2018-07-07
历史 世界上其他轻微战争罪行
https://oplern.hatenablog.com/entry/2018/07/07/012646
2020/10/11 注:瑙鲁共和国似乎已经成为某些地方的话题,本文的访问似乎也与此有关。
不过,似乎有些难以理解的描述可能造成了误解,因此我们匆忙添加了脚注以补充信息。
一段时间以来,我们一直在撰写有关日本帝国统治下的南海诸岛的文章。
瑙鲁共和国位于南海群岛日本委任统治地以南,南纬 0°32',东经 166°55',是一个国土面积只有 21 平方公里的小国。
(它是世界上第三小的独立国家。 顺便提一下,排在第一位的是梵蒂冈城国,其次是摩纳哥公国)。
有些人可能还记得,瑙鲁曾因开采磷酸盐而繁荣昌盛,是世界上国民收入最高的国家之一,但在 20 世纪末,磷酸盐资源枯竭,瑙鲁很快成为世界上最贫穷的国家(因为它有时在日本受到相当粗鲁的对待)。
瑙鲁岛是瑙鲁共和国的领土,在太平洋战争期间曾被日本统治。
今天这篇文章讲述的是瑙鲁居民在日本统治下遭受的苦难。
(或者说,日本是加害者)。
日本占领的背景
瑙鲁岛自 1888 年以来一直归德国所有,但在第一次世界大战期间被澳大利亚占领,随后由英国、澳大利亚和新西兰共同委任统治。
第二次世界大战爆发后,德国进攻瑙鲁,德国海军的临时巡洋舰 "彗星 "号和 "猎户座 "号在瑙鲁近海击沉了四艘盟军商船,随后又轰炸了瑙鲁。 这导致磷酸盐矿石卸载设施和油罐受损。
瑙鲁随后被参战的日本占领。
1942 年 8 月 22 日,日本用 "有明 "号驱逐舰轰炸了瑙鲁岛,8 月 25 日,由该舰船员组成的登陆部队登陆,并于 8 月 26 日占领了瑙鲁。
从此,瑙鲁岛处于日本统治之下。
占领的目的是保卫马绍尔群岛和获取磷酸盐资源。
占领瑙鲁后的日军
瑙鲁被占领后,日本帝国海军建立了一个机场,1943 年 1 月下旬,第 755 航空中队的陆上攻击机和第 201 航空中队的零式战斗机进驻瑙鲁,执行搜索巡逻和防空任务。
瑙鲁驻军也已建立,并于 5 月装备了 12 厘米 7 门高射炮*1 和 15 厘米平射炮等火力,以抵御美军的攻击。
1943 年 9 月,美国特遣部队也对瑙鲁进行了空袭,但美国最终没有入侵瑙鲁。
这是因为美国认为,瑙鲁地形复杂,防御坚固,占领瑙鲁没有任何好处。
1943 年 11 月,日军在吉尔伯特群岛的马金和塔拉瓦被击溃,从此,瑙鲁的补给被切断。
瑙鲁驻军的粮食严重短缺,但他们靠种植南瓜、采集棕榈树汁液和捕鱼勉强度日。
岛上战争结束后,瑙鲁驻军于 1945 年 9 月 13 日在澳大利亚皇家海军 "迪亚曼蒂纳 "号护卫舰上签署了投降书,并被关押在布干维尔岛的临时营地。
顺便提一下,占领瑙鲁的目的之一是开采磷矿石,虽然派出了工程师,但最终没有运出磷矿石。
瑙鲁的残酷故事
下面是主要故事。
两个关于日本占领期间瑙鲁居民苦难的故事。
1 被迫迁移到特鲁克群岛
据说当时瑙鲁的人口不到 2000 人,但日军强迫其中一半以上的人迁移到特鲁克群岛。
1943 年 6 月至 8 月,日军以疏散为名,将 1 200 名瑙鲁人迁移到特鲁克群岛。 据说这样做的目的是为了在日益恶化的战争局势中减少吃饭的人口数量,但这一点不太清楚。
被迁移的瑙鲁人显然也被征召到海军基地和农场工作。
1944 年 2 月,特鲁克群岛遭到美军第 58 特混舰队的轰炸,此后供应中断。 这导致瑙鲁人陷入饥饿,461 人死亡,其中包括 23 名在特鲁克群岛出生的儿童。 战后,只有三分之二的移民能够返回岛上。 在今天的瑙鲁,1 月 31 日是返回瑙鲁的周年纪念日。 瑙鲁首任总统哈默-德罗伯特也是特鲁克岛的幸存者。
第 2 号:屠杀麻风病人。
另一起。
根据瑙鲁驻军第 67 卫队副指挥官的命令,39 名当地麻风病人在海上被杀害。
1943 年 7 月,卫戍部队欺骗病人说他们将被转移到偏远的波纳佩岛上的疗养院,将他们装上船,用军舰 "信州丸 "*2 拖到海上,然后炮击船只并将其击沉。 躲过一劫的病人也中弹身亡。
