日本军国主义统治时期印度尼西亚的日语教育》的修订版。
根据以往的研究,日本殖民地和占领区日语(国语)教育的总体情况可以归纳为以下几个方面。首先,日语传播措施的形式大致可分为两种:"国语 "教育领域(台湾、朝鲜和满洲)和 "东亚语 "教育领域(大陆占领区和南方占领区)。在南方占领区,由于占领区幅员辽阔,大量决策权被下放给各地区的军事行政督察署。因此,在南方占领区,各地区根据当地情况采取了不同的日语传播措施。与在日本军事统治下获得独立的 "菲律宾 "和 "缅甸 "相比,1943 年被宣布为 "帝国领土 "的印度尼西亚与马来亚一样,在帝国化教育方面得到了大力推广。这可能是因为拥有石油资源的印度尼西亚对日本来说具有重要的战略意义,日本的目标是 "迅速获取重要的国防资源"。因此,如果说在殖民地 "传播民族语言以实现同化 "是帝国化的顶峰,那么 "传播日语以实现日本化 "则是在印尼进行的,因为印尼是南方被占领土中最接近殖民地的地方,也是日本化得到大力推广的地方。然而,在殖民地,日本人剥夺了居民的民族身份,包括语言、宗教和姓名,而当时在印尼却没有实施这样的政策。因此,尽管军政权时期印尼的日本化政策无疑是殖民地同化政策的延伸,但二者之间存在着显著差异。
与殖民地不同,大陆占领区采用速记法教授日语,因此可以说,就教学方法而言,南方占领区比大陆占领区更接近殖民地的国语教育。因此,正如松永(Matsunaga,1999 年)所言,毫无疑问,在台湾引进的直接教学法蔓延到了朝鲜、满洲和南部占领区的日语教育。然而,就印尼而言,虽然其政策是采用 "直接传授法 "教学,但小学教育阶段的教学语言既有当地语言,也有印尼语,这与台湾和韩国限制或禁止使用当地语言的做法仍有所不同。印尼为什么要实行直接说教的教学政策呢?据推测,这可能是为了利用在殖民地完善的直接传道教学经验。然而,这些政策并不符合日语教学必须从零开始的实地情况,可能会给当时的印尼教育造成混乱。此外,正如在朝鲜的 "军政府 "时期(1910-1919 年)军警逮捕独立运动人士一样,民族主义者在殖民地遭到了彻底镇压,而在印尼,苏加诺和哈达等民族主义者却被允许与日本合作。在这一时期,印尼将印尼语作为官方语言,并奉行认可和鼓励民族主义的政策,导致民族主义走向独立,这对当前的对日情绪产生了积极影响。但需要注意的是,这些政策并非针对当时的印尼人民,而只是确保占领和治理顺利进行的实际措施。殖民地的日语教育与被占领的南部地区的日语教育最大的区别在于,殖民地的教育政策是以内地的教育政策为基础的,教育制度和学校设施比被占领的南部地区更加完善和发达。殖民统治初期,台湾在教育政策、教学方法、教科书等方面存在不少问题,但到 1911 年《朝鲜第一教育条例》颁布后,这些问题有了明显改善。可以说,正是在这一时期,殖民地才具备了全面开展国语教育的条件。从《台湾教育令》和《朝鲜教育令》(第 1 号和第 2 号诏令)的文本内容来看,可以认为同化政策是同时推行的,因为这两项命令都有与之相吻合的部分。这一点在教科书方面也很明显,两个地区的国语读本分别于 1912 年、1923 年和 1942 年同时出版,即各自教育令颁布的第二年。不过,可以说,这样一套完整的国语教育体系,是台湾统治约 50 年、韩国统治约 35 年的长期殖民政策试错的产物。这是因为,纵观殖民地时期的日语教育过程,我们可以看到教学方法的转变,从殖民地初期的双语教学法(强调实用性)到殖民地中期以后的直接教学法(强调意识形态)。通过直接法传播日语是殖民地同化教育的象征。然而,即使通过国语殖民教育,要在精神上同化台湾和韩国人民也并非易事,很难说完全做到了。
