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三国軸心、大政翼赞会、蔣介石与日美谈判

三国軸心、大政翼赞会与日美谈判

在这里,如果学过近现代史的人,可能会觉得这三者反而是日本推行军国主义的里程碑吧?即使没学过,恐怕也会模糊地认为它们具有负面形象,比如鲜明对立于美英的同盟、因政党集体解散而诞生的组织、以及只是为了拖延时间的谈判。

“一直以来,人们是这样认为的,但当我们深入解读新的史料时,日本的真实意图浮现出来了。比如,从《蒋介石日记》中可以看出,蒋在三国同盟签署后,反而有意与日本讲和。也就是说,中国方面存在考虑加入一个由日本、德国以及中国组成的‘大陆同盟’的势力。而从《昭和天皇实录》来看,天皇本人也对以反共产主义为核心的停战谈判表现出浓厚兴趣。”

大政翼赞会成立的其中一个原因,就是为了巩固国内政治势力的基础,以促成与中国的停战。事实上,当时众议院议员中有超过半数支持对华和平。

关于日美谈判,过去的研究往往强调外相松冈洋右与驻美大使野村吉三郎之间方针的不一致,并将谈判失败归因于此。然而,根据外务省的日美谈判记录以及野村吉三郎相关文献,可以看出,两人其实在一点上达成了一致:他们都希望通过谈判请求美国作为中间人,促使中国加入谈判。加藤教授正是基于这些史料提出了上述观点。
2015 年夏天,日本首相发表了 "战后 70 年声明",新闻媒体大肆报道这一话题。 这对日本来说无疑是一个里程碑,但本乡有一位历史学家却对系列报道中的用词感到不适。 她就是人文社会科学研究生院的加藤阳子教授。

开始日期不明确的'那场战争'。
所有公司都使用了 "那场战争 "或 "最后一场战争 "等短语。 有些公司将战争称为 "1945 年 8 月 15 日结束的战争"。 最后,我再次感到,即使在 70 年后的今天,日本仍然不理解对华战争与随后的太平洋战争之间的关系"。

加藤教授长期以来一直认为不理解的主要原因是中日战争于 1937 年在没有宣战的情况下开始,他将自己多年的研究成果整理成今年的一篇论文。 他的研究重点是 1940 年 9 月《三國軸心协定》的签订、1940 年 10 月成立《大政翼贊會》的形成以及次年 4 月至 11 月日美谈判。 从历史文献中,我们得出了上述三项措施的背景是一贯的对华和平理念。

三国軸心、大政翼赞会与日美谈判

在这里,如果学过近现代史的人,可能会觉得这三者反而是日本推行军国主义的里程碑吧?即使没学过,恐怕也会模糊地认为它们具有负面形象,比如鲜明对立于美英的同盟、因政党集体解散而诞生的组织、以及只是为了拖延时间的谈判。

“一直以来,人们是这样认为的,但当我们深入解读新的史料时,日本的真实意图浮现出来了。比如,从《蒋介石日记》中可以看出,蒋在三国同盟签署后,反而有意与日本讲和。也就是说,中国方面存在考虑加入一个由日本、德国以及中国组成的‘大陆同盟’的势力。而从《昭和天皇实录》来看,天皇本人也对以反共产主义为核心的停战谈判表现出浓厚兴趣。”

大政翼赞会成立的其中一个原因,就是为了巩固国内政治势力的基础,以促成与中国的停战。事实上,当时众议院议员中有超过半数支持对华和平。

关于日美谈判,过去的研究往往强调外相松冈洋右与驻美大使野村吉三郎之间方针的不一致,并将谈判失败归因于此。然而,根据外务省的日美谈判记录以及野村吉三郎相关文献,可以看出,两人其实在一点上达成了一致:他们都希望通过谈判请求美国作为中间人,促使中国加入谈判。加藤教授正是基于这些史料提出了上述观点。