战后,参与这一事件的士官长和二级军士长被澳大利亚军方BC级战争罪法庭判处终身监禁。
下达指示的士官长在另一起案件中被判处死刑。
至于大屠杀的原因,士官长在上述审判的军事法庭上证实了 XO 所作的陈述。 他说,如果集中营被盟军空袭摧毁,病人逃了出来,岛上的人可能会被感染,疾病就会传给下一代。
(除了杀死病人的想法之外,副酋长的说法不幸是当时的普遍看法)。 在现代,麻风病已被确定为一种可以完全治愈的疾病。 麻风病的传染性很弱,感染发生在免疫系统功能不健全的婴儿时期,除非在这一时期密集、频繁地接触,几乎没有人会患病。 当然,这也不是一种遗传病)。
顺便提一下,卫生、劳动和福利部在下面的网页中也讨论了这个病例。
(瑙鲁案例见 "第 17 号前殖民地和日本占领领土的麻风病政策")。
www.mhlw.go.jp
今日瑙鲁。
谈谈瑙鲁的现状。
正如本文开头提到的,由于磷矿石枯竭,瑙鲁目前处境艰难。 不过,近年来,由于磷矿石价格上涨,磷矿石变得稀缺,因此开始开采以前被忽视的磷矿石,磷矿石含量较低,这种矿石的出口似乎在一定程度上改善了经济状况。
此外,瑙鲁还采取了一个相当怪异的举动,通过接收前往澳大利亚的难民,成功地从澳大利亚获得了经济援助。
与此同时,服务业蓬勃发展,为难民营中的外国工人建造住房,但另一方面,人权团体也指出了侵犯难民人权的行为。
顺便提一下,许多人似乎认为自那时起,瑙鲁与日本的联系就很少了,更不用说在战争期间了,但事实上,在 20 世纪 70 年代,瑙鲁从日本进口磷酸盐矿石,从日本出口汽车,甚至在赤坂还设有瑙鲁领事馆。 瑙鲁甚至在赤坂设有领事馆,鹿儿岛机场也有定期航班。
然而,到了 20 世纪 80 年代,两国关系逐渐缓和,领事馆关闭,定期航班取消。
最后
据说,在欺凌事件中,施暴者很快就会忘记自己曾欺凌过受害者,而日本似乎也同样忘记了自己曾是瑙鲁的欺凌者。
此外,瑙鲁共和国因磷矿枯竭而遭受的破坏也被 "有趣地 "报道了*3。
最近,似乎有很多人*4以身为 "日本人 "而自豪,但如果他们以身为日本人而自豪,就应该对日本人过去的所作所为多一点真诚。
2018-07-07
【太平洋戦争】ナウル残酷物語【大日本帝国】
歴史 その他 世界のマイナー戦争犯罪
2020/10/11追記: 某所でナウル共和国様が話題となったようで、その関係で当記事もアクセスされていたようです。
ただ、一部わかりにくい記述が誤解を招いたっぽいので、取り急ぎ脚注を追加して補足させていただきました。
ここしばらく、大日本帝国統治下の南洋群島について記事を書いてきたのですが、今回はそのおまけ的記事です。
大日本帝国委任統治領だった「南洋群島」よりさらに南、南緯0度32分、東経166度55分には、ナウル共和国という、国土面積21平方キロメートルの小さな国があります。
(独立国としては世界で3番目に小さな国。ちなみに1位はバチカン市国、2位はモナコ公国です。)
かつてはリン鉱石の採掘で栄え世界でも有数の国民所得を誇ったものの、20世紀末にリン鉱石資源が枯渇、一気に最貧国になった国、といえば(日本でも割と失礼な扱いで取り上げられたりしてたので)思い出す方もいるかもしれません。
このナウル共和国の国土であるナウル島は、太平洋戦争時、日本の統治下にありました。
本日の記事は、日本統治下で起こったナウル住民の受難について。
(というか日本が加害者なのですが。)
日本による占領までの経緯
ナウル島は1888年からドイツが領有していたのですが、第一次大戦時にオーストラリアが占領、その後はイギリス、オーストラリア、ニュージーランドが共同で委任統治にあたっていました。
第二次大戦が勃発すると、ドイツがナウルを攻撃、ドイツ海軍の仮装巡洋艦「コメート」と「オリオン」がナウル沖で連合国商船4隻を沈め、さらにナウルを砲撃しています。これによりリン鉱石の積み出し施設やオイルタンクなどに損害を与えました。
その後、ナウルは参戦した日本によって占領されることとなります。
1942年8月22日、日本が駆逐艦「有明」で砲撃を行い、25日に同艦乗員で編成された陸戦隊が上陸、26日にはナウル島を占領しました。
