マッカーサーへの投書に見る敗戦直後の民衆意識 川島 高峰☆

 マッカーサーへの投書に見る敗戦直後の民衆意識


川島 高峰☆


AN ANALYSIS OF THE JAPANESE LETTERS


TO THE GENERAL MACARTHUR


Takane Kawashima


はじめに


占領期 GHQ 当局に宛てられた日本人の投書総数は約54万通にも及ぶ(土)。 この投書資料に先鞭 を付けたのが袖井林次郎氏である (2) 。 同資料は, マッカーサー記念館 (バージニア州ノーフォーク) にマッカーサー自身が気に入って抜粋したものが約3,500通, そしてナショナル・レコードセンター (メリーランド州スートランド) のGHQ/SCAP文書に相当数が収録されている。 しかし、これ ら投書資料に対する分析はその重要性に比し未だ不十分である。 袖井氏の先駆的研究の後, 東京新聞 記者林茂雄氏が投書者10数人を訪ねた取材記を発表したに止まる(1)。 この小論はこうした分析の不 足に応え、敗戦直後の民衆意識の再構成を試みるものである。


上記のGHQ 文書は現在, その大部分を国会図書館憲政資料室で閲覧することができ, 本論でもこ れを活用することにした。 ここでGHQ 文書に見られる投書資料の概要について述べておく。 当時, GHQ当局宛の書簡は先ず翻訳通訳部隊 (ATIS) で処理され、 重要なものについては英文に全 訳,それ以外のものは要約がつけられ関係各部局に送られた。 従って,投書はGHQの各部局に散見 することが出来る。 最も量のあるのが副官部 (AG) であり, 1946年6月~52年2月までのものが収 録されている。次いで、参謀課 (G-II) のファイルに1945年10月から48年3月までの投書を見る ことができる。 このAG, G-I の双方はともにマッカーサー元帥宛のものである。これに対し民事 局 (CAS) には主に1946年後半以降、地方軍政部に宛てられた投書が確認できる。 また、国際検察 局 (IPS) のファイルに1945年11月から46年1月の間に書かれた「ヒロヒト天皇に関する日本人の 投書」があることが袖井氏により指摘されている。 しかし、残念ながら同文書の閲覧は現在までのと ころアメリカ国立公文書館に限られ、 今回の分析に用いることはできなかった (近く, 憲政資料室で も閲覧可能となる)。 また, 民間情報教育局 (CIE) では投書内容の傾向を分析し, 1946年1月から 47年10月まで17回 (不定期。 No.17以降の所在不明) の報告書を作成している。これにより当該期の大 まかな投書傾向を知ることができる。 これ以外にも陳情, 請願, 告発, 声明等々として全ての部局のファイルに投書資料を見ることが出来る。


占領軍への投書だけから戦後意識を抽出することには異論もあろう。 対象が占領軍へ投書した者に 特定化されてしまうからである。 この偏りについて 他の書簡資料の可能性について触れておく。 第 は日本政府に対する投書であり, 東久邇宮が新聞紙上 (8月30日発表, 翌日報道) で国民に投書を 呼びかけたのに寄せられたものである。これには当初「連日四, 五十通」 (毎日 9月4日) であった が、やがて 「平均八〇〇通~九〇〇通」 ()に達し、最も多い日で「一日に一三七一通」 () が来たと いう。従って、その総計は二万五千~三万通と推定できる。 東久邇宮内閣は10月4日の 「政治,信 教, 民権の自由に対する制限の撤廃の指令」 を実行不能として総辞職したが,この投書政治は幣原内 閣にも引き継がれた。 11月7日の毎日新聞によると組閣以来約1ヵ月で1,000通の投書が寄せられた という。 また, 1946年, 内閣審議室世論調査班が憲法草案に対する意見を呼びかけたところ, 3月7 日から31日迄の間に1777通の書簡が寄せられた。 しかし、残念ながら現在その所在を確認するこ とはできない (7) 第二はGHQの民間検閲部 (CCD) の資料である。 これはGHQ 文書のCISの ファイルで見ることが出来る。 周知のようにGHQは1945年10月から49年10月まで私信検閲を行った が、この占領軍の目となり耳となったのがCCDである。 検閲官は 「全国で約2000名で, 1人1日平 70通」を読み, 全郵便物の2パーセントが検閲を受けていた(8)。 この私信検閲の資料からも世論の 動向を知ることが出来る。 しかし,当然のことながら書簡そのものは宛先人に郵送されているので殆 ど見ることができない。GHQへの投書, 日本政府への投書,そして検閲された私信, この三面から 戦後意識の検討が構成されればより完全なものとなろう。 この不備についてはいずれかの機会に稿を 改めたいと思う。


