下記wikipediaの記述を読めば判りますが、要は「大和に華々しい最後を飾らせたいという考えは、海軍首脳の誰もが抱いていた」からに他なりません。
(以下、引用)
連合艦隊司令長官である豊田副武大将は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は半分もなし。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わず残しては、現地将兵を見殺しにする。だが勝ち目のない作戦で大きな犠牲を払うのも大変苦痛。しかし多少の成功の算あれば、できることはなんでもやらねばならぬ」という気持ちで決定したと回想している。
神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長である富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで、燃料は片道でもよいということで、小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。神の提案を及川軍令部総長は黙って聞いていたが、小沢は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。
沖縄突入という具体案は、草鹿が鹿屋に出かけている間に神が計画したものであった。神の戦艦(大和)突入計画に対し、草鹿は機会を見る必要があるとなだめていた。 当時、連合艦隊は神奈川県横浜市の日吉キャンパスにあり、草鹿は沖縄戦指導のため九州に出張中であった。そこへ神が草鹿宛に電話をかけ、応対に出た三上に対し、第一遊撃部隊による沖縄突入作戦決定を伝えた。神は草鹿を通さずに豊田に直接決裁をもらってから「参謀長、意見はどうですか?」と電話で話したので、草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。日吉と鹿屋の間ではげしい議論になったとき、神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」ということを強調していた。 淵田(草鹿とともに九州出張中)も「神参謀が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という(昭和24年4月22日、マッカーサー司令部歴史課係官の質問に対し)。淵田の意見に対し、三上(草鹿とともに九州出張中)は「当時の連合艦隊司令部の空気などから考えて、神参謀の発意だけで、作戦が採用されるはずなし。水上部隊をも挙げて総攻撃をおこなうならこういう方法しかない…と提案したのが神参謀であったかもしれない」と回想している。
神は草鹿に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は「大和」の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得した(三上の回想による)。
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