以降、ナウル島は日本の統治下に置かれます。
占領の目的は、マーシャル諸島の防衛と、リン鉱石資源の獲得でした。
ナウル占領後の日本軍
ナウル島占領後、日本海軍は飛行場を設営します。1943年1月下旬には第755航空隊の陸攻と第201航空隊の零戦が進出、索敵哨戒や防空任務に当たりました。
ナウル守備隊も置かれ、5月には12センチ7連装高角砲*1や15センチ平射砲などの火力を備えて、米軍の攻撃に対して守りを固めています。
1943年9月には米機動部隊による空襲もあったのですが、結局のところ、米軍によるナウル島攻略作戦は発動されませんでした。
地形が複雑で防備の固いナウルを攻略しても、それに見合うメリットがないと判断されたためです。
1943年11月、ギルバート諸島のマキン、タラワで日本軍が玉砕すると、それ以降、ナウルへの補給が途絶することとなります。
ナウル守備隊は深刻な食糧不足となるものの、かぼちゃを栽培したり、椰子の樹液を採取したり、漁労を行ったりして食いつなぎました。
その後、同島で終戦を迎えたナウル守備隊は、1945年9月13日、オーストラリア海軍のフリゲート「ディアマンティナ」にて降伏文書に調印、ブーゲンビル島の仮収容所に収容されることとなります。
ちなみに、ナウル占領目的の一つであったリン鉱石の採掘については、一応技師が送り込まれたものの結局リン鉱石が出荷されることはありませんでした。
ナウル残酷物語
さて、ここから本題。
日本軍占領下での、ナウル住民の受難について二つばかし。
その1 トラック島への強制移住
当時のナウル島人口は2000人弱程度だと言われていますが、日本軍はこの内の半数以上をトラック諸島に強制移住させました。
1943年6月〜8月、日本軍は疎開の名目でナウル人1200人をトラック諸島へ移住させます。戦局悪化の中での口減らしが目的ともいわれていますが、あまりはっきりしていません。
移住させられたナウル人たちは、海軍基地や農場で徴用されて働かせられたりもしたようです。
1944年2月、トラック諸島は米第58機動部隊の空襲を受け、以降、補給が途絶しました。このため、ナウル人たちも飢餓に見舞われることとなり、トラック島で生まれた子供23人を含む461人が死亡することとなります。戦後、帰島できた人々は移住者中の3分の2でした。なお、現在のナウルでは、ナウル帰還の1月31日は記念日とされています。また、初代ナウル大統領のハンマー・デロバートもトラック島からの生還者でした。
その2 ハンセン病患者の虐殺
もう一つ。
ナウル守備隊の第六七警備隊副長の指示により、現地のハンセン病患者39人を海上で殺害したという事件があります。
1943年7月、守備隊は「ポナペの離島の療養所に移動させる」と患者を騙してボートに乗せ、海軍船「神州丸」*2で曳航して海上に連れ出した後、同「神州丸」にてボートに砲撃を加えて沈没させました。水死を逃れた患者も銃撃により射殺しています。
この事件に関与した兵曹長と二曹は、戦後オーストラリア軍によるBC級戦犯裁判により終身刑を言い渡されました。
なお、指示者である副長は別件で死刑となっております。
虐殺を行った理由については、上記裁判の法廷にて、兵曹長が副長の発言を証言しています。発言内容は、連合軍による空襲で収容所が破壊されて患者が逃げ出したら島民が感染するかもしれない、次世代に遺伝する病気だ、というものでした。
(殺害しようという発想はともかく、副長の発言は残念ながら当時の一般的認識ともいえるものです。なお、現代においてはハンセン病は治療法が確立されており完治する病気です。また、ハンセン病の感染力は弱く、感染時期は免疫系が十分に機能していない乳幼児期で、その期間の濃厚で頻回の暴露以外ほとんど発病につながりません。もちろん遺伝病でもありません。)
ちなみに、この事件については厚生労働省の以下のページでも触れられています。
(ナウルの件は、「第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」にあります。)