GHQ 当局への投書は占領政策の進展と共に増える傾向にあったが (9), 1945年末までの投書総数 は多くとも1,000通を越えず800通前後 (10) であった。 従って, 敗戦直後のGHQへの投書は日本政府 宛のものに比べるとはるかに少ない。 しかし, 54万通という数字を想起されたい。 これは単純計算し ても実に当時の日本人の128人に1人() が GHQに手紙を書いていたことになる。 敗戦直後の投書は 数こそ少ないものの、国民的な投書行為への原点とも言える。 しかも、この様々な投書の文面には世 論調査のような数値化された分析からは、到底知り得ない意識の底流を見ることが出来るのである。


I アメリカ化と民主化


敗戦後の民衆意識について、 今まで,虚脱とか安堵という言葉が余りにも強調されてきた。 こうし た民衆意識のステレオタイプ化は戦後意識を 「玉音放送」 直後の反応としてのみ考察してきた結果で ある。民衆の戦後意識は天皇だけを機軸に展開していた訳ではない。 投書の多くはその宛名に「マッ カーサー司令部」と書かれており、 民衆のマッカーサーに対する位置付けがよく現れている。ここで はアメリカ化と民主化に対する日本人の二つの態度を検討する。

1) アメリカ化と変わり身の早さ


まず 「埼玉縣自由黨支部部員」 (12) と名乗る人の投書を紹介しよう。 「あゝ 我等国民愛す


君主マッカーサー大元帥陛下を君としたことこそ国民の一糸みだれぬ明るい清らかな身体となり生れ って米国民と日本国民と手結して行く来たそく ( 平和米日建設を心底より国民一人々々マッカー サー元帥に只々念願するのみです」(11月10日)


マッカーサーへの投書に目を通したものは日本人の変わり身の早さに驚かされるであろう。投書の 多くにはこのようなマッカーサー元帥や占領政策に対する称賛が込められ、おおよそ権力者に対し思 い付く限りの美辞麗句が見いだされる。思えば日本人はほんの少し前まで鬼畜アメリカをありとあら ゆる表現で罵倒してきたのである。 しかし, マッカーサーを「君主」 「陛下」と見立て、わざわざそ のために改行し, 日米と言わず 「米日」 と言うあたりは, 戦前の天皇に対する “恐れ多い”, “畏 し” といった対応と差異がない。 「一系みだれぬ明るい清らかな身体となり生れ変って」とは“みそ ぎ” の発想であろうか。こう簡単に反省されてしまったのでは, 民主化も何もあったものではない。


しかし CIE報告書によると, 1945年11月15日から12月末までに来た投書282通の中で占領軍並 びに占領政策に関するものが69通あり、その中で 「最も頻繁な要望」 として12通が 「長期にわたる占 「領」を求めていたという。そして、これらの要望は 「(a) 通常 10年から30年と期間を明細に指定し, (b)ほとんどの要望は連合軍が去った時の軍官の反動に対する恐れに基づいており,(c)意見の多くはさ らに, 連合軍の目的を支持する人の不安を和らげ、反動主義を志向するものを挫くために, 長期にわ たる占領が発表されるべきであるとの要望を含む」 ものであった。 実際の投書ではさらに踏み込んだ


要求が見られる。 少し長くなるがその幾つかを見てみる。


「私共は日本の古い官吏現在の官吏の基(˙*)に働く事は嫌いです


元帥さん日本をアメリカの図にしてよく治めて下さい 天皇もいりません。 アメリカ人の手で日本 の國が治められたら私共は幸福です」 (10月24日付, 大阪, 豊臣秀吉 )


「日本國民は最早自国政府の官僚共のやることにはつくづく飽き飽きして居ります大体國民の入 五%以上は貴國政府の支配下に入ることをどれほど待望してゐるか判りません若し夫れが叶ひません ならば即時軍政を施き国力の回復を促進さして下さい」(10月23日付, Y. S氏)


「既デニ崩壊消滅セル日本國ヲ今尚ホ存在セルガ如ク心得居ルノガ大井ナル錯誤カト考エラレマス 聯合軍米國占領後ハ即チ之レ准米國々民カト存ゼラレマス准米國民タル以上ハー切ヲ挙ゲテ米國化ス ルガ口當タル事卜存ゼラレマス」 (10月10日付, K. Y氏)