军政府时期印尼学校教育的日语教科书在很多地方都表现出浓厚的帝国主义色彩,表明政府有意在教授日语时强调意识形态。此外,爪哇语版本中的一些原始材料和描述也是内地国有化读本原文所没有的。这一点与殖民时期的国定读本基本一致。但事实上,在印尼的教育领域,语言教育在质量上要低于殖民时期的国家语言教育。特别是,Momose(2003 年)指出,在国立学校中几乎不存在语法课,而日语课中则积极加入了 "shoka"。然而,Momose 在泗水的研究中指出,国立学校的主要重点是教授汉字(片假名,然后是平假名,然后是汉字),但作者在马朗的调查中没有任何受访者表示他们学习过 "汉字"。这主要是因为当时马朗没有日语教师。与大城市的学校相比,马朗的学习环境较差,缺乏教科书,因此很难在学校教授汉字。因此,人们认为日语歌曲和体操是小学阶段的重点课程。虽然 Momose 在泗水的调查没有完全弄清罗慕沙人的实际情况,但这次的访谈显示,罗慕沙人当时被迫从事苦力工作,这是为了确保当地日军的防卫设施建设和 "生存 "资源而进行的强迫劳动。据调查,罗穆沙人被强迫做苦工。此外,还发现马朗国立学校没有日语教师,在国立学校以外的地方(如在穆索拉),有由印度尼西亚助理士兵教授日语的情况,而且在马朗教育基地还教授以前的研究中没有提到的歌曲和军歌,如 "Kurogane no Chikara "和 "Infantryman no Honryo"。研究还显示,马朗教育机构教授 "Kurogane no Chikara "和 "Infantryman no Honryo "等歌曲和军歌。另一方面,在研究殖民地地区的日语读物教科书的过程中,发现台湾的第一本读物、旧本科日语读物(《朝鲜》)与印尼实施《大纲》之前(1943 年之前)的日语教科书有共同之处,即都使用 "注音假名 "和 "双语翻译 "系统。由于这两本教科书都是在殖民(占领)统治初期发行的,因此可以印证军政初期印尼日语教育中类似殖民地时期的试错。随后我们发现,由新民委员会内务部编纂的第一本韩国语读本《普通学校国语读本》(Teasi Yomihon,1912 年出版)和《国立学院国立小学日本语读本》(Nippon Gonohon Ichi for Elementary National Schools of the National Academy,1943 年出版)以体名开头,性质非常相似。虽然这两本教科书的出版日期相距甚远,但值得注意的是,蒙古自治区在朝鲜殖民统治初期参照日本读本编撰了这两本教科书。最后,我们想重新审视一下军政府统治下的印尼日语教育在三年半的时间里所取得的成果。从政策层面与实际层面的差异来看,爪哇军政府用日语教授日语的目标并未实现。然而,位于爪哇岛与首都雅加达对岸的马朗(Malang)的受访者仍然清楚地记得他们 70 多年前学过的歌曲,这表明使用 "shoka "进行的日语教育在保留率方面取得了一定程度的成功。但实际上,学习者在当时并不了解歌词含义的情况下被迫背诵歌曲。因此,在马兰,由于各种因素的综合作用,学习者对日语的理解程度显然没有达到日本所期望的水平。至少可以说,该地区的日语教育没有达到语言教育应有的效果。但是,随着岁月的流逝,这些歌词仍然被受访者铭记在心,这说明当时的 "shoka "课程的影响力是如此之大。可以说,shoka 课程非常适合印尼军政府时期的 "短期快速学习法"。当时在其他被占领的南部领土上,shoka 在多大程度上被用于语言教学还有待澄清。这是一个有待未来解决的问题。本文是2017学年向宫崎大学研究生院教育学研究科(学校教育支援学部日语支援教育专业)提交的硕士论文《日本军国主义统治时期印度尼西亚的日语教育》的修订版。
先行研究から把握できた日本植民地・占領地の日本語(国語)教育全体の概況を整理すると、軍政期インドネシアの日本語教育は、日本語教育史の中で以下のように位置づけられる。まず、日本語普及策の形態は「国語」教育圏(台湾・朝鮮及び満州)と「東亜語」教育圏(大陸占領地及び南方占領地)の 2 つに大別できる。南方占領地では占領地域が広大であることから、各地域の軍政監部には大きな決裁権が委ねられていた。したがって、南方占領地では地域ごとに現地状況を踏まえた異なる日本語普及策がみられる。日本軍政下において独立を認められた「フィリピン」「ビルマ」に比べ、1943 年に「帝国領土」に決まったインドネシアではマラヤと並んで皇民化教育が強く進められた。これは「重要国防資源の急速獲得」を目指す日本にとって、石油資源を持つインドネシアは戦略的に重要な場所であったからであろう。それゆえ、植民地における「同化のための国語普及」を皇民化の頂点とするならば、インドネシアでは「日本化のための日本語普及」が行われ、南方占領地の中では最も植民地に近く、強力に日本化が進められた地域であったといえる。ただし、植民地の場合は日本によって言語・宗教・名前を含め、住民の民族としてのアイデンティティーが奪われたのに対して、当時インドネシアの場合はそのような政策は実施されなかった。それゆえ、植民地における同化政策の延長線上に軍政期インドネシアにおける日本化政策があることは間違いないが、両者の間には大きな差異があるといえる。
