至於歷史原因,為什麼日本戰敗後,「基督教」在日本傳播不多,基督徒人數也沒有增加?正如長野健一在回答「基督教」時所提到的那樣,日本自明治時代以來就將基督教視為敵人,並採取政策阻止其滲透到日本社會。明治時期的政治家們極度擔心西方文明傳入國內的同時基督教也會傳播開來,採取了各種對策。另一方面,基督教派進入日本的目的是透過教育和社會工作被日本社會接納,而不是直接對抗並自我毀滅。因此,信徒人數雖少,但基督教學校、醫院、福利機構卻不少。此外,許多人以基督教方式結婚,日本各地都慶祝聖誕節。
我認為基督教重要的不是增加信徒的數量,而是傳播一個遵循基督教義並尊重上帝真理、正義、愛與和平意志的社會,我認為只要這樣就可以了。
基督徒是帶著使命來到這個世界的,所以即使只有幾個也沒關係。事實上,在基督徒已成為社會標準的歐美,基督教已經制度化,在某些情況下甚至失去了「地上的鹽和世上的光」的作用。
我的回答是,雖然信徒數量沒有增加,但基督教已經有了一定程度的傳播。
感謝您的評論。
〉聲稱基督教正義才是真正的正義,不依賴基督教的正義就不是正義。
>也就是說,神的公義才是真正的公義,一切沒有敬拜神的行為都不是公義。
我無意否認有基督徒提出這樣的主張,而這種主張在歷史上已經被強烈提出過。然而,當我們真正了解耶穌的教義時,我們必須說,這種狹隘、排他、自以為是的思想是對耶穌教義的扭曲和錯誤。
問題在於,神的公義和敬拜神的意義常常被隨意使用。我不知道你是否明白我在說什麼,但是耶穌所教導的和基督教所崇拜的上帝並不是基督教所獨有的。
基督徒所說的上帝是萬物的創造者,是一切存在和價值的終極來源。無論是猶太教、伊斯蘭教、亞里斯多德等希臘哲學家、印度哲學或東方哲學,如果他們承認萬物的起源是有秩序的,那麼他們最終都會承認這一點。
此外,無論在歷史上或現在,基督徒常常錯誤地認為上帝並不是一切存在和價值的最終根源。所有排外和自以為是的教義都源自於這個錯誤。
這是因為真正的上帝和上帝的真正教義不排除任何人。
然而,有些人類拒絕這些神的存在,並創造並崇拜自己的神。那樣的話,也不是神拒絕他,而是他拒絕神。
正如我們生活在陽光下並接受它的祝福一樣,我們不承認太陽的存在或欣賞它的祝福,並認為我們能夠生活和幸福的唯一原因是因為其他東西。你可以這麼想,但是忽視和否認陽光的好處不是錯的嗎?
歴史的な理由としては、敗戦後の日本でも「キリスト教」があまり普及せず、キリスト教信者が増えなかったのはなぜですか?に対する永野 健一 (Kenichi Nagano)さんの回答 にもあるように、キリスト教は日本では明治以降も敵視され、日本社会に浸透しないような政策がとられてきたからです。明治の為政者たちは、西洋文明が入ってくると同時に、キリスト教が浸透することを極度に恐れ、様々な対抗策を講じました。一方、日本に入ってきたキリスト教の教派も、これと直接対決して自滅してするよりは、教育や社会事業を通して、日本社会に受け入れられることを目指しました。結果として、信者の数は少ないものの、それに比べて、キリスト教系の学校や病院、福祉施設などは多いのです。また、キリスト教式で結婚式を挙げる人も少なくなく、クリスマスは日本中で祝われています。
私は、 キリスト教にとって重要なことは、信者を増やすことではなく、キリストの教えに従って、神の思いである真理や正義や愛や平和が尊重される社会が広がることなので、それが信者を増やすことなく、実現するならそれでいいと思っています。
キリスト教徒は、その使命を帯びてこの世界に派遣されているので、少数でも良いのです。むしろ、キリスト教信者であることが社会の標準になった欧米などでは、キリスト教は体制化してしまい、「地の塩、世の光」としての役割を失ってしまった場合すらあります。
私の回答としては、信者は増えなかったが、キリスト教はそれなりに普及したと言えると思います。
不躾ながら、一つ質問をお許しください。
>キリスト教にとって重要なことは、信者を増やすことではなく、キリストの教えに従って、神の思いである真理や正義や愛や平和が尊重される社会が広がること
との仰られ様ですが、キリスト教の信者の方とのやり取りにおいて強く感じるのは、キリスト教の正義こそが真の正義であり、キリスト教に依らない正義は正義ではない、といった主張を往々にしてされることです。
すなわち、神の正義こそが真の正義であり、神を奉じることなしに行われるすべての行いは正義ではない、とされる向きが少なからず存在しているように感じられてなりません。
そして真理についてもそれは同様であるように思われます。
私自身、宗教としてのキリスト教に対して少なからず色眼鏡を通して眺めているのだろうとの自覚はありますが、そのような部分もあって普及していない、という側面もあるのではないでしょうか。
コメントありがとうございます。
〉キリスト教の正義こそが真の正義であり、キリスト教に依らない正義は正義ではない、といった主張
〉すなわち、神の正義こそが真の正義であり、神を奉じることなしに行われるすべての行いは正義ではない、とされる
そのような主張をするキリスト教徒がいること、歴史的にはそのような主張が強くなされてきたこと、いずれも否定するつもりはありません。しかし、イエスの教えを真に理解する時、そのような偏狭な、排他的、独善的な考え方は、イエスの教えの歪曲であり、間違いであると言わなければなりません。
問題は、神の正義とか、神を奉じるとか言うことの意味が、しばしば恣意的に使われていることです。こういう言い方が理解していただけるか分かりませんが、イエスが教え、キリスト教が奉じる神は、キリスト教だけの専有物では無いのです。
キリスト教が神と呼んでいるのは、万物の創造主、すなわち、すべての存在と価値の究極の根源のことです。ユダヤ教もイスラム教も、そしてアリストテレスなどのギリシャ哲学者も、そして他にもインド哲学であれ、東洋思想であれ、万物の根源に秩序的なものを認める考え方であれば、結局は同じものを認めていることになります。
また、キリスト教徒も歴史的にも、現在においてもしばしば誤り、すべての存在と価値の究極の根源でないものを神としていることもあります。排他的、独善的な教えは、すべてその誤りから来ています。
なぜなら、真の神、真の神の教えは誰一人排除しないものだからです。
ただし、人間の中にはそのような神の存在を拒否し、自分だけの神を立てて信奉する場合もあります。その場合も、神が彼を拒絶するのではなく、彼が神を拒絶するのです。
ちょうど、太陽の元で暮らし、太陽の恩恵を受けながら、太陽の存在を認めず、そのその恩恵に感謝せず、自分たちが生きて幸福でいられるのは、何か別のもののお陰だと考えるような場合です。そのように思うのは自由ですが、しかし、太陽の恩恵を無視し、拒否するのは間違いではありませんか?