敗戦後間もない時期に 「日本米州論」 が現れていたことに驚きを禁じ得ない。 これが一部の人の投 書であったにしても、これらの人をして 「私共は」, 「國民の八五%以上は」 と言わしめた心情は決し て日本人の国民性や当時の世論と無縁ではない。 「聯合軍米國占領後ハ即チ之レ准米國々民」とは日 本人の事大主義の現れである。 しかし、何よりも大きな要因として 「米兵士達の人々が又我々国民に 少しもイバラない勝者の態度を以って我々に接しない返って弱者を慰める態度」 (12月21日付, I. T氏) を挙げることができる。 そこには 「貴國の兵隊さんを目のあたりに見ればこの私の如き頑固な國 粋論者でも貴園の方々が大部分神の如き立派な方々であると本営に涙を以って感激」 (10月23日付, Y. S氏) するというような草の根的な信頼関係の形成があった。 このような信頼があったからこ そ 後に投書は54万通へと拡大したのである。


2) 民主化と旧意識


先に触れたアメリカ兵に対する称賛には, "日本人ならばこうはいかないだろう”という意識が潜


在していた。 高見順はこれをこう回想する。 「支那では, どこへ行っても必ず, 日本人が支那人に威 張っている場面を見かけたものだ。日本人が支那人を殴っている場面は, どこかに必ずあったもの だ。 〈中略〉 日本人が他民族を苛めたのは日本人自身が日本人によって苛められていたからである。」 (『高見順日記』9月21日付)。 また, 占領の長期化の希望は反動勢力への懸念として表明されていた が,その背景には、日本人自身による日本人に対する愚民論とも言うべき見解があった。 例えば、 「勇 敢なる聯合國軍によりて残虐なる日本軍閥を打倒され民衆を多年に亘る歴政より開放され侑も, 日本 國民の一般心理にをいて軍國主義帝國主義的残滓が多分に包蔵され居り。 恐らく國民の七割迄が國家 主義を意識的にせよ無意識的にせよ抱き居るものと観察され升」 (10~11月, S. T氏), 「最も重要で 是非アメリカ人達に知ってもらいたいことは日本大衆の九十九%までは,少なくとも現在までは絶対 的に神がかりであり軍国主義であるといふことだ」 (10~11月, A. T氏)。


「國民の七割迄」, 「大衆の九十九%」 といった表現に、先に見た日本米州論の表現を想起した方も 多いのではないか。 この双方を換言するならば, “国民の大多数は旧意識的で、 親米的である”とい うことになる。また, “旧意識的で, 親米的” とは, 逆に言うならば, 日本人は軍国主義により主体 性を、そして敗戦により自信を喪失していたことを意味する。このような日本人の内面に無自覚で、 無批判なものは、安易に 「一切ヲ挙ゲテ米國化」することで戦後を肯定しようとしたのであろう。


実際, 長年にわたる警察国家は,単に人々に恐怖心を内面化させたに止まらず, 服従することを習 慣にさえしてしまっていた。 例えば、 千葉陸軍病院からは 「負戦以来現在迄, 戦争して居る時と同様 階級により命令にて自分達衛生兵を働かせ病院長は一人私欲に縣 [懸] 命です」 との訴えがある。 衛 生兵は看護とは関係のない作業に毎日就かせられ、復員について院長は「命令が来いからと申すのみ にして復員に関しては何ら考へてくれず唯々自分の事のみ」 であるという。そして, 「NP [MP] を 派遣して一度内容をしらべて下さいませ又一日も早く我々衛生兵を自由の身体にして下さいませ。 切に々に宜しくお願い致します」 (10月25日, 衛生兵一同) と哀願するのである。 何故, 自分達の手で 改革に立ち上がることができないのか?帰りたいのならば、自主的に帰郷すればよいのではないか? 患者が気掛かりというならまだしも、毎日院長の私用に使われているのである。 悲しいかな, 軍隊生 活は彼等を「命令が来い」 と動けない 「身体」にしてしまったのである。 それにしても、投書にはこ この種の「お願い」が多い。 闇取引の告発がその典型であるが, 身辺の不公正, 差別等を告発し, 特定 この人物の役職・地位からの更迭や追放を訴えるというものが実に多い。


