻擊日本主要島嶼。所以,我們年輕人必須阻止。1945年3月,成為神風飛行員很普通。我們所有被問到的人都同意了。」

島津的家,如同供奉犧牲戰友的神社,牆上貼滿了身穿飛行服的年輕人模模糊糊的照片。我們談話中,他一次又一次返回同一個話題:這些年輕人並不是狂熱已極,他們相信自己的行動可以讓祖國免遭災難。

島津說,「人只有一條命,這是常識。那麼,為什麼要送命呢?為什麼會自願去送命?但是當時,我認識的所有的人都表示了自願。我們需要成為勇士,阻止侵略。我們下了決心。對此我們毫無疑問。」

島津沒有死。他開著飛機朝著南方的目標飛去,飛機引擎出故障,他在海上迫降,返回基地。但是,在他再次嘗試之前,戰爭結束了。

戰後很多年,島津從不向外人提起這個故事。活了下來,讓他感覺很羞愧。島津說,他想過自殺,但是沒有勇氣。

時光推移,1970年代,他開始聯絡當年陣亡同志的家屬,收集老照片、家書。他的收藏品成為現在我們所說的「神風遺書」的重要組成部分。

島津從長長的硬紙筒中抽出一張薄紙,小心翼翼地打開,讀了起來。

1944年10月「萊特灣海戰」,日本神風敢死隊攻擊美國軍艦

圖像來源,BBC World Service

圖像加註文字,1944年10月「萊特灣海戰」,日本神風敢死隊攻擊美國軍艦

「親愛的媽媽,不能更多照顧您,是我一大遺憾。但是,作為天皇的戰士而死,是光榮。不要悲傷。」

好多遺書表述的都是這樣的主題。看上去好像證實:整整一代日本人被洗腦、放棄自我、盲目效忠天皇。

但是也有其他一些遺書,從中可以看出,一小部分神風敢死隊的飛行員並沒有囫圇吞下宣傳;甚至還有一些人,看上去並不認同日本的事業。

最不尋常的遺書中有一封來自年輕的中尉上原良司(Ryoji Uehara)。

他寫道,「明天,堅信民主的人將離開這個世界。他可能看上去很孤獨,但是,他的內心很知足。法西斯意大利、納粹德國都被擊敗了。獨裁,猶如用碎石蓋起的房子。」

那麼,我們應該怎樣看待神風遺書?神風敢死隊的遺物應不應該收入聯合國教科文組織《世界記憶名錄》?

島津認為,當然應該。他形容,遺物是「傳給後代的寶貴財產」。但是,即使是今天、有70年的後見之明作後盾,島津對他和同志的過去依然令人驚訝地缺乏反思。

島津忠正:我要努力保護他們的記憶

圖像來源,BBC World Service

圖像加註文字,島津忠正:我要努力保護他們的記憶

他說,「我從不帶著遺憾看過去。死了的人都是自願去死的。當時我想,活下來運氣真糟糕。我真的想和他們一起死。相反,我需要把努力集中在保護他們的記憶上。」

日本對戰爭的記憶有很大的問題。著名政客、媒體人仍然經常出面表示擁護荒謬的歷史修正版—日本從來沒有發動戰爭,南京大屠殺根本沒有發生,成千上萬的慰安婦都是「心甘情願」地去給日本軍人作性奴。

二戰末期,日本城市受到大規模轟炸,特別是廣島和長崎的原子彈爆炸,給日本提供了「受害者」說的基礎。日本是唯一一個遭受原爆的國家;東京大轟炸,僅僅一個晚上,就造成至少10萬平民喪生。

但是,說起戰爭恐怖之時,被忽略的一點常常是:這一切都是如何發生的。

同樣,不忘那些年輕飛行員的犧牲,這樣的願望可以理解。不過,看上去經常被遺忘的一個問題:怎麼走到的這一步?

(編譯:蘇平/責編:李莉)

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選擇汪精衛中華帝國會像奧匈帝國鄂圖曼土耳其帝國一樣戰敗解體

選擇汪精衛 中華帝國會像奧匈帝國鄂圖曼土耳其帝國一樣戰敗解體 因為站錯了隊伍 北洋軍閥頭腦比汪精衛清楚 所以一戰才能拿回山東 孫文拿德國錢,他是反對參加一戰 選擇蔣介石, 中國將淪為共產主義國家 因為蔣介石鬥不過史達林 蔣介石即使打贏毛澤東 中國一樣會解體 中國是靠偽裝民族主義的...