www.mhlw.go.jp
現在のナウル
ナウル島の現状についても少々。
現在のナウルは、冒頭で述べた通りリン鉱石が枯渇し苦境に陥っています。しかし、近年、希少化したリン鉱石の価格上昇を受け、これまで放置されていた燐酸含有量の少ない鉱石の採掘を始めており、その輸出で経済状況がやや好転しているようです。
また、奇策というかなんというか、オーストラリアに向かう難民をナウルで受け入れることで、オーストラリアからの経済援助を引き出すことに成功しました。
これに付随して難民収容所で働く外国人労働者向けのサービス業や住宅建設が盛んになっているのですが、その一方で、人権団体からは難民に対する人権侵害も指摘されています。
ちなみに、戦時中はともかく、その後は日本とほとんど接点がないと思われている方も多いようですが、実は1970年代にはナウルからのリン鉱石輸入や日本からの自動車輸出などが行われており、赤坂にはナウル領事館があったりもしました。なんと鹿児島空港には定期便も設けられています。
しかしながら、1980年代に入ると関係は後退、領事館は閉鎖、定期便も撤退してしまいました。
最後に
今となってはほとんど日本との接点が無くなってしまったナウルですが、日本はかつて多大な迷惑をかけていたわけですね。
イジメなんかだと、加害者側はいじめたことをすぐ忘れてしまうと言われてますが、日本も同様にナウルへの加害者であったことを忘れ去っているようです。
あまつさえ、リン鉱石枯渇後のナウル共和国の惨状について「面白おかしく」取り上げたりも*3。
昨今、「日本人」であることを誇りとする方*4も多いようですが、そこを誇りとするなら過去に日本人がやらかしたことについて、もう少し誠実に向き合うべきなんじゃないかなあなどと思いつつ本日の記事を終わります。
*1:2020/10/11追記:四十口径八九式十二糎七高角砲のことです。記事中の書き方だと7連装みたいで紛らわしかったですね。
*2:2020/10/11追記:この「神州丸」はおそらく「神洲丸」のことで海軍の特設監視艇の方だと思われます。
神州丸/神洲丸という名前の艦船は複数あって非常に紛らわしいのですが、特設監視艇「神洲丸」が、1943年7月にナウル方面にいて、かつ第六七警備隊指揮下に置かれていたことからの推測です。
本記事のハンセン病患者虐殺については、オーストラリアで公文書を発見した林博史先生の発表を大いに参考にさせていただいているのですが、船名(神州丸)もそちらに拠っています。
推測通り特設監視艇「神洲丸」だったなら微妙に名前が異なるのですが、たぶん当たってると思いつつ断定できるほど調べたわけでもないので「神州丸」のままにしてます。
*3:私が軽蔑してやまない某氏なんかは、かつて、ナウルの名を挙げて「家に例えると、くそ貧乏長屋で、泥棒も入らない」などと揶揄したりしてました。
*4:正直、この感覚は私には理解不能なのですが…。
#
戦争犯罪
#
ナウル
#
ハンセン病患者虐殺
#
日本軍
oplern (id:lmacs510) 5年前 読者になる
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今となってはほとんど日本との接点が無くなってしまったナウルですが、日本はかつて多大な迷惑をかけていたわけですね。
イジメなんかだと、加害者側はいじめたことをすぐ忘れてしまうと言われてますが、日本も同様にナウルへの加害者であったことを忘れ去っているようです。
あまつさえ、リン鉱石枯渇後のナウル共和国の惨状について「面白おかしく」取り上げたりも*3。
昨今、「日本人」であることを誇りとする方*4も多いようですが、そこを誇りとするなら過去に日本人がやらかしたことについて、もう少し誠実に向き合うべきなんじゃないかなあなどと思いつつ本日の記事を終わります。
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