从对华关系的角度解读日本历史
该书的独特之处在于,它将日本采取的三项措施作为一个整体,并将中国问题的存在作为贯穿日本国内政策和对外态度的一个视角。

加藤教授的真谛在于他对三方軸心的横向视角,不局限于日德关系史、大政翼斋的日本政治史或日美谈判史的框架。

他说:"很久以前,我曾在美国从事过一段时间的海外研究。 '我发现一个图书馆收藏了包括苏联和俄罗斯在内的所有亚洲国家的文件和档案,这让我非常振奋。 在战前时期,日本统治者本身就与包括中国、美国和苏联在内的各种国家打交道,因此我认为分析思维必须能够应对这种情况。 也许正是从那时起,我产生了 "讲述日本历史不能不提到中国 "的感觉。

着迷于文字的力量
加藤教授说,他的研究特点不是阐明战争不可避免的因素,而是精确分析那些扩大战争的人的逻辑。 在他的众多著作中,战争始终是一个主题。 她有着柔美优雅的外表,但她为什么会选择战争作为自己的研究课题呢?

我是一个热爱俄罗斯文学的文艺女孩。 有一天,我被修昔底德《军事史》中的一个场景吸引住了,他在演讲中动员年轻人参战。 我意识到,只有在战争中,文字才会变得锋利,文字的力量才会被充分调动起来。 啊,这样的话,文字是伟大的,是有趣的"。  文字不是武器,但也可以成为武器,加藤教授被文字的力量深深吸引,并进入了历史学领域。 在他的下一部作品中,他希望深入研究昭和天皇的战后生活,他将使用什么样的精雕细琢的文字呢?

访谈和文字由高井次郎撰写。



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言葉の威力が最も発揮されるとき「あの戦争」の背後を貫く中国要因

掲載日:2016年2月9日

2015年夏、首相が「戦後70年談話」を発表し、報道各社はこの話題を一斉に取り上げました。日本にとって一つの節目となったのは間違いないところですが、一連の報道で用いられる言葉に違和感を持った歴史学者が本郷にいました。人文社会系研究科の加藤陽子教授です。

図1:大政翼賛会のポスター(1940年)大政翼賛会は、1940年10月、第二次近衛内閣によって結成された官製国民統合団体。すべての政党が解散して加わり、総裁は首相が務めました。大日本産業報国会、大日本婦人会などの官製国民運動団体も傘下におさめ、1945年に国民義勇隊に発展的解消されるまで、国民生活のすべてを統制しました。クレジット 朝日新聞社「朝日歴史写真ライブラリー 戦争と庶民1940-1949 第1巻」より。

図1:大政翼賛会のポスター(1940年)
大政翼賛会は、1940年10月、第二次近衛内閣によって結成された官製国民統合団体。すべての政党が解散して加わり、総裁は首相が務めました。大日本産業報国会、大日本婦人会などの官製国民運動団体も傘下におさめ、1945年に国民義勇隊に発展的解消されるまで、国民生活のすべてを統制しました。
クレジット: 朝日新聞社「朝日歴史写真ライブラリー 戦争と庶民1940-1949 第1巻」より。

開戦時期が曖昧な「あの戦争」

「各社とも「あの戦争」や「先の大戦」などの表現を用いました。「1945年8月15日に終戦を迎えた戦争」とする社もありました。結局、中国との戦争とそれに続く太平洋戦争との関係を、70年たっても日本は理解できていないのだ、と改めて感じました」。

わかりにくさの主因は1937年に宣戦布告抜きで日中戦争を始めたことにあると捉えてきた加藤教授は、今年、長年の研究成果の一部を論文にまとめました。着目したのは、1940年9月の日独伊三国軍事同盟調印、10月の大政翼賛会成立、翌年4月から11月までの日米交渉。以上3つの施策の背景に、一貫して対中和平構想があったことを史料から描きました。

図2:1938年のプロパガンダ葉書「仲良し三国」。相次いで国際連盟を脱退していた日本、ドイツ、イタリアの3国は、1937年に結んだ三国防犯協定を強化する形で、1940年9月に軍事的色彩の濃い三国同盟に調印しました。ドイツの国旗には鉤十字が、イタリアの国旗にはサヴォイア家の紋章が描かれています。