大陸占領地では植民地とは異なり、日本語教授法に速成法が採用されたことを踏まえると、教授法の面では大陸占領地よりも南方占領地の方が植民地の国語教育に近かったといえる。したがって、松永(1999)の言うように、台湾で導入された直説法が朝鮮、満州、さらには南方占領地の日本語教育へ波及したことは間違いないだろう。しかし、インドネシアの場合は「直説法」での教授を方針に掲げながらも、初等教育レベルでは教授語に地方語とインドネシア語が併用されていたことから、現地語の使用が制限または禁止されていた台湾・朝鮮とはやはり異なる。インドネシアでは直説法による教授をなぜ方針として掲げたのだろうか。おそらく、それは植民地で完成された直説法の教授経験を活かそうとするものであった。しかし、これらの方針は日本語を一から教授しなければならない現場の状況には即しておらず、当時インドネシアの教育現場では混乱を招いた可能性がある。また、「武断政治」期(1910 年~ 1919 年)の朝鮮でみられた憲兵警察による独立運動家の逮捕のように、植民地では民族主義者を徹底的に弾圧したのに対し、インドネシアではスカルノやハッタなどの民族主義者を対日協力させている。この時期にインドネシア語の公用語化と民族主義を是認・奨励する方針が採られたことは、独立に向けたナショナリズムの高揚に繋がり、現在の対日感情に肯定的な影響を与えている。ただし、当時これらの方針はインドネシアの人々に目を向けたものでなく、あくまでも円滑な占領統治のための実際的な方策として打ち出されたものに過ぎないことに留意しなければならない。植民地における国語教育において、南方占領地の日本語教育と最も異なる点は、教育政策が内地のものを参考に進められ、教育制度及び学校設備等が南方占領地に比べて整備され、充実していたところにある。植民地支配当初は教育方針・教授法・教科書等の面で問題が山積していたが、第 1 次朝鮮教育令が公布される 1911 年頃には、台湾ではそれらの問題の顕著な改善がみられる。植民地において、本格的な国語教育の条件が整ったのはこの頃からであるといえるだろう。台湾・朝鮮両教育令(第 1 次、第 2 次)の本文内容を見ると、それぞれ一致している箇所があることから、同化政策が同時並行的に進められていたと考えられる。また、両地域の国語読本は各教育令が出された翌年の 1912 年、1923 年、1942 年にそれぞれ同時に刊行されていることから、教科書の面からもこれは明白である。ただ、このような完成された国語教育体制は、台湾統治およそ 50 年間、朝鮮統治約 35 年間の中で、長期にわたる植民地政策の試行錯誤から生み出されたものといえる。というのも、植民地国語教育のプロセスを見ても、植民地初期には対訳法(実用性重視)、中期以降は直説法(思想性重視)と教授法の面からもその変遷がみてとれるからである。そして、この直説法による日本語普及こそ、植民地における同化教育の象徴であった。しかしながら、植民地の国語教育を以てしても、台湾・朝鮮の人々を精神的に同化することは容易ではなく、完全に達成できたとは言い難い。