また、この「お願い」の中には希に“弱者の恫喝”とも言うべき訴えが見られる。 例えば,「閣下ヲ 我々八平和/救世主ト敬ツテ居リマシタノニ食糧ノコトハ何トモ話サレマセン 我々ハドウセ来年ノ 五六七月頃ノ端境期ニナツタトキ餓死スルナライツソノコトB29ニ焼カレタ様=金ノアルモノ 食物ノアルモノダケガ生キ残ルコトノナイ様本当=日本ノ 全土ヲ焦土スルタメ(*) 着々卜我々同士 一同準備ヲシテ居リマス 〈中略〉 モウ我々ハ日本ガ民主々義ニナルナラナイハ眼中デアリマセンソレ ヨリ生キルノガー杯々々デス 〈中略〉 ドウカ一日モ早ク閣下ノ御英断ヲオヒシマス 我々ハ希望ナ キ平和デアル 我々ノ同士モ密カニー千五百万人程オリマス ヤレバヤル決心デアリマス」(11月23 日, O. 日生)。 ここには当時の日本人の窮状が滲み出ている。 貧富の差や、不平等を社会構造として 把握する視点が欠落しているところでは、 自暴自棄な気持ちと 「閣下ノ御英断」 へのお願いが屈折し た交錯を見せる。 食生活もおぼつかないのでは、民主化も程遠いのである。 しかし、それでも個々人 の政治社会に対する自浄能力の低さが指摘されねばなるまい。 要求を組織化し実現して行くような 政治的成熟度が著しく欠如していたのであり,それがこの種の 「お願い」 を生み出すのであった。


ある手紙は 「新生日本トカ再建日本トカムツテ日本全國民 自由民主主義ヲ普及浸透セシムルニ ハ實ニ容易ナラヌ事デ巡査ノ末端ヨリ総理大臣ニ至ル迄員に (˙*) 公僕感ニヒタル事が何年後=実現ス ルカ」と始まり、 そして 「最近総司令部デハ人民ノ警察=対スル恐怖心ヲ除去スルニハクモ六七年 ハカルト云フテ居ル点ヨリ見レバツマリハ総司令部ノ御手数ヲハサナクテハ眞ノ自由民主主義 普及ハダメカナ鳴呼ナサケナイ」 (11月18日, O.M氏) と締めくくられる。これを「建設ノ声」と題 したのは痛烈な皮肉であろう。 投書には、日本人の主体性を問題視する声が散見できる。 問題が国民 の政治意識である以上、その対応策というものは容易ではないし, 短期間に達成されるべきものでも ない。 しかし、その殆ど全てが単に問題点を指摘するに止まり、 具体的な対策を述べたものはない。 むしろ、旧意識という圧倒的多数に対して、 どこか諦観的で, そして自嘲的ですらある。このような 知識階層の態度は戦後民主化が占領下におこなわれたということに起因するのではないだろうか。戦 後民主化は愛国心やナショナリズムといった心情とは全く逆行する中で展開したのである。 先の弱者 の恫喝もこの被占領心理と背中合わせにあると言えよう。 しかし、このような被占領心理をマッカー サーに直接訴えた書簡は数少ない。


「日本人ノ 日本ハイツクルンデセウダルマノヨウナ内閣ダラシノナイ内閣チットモ新日本自由ノ 日本ニハムカナイ内閣デス。 腰ヌケ内閣デス。 紙ニ書カレタ道徳ハ活花ノ法則ノ如ク自然カラ學ンダ モノデハアルガ自然ノ何処ニモナイモノデアル。 温床チキ思想運動ハーツノ流行病ヤ突風ミタイナモ ノデアル。命令服従ダケデ人間が生活シタラ人間ノ進化ハ其ノ瞬間=止ッテシマフデアラウ。 人間ノ 自由意志ノ中ニコソソノ微妙ナル口ノ意志が現レルノダ 人工的ナ規則や刑罰が多クナルコトハ必ラ ズシモソノ民族ノ進歩ヲ意味スルモノデハナイノデス」 (10~11月, 匿名)