図2:1938年のプロパガンダ葉書「仲良し三国」
相次いで国際連盟を脱退していた日本、ドイツ、イタリアの3国は、1937年に結んだ三国防犯協定を強化する形で、1940年9月に軍事的色彩の濃い三国同盟に調印しました。ドイツの国旗には鉤十字が、イタリアの国旗にはサヴォイア家の紋章が描かれています。
クレジット:パブリックドメイン

三国同盟、大政翼賛会と日米交渉

ここで、近現代史を学んだ人なら思うでしょう。この3つはむしろ日本が軍国主義を押し進めた里程標ではないか、と。学んでいない方でも、米英との対立を鮮明にした同盟、政党が一斉に解党した結果生まれた組織、時間をかせぐためだけの交渉、といった負のイメージを漠然と抱いているはずです。

「そう考えられてきましたが、新史料を読み込みますと、日本の意図が見えてきます。たとえば『蔣介石日記』からは、蔣が三国同盟調印後の日本とむしろ講和しようと考えていたことが見えてきます。日独に加えて中国も加わった大陸同盟を考慮する勢力が中国側にいた。反共産主義を前面に出した停戦交渉に天皇も熱心であったことは、『昭和天皇実録』から窺えます」。

大政翼賛会が結成された理由の一つに、中国との停戦を実現するための国内政治勢力の基盤固めという側面がありました。衆議院議員の過半数が対中和平に賛成していた事実もあります。日米交渉については、これまで松岡洋右外相と野村吉三郎駐米大使の方針の違いばかりが強調され、交渉失敗の理由もそこに帰せられることが多かったのです。しかし、両者ともに、中国を交渉の席につかせる仲介役を米国に依頼するための交渉という点では一致していたことが、日米交渉の外務省記録や野村吉三郎関係文書から浮かび上がる。そう加藤教授は主張します。

中国との関係から日本史を読み解く

日本が採った3つの施策を一括してとらえ、日本の国内政策と対外態度を貫く観点として、中国問題の存在を見極めたところに独自性があります。

図3:駐米大使野村吉三郎(右)と国務長官コーデル・ハル(左)

図3:駐米大使野村吉三郎(右)と国務長官コーデル・ハル(左)
日米交渉は、両国の政府関係者や民間人有志による事前協議で準備された日米諒解案をハル国務長官が野村大使に手渡した1941年4月16日から始まり、いわゆる「ハル・ノート」を野村が手渡された同年11月26日に幕を閉じました。
クレジット:パブリックドメイン

三国同盟は日独関係史、大政翼賛会は日本政治史、日米交渉はアメリカ史という枠に囚われず、横断的に捉えたところに加藤教授の真骨頂がありそうです。

「昔、短期間ですが米国での在外研究を体験しました。一つの図書館に、ソ連・ロシアを含めたアジア諸国の文献・史料が一括収蔵されていることなど大変に刺激的でした。戦前期の日本の為政者自体、中米ソといった多様な国家を相手としていたわけですから、分析する側の頭もそれに対応しなければならないと思うわけです。日本史は中国抜きに語れない、という感覚はそこで芽生えたのかもしれません」。

言葉のもつ力に魅せられて

自身の研究の特徴は、戦争が避けられなかった要因の解明ではなく、戦争を拡大した側の論理を正確に析出する点にあるとする加藤教授。数々の著作を見ると、必ず登場する題材は、戦争です。外見は柔和で上品な方ですが、なぜ戦争を研究テーマに選んだのでしょうか。

「ロシア文学が好きな文学少女でした。ある時、トゥキディデス『戦史』の中の、若者を戦争に動員するための演説の場面に釘付けになりました。言葉が研ぎ澄まされ、言葉の持つ力が全力で動員されるのが戦争なのだと気づかされました。ああ、そっちか、言葉ってすごいぞ、おもしろいぞ、と」。  兵器ではなく、兵器にもなり得る言葉の力に魅入られて史学の門を叩いた加藤教授。昭和天皇の戦後の生涯に迫りたいという次作は、どんな研ぎ澄まされた言葉で綴られるのでしょうか。

取材・文:高井次郎

取材協力

加藤陽子教授

人文社会系研究科 加藤陽子教授

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