軍政期インドネシアの学校教育用日本語教科書には、随所に皇民化色が見られ、思想性を重視した日本語教育が企図されていたことがわかる。また、内地国定読本の原文にはない、ジャワ版オリジナルの教材や記述についても散見される。この点は、植民地国定読本とおおむね一致している。しかし、実際インドネシアの教育現場では植民地の国語教育よりも言語教育として質的に水準の低い授業がなされていた。特に、国民学校では文法の授業がほとんどなかったこと、日本語の授業において唱歌を積極的に取り入れられたことは、百瀬(2003)の指摘する通りである。しかし、百瀬はスラバヤの調査において、国民学校では文字指導(片仮名→平仮名→漢字の順)が中心であったと述べているが、筆者がマランで行った調査で「漢字」を習ったと答えたインフォーマントはいなかった。これはマランに当時日本人教師がいなかったことが大きく関わっていると考えられる。大都市の学校現場と比較すると、学習環境の悪さや教科書不足とが相まって、マランでは学校で文字指導を行うことさえも容易でなかったことが推測される。だからこそ、初等教育レベルでは日本の唱歌や体操などが授業の中心になったものと考えられる。そして、百瀬のスラバヤの調査では、ロームシャの実態について十分に明らかにされていなかったが、今回の聞き取り調査によって、当時ロームシャたちが過酷な作業を強いられていたこと、それらは現地日本軍のために防衛施設工事・「自活」資源確保を目的とした強制労働であったことが判明した。これに加えて、マランの国民学校には日本人教師がいなかったこと、国民学校以外(ムショラ等)ではインドネシア人兵補が日本語を教える場合があったこと、さらに先行研究では挙げられていない「くろがねの力」「歩兵の本領」等の唱歌・軍歌がマランの教育現場で教えられていたことも明らかになった。一方、植民地の国語読本の教科書研究をする中で、第 1 期台湾読本、旧学部期日語読本(朝鮮)、インドネシアの「要綱」施行前(1943 年以前)日本語教科書には「表音的仮名遣い」で「対訳式」という共通点が見つかった。ともに、植民地(占領地)支配当初に出された教科書であることから、インドネシアにおいても、軍政初期の日本語教育では植民地のような試行錯誤が確認できる。そして、第 1 期朝鮮読本『普通学校国語読本』(テアシ読本、1912 刊行)と、興蒙委員会内政部編纂『国民学舎初級国民学校用ニッポンゴノホン 一』(1943 年刊行)ではその冒頭が身体名称から始まっており、酷似している点を発見できた。両教科書の刊行時期は大きく離れているが、「蒙古自治邦」では朝鮮植民地支配当初の国語読本を参考に教科書を編纂したことがうかがえ、興味深い点であるといえる。最後に、軍政期インドネシアにおける日本語教育がその 3 年半という統治期間の中で、はたしてどの程度の成果を挙げることができたのかについて再考したい。政策レベルと実態レベルの齟齬でいえば、日本語を日本語で教えるというジャワ軍政監部の目的は達成できなかったことになる。ただ、首都ジャカルタから見て、ジャワ島の正反対に位置するマランにおいて、70数年前に習った歌をインフォーマントたちが今でもはっきり記憶していることから、唱歌を用いた日本語教育は定着度の面から一定の成果を残したといえるだろう。とはいえ、実際のところ、学習者たちは当時歌詞の意味もわからないまま、覚えさせられていたというのが実状のようだ。したがって、マランに関していえば、学習者の日本語理解度は、様々な要因が重なって、日本が期待していたレベルには到底及んでいなかったことがわかる。少なくとも、この地域における日本語教育は、言語教育として見るべき成果を挙げられなかったといえよう。しかしながら、インフォーマントの記憶が年を経るごとに薄れていくなかで、彼らがこれらの歌詞をいまだに覚えていることは、唱歌の授業のインパクトが当時それだけ強かったということである。軍政期インドネシアの「短期速成方式」に、唱歌を用いた授業はうまく適合していたといえそうだ。他の南方占領地において、当時唱歌が言語教育にどの程度利用されていたのかという点については、いまだ解明されていない。今後の課題としたい。(付記)本稿は、平成 29 年度、宮崎大学大学院教育学研究科(学校教育支援専攻 日本語支援教育専修)に提出した、修士学位論文「日本軍政期インドネシアにおける日本語教育」を改稿したものである。
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