戦後民主化を 「紙ニ書カレタ道徳」 「流行病や突風ミタイナモノ」と言ってのけるこの人物は,日 本主義に対しても「日本が日本ラシカツタ時何時マデダツタノカ、紀元何年カラ何年マデオイフノ 「カ」と手厳しい。 この 「匿名」 氏、ここまでは実に立派な見解を主張しているのであるが, 手紙の後半になると 「軍罰官罰ハモット厳重ニシナケレバイケマセン」 と, "刑罰が多クナルコト” を主張し だす。そして, 戦時中の軍工場で不正利得を働いていた軍人2名の名前を挙げ, 彼等を 「殺セ」 と言 うのである。更には, ローマ字で「Mathukaasakensui banzai warerano kensui bansai」 とマッカー サーの称賛まで行う。 とても同一人物による書簡とは思えない変貌ぶりなのである。 しかし、 このよ うな二面性はこの人物一人のものではなく, 戦後意識の大きな特徴と言える。 そこには明治期の近代 化欧化と類似した点がある。 つまり、敗戦により民主化を余儀なくされた点と開国により近代化を 余儀なくされた点, 脱亜入欧に見られる欧化志向と日本米州論に典型されるアメリカ志向である。両 者に共通するのは自己否定や自己批判をすることなく自己変革を遂げようとする願望と,自己変革の ためには自己を否定せざるを得ないという屈折である。 この双方の狭間で分裂症的な気質に陥った日 本人は,しばしば,そのアイデンティティーの回復を求め極端に走るのである。


戦争責任をめぐって


戦争責任については日本に戦争責任はないとするもの、 自分には戦争責任がないという弁明, そし て戦争責任者の告発の三つに大別される。 全体として戦争責任者の告発が中心となるが,CIE の分 析によれば告発された 「最も顕著な階層を順に言うと政府官僚, 軍人, そして代議士であった」。 この 順番は、民衆に身近なところで権力を振るった者ほど槍玉に挙げられ,遠のくにつれその追及が殺ま るという興味ある傾向を示している。 「軍人又ハ警察官出身ニシテ現=市町村長ノ職=在ル者ノ罷免」 (11月1日, 大阪自由主義党) とあるように, 一般に警察官僚, 軍人が三大戦争責任者をなしてお りこれらが厚い層をなすことにより天皇に対する戦争責任のカモフラージュとなった。ここでは、 天皇, 軍人, 官僚, 警察に対する見解を分析し, 最後に戦争責任を否定する見解を紹介する。


1) 天皇の戦争責任


一般に戦争責任の追及はその矛先が九重の奥に及ぶことはなく、 世論調査においても国民の圧倒的 多数は天皇制を支持していた。 しかし、自主的な投書では世論調査とは異なる結果を示すことが ある。 CIEの調査によると11月中旬から1945年末にかけて、 天皇制を論じた書簡39通が寄せられて いたが,その傾向を次のように要約している。 「(1)全ての事例において現在の天皇についてのみ言及 しているのか、それとも天皇制について言及しているのか識別することができない。 (2)意見は,現状 のまま、もしくは改革されるならば天皇もしくは天皇制を支持する人々と, 明らかに反対の人々とで ほぼ二分される。 (3)このように論争の激しい主題については, 統治の体制を変革しようとする人々の 方が,体制を疑問なしに受け入れる人々よりも盛んに主張を訴えることが予測される」。 このうち(3) は世論調査の結果を踏まえてのことだろう。 また, (2)には反共の見解だけを示した投書は含まれない。 ので,これを天皇制擁護に数えれば投書でも天皇制支持が反対を上回ると思われる。


(1) にもあるように一般に天皇制を制度として把握する視点が欠落していた。 ある婦人は総司令部は「共産黨の連中と結託して天皇制廃止など云ふ馬鹿々しい与論を無禮たる(***) を論議してゐる」と し、 「アメリカと云ふ國の勝手気儘さは今までも戦敗國として仕方ないと半ば齒をくひしばつてこら へて居りましたがもうどうも我慢が出来ません」 と言う。 そして、「陛下にもし指一本でもさしてみる がいる私はどんな危険を冒してもマッカーサーを刺し殺してみせる」 (12月6日, 匿名) と決意を示し ている。 一般的にこうした感情的な傾向は天皇 (制) を擁護する見解に多い。 これに対し反対の見解 は 「最も頻繁な批判は天皇は軍国主義の手段であり、温床である」 (CIE報告書) という根拠を示す ものが中心であった。


先に述べたように敗戦直後期の天皇制に関する投書は国際検察局に回付されており、閲覧が出来た のはこの39通の三分の一に満たない。 そこで少し時期が後になるが, 1946年2月18日の愛媛県松山市 K. H氏の書簡を紹介する。 同氏は天皇の戦争責任を 「甲, 世界ノ立場カラノ立論」, 「乙, 日本人 立場カラノ立論」 に分けて論じている。 先ず 「甲」 において、 「天皇 天皇ノ御名=於テ宣戦布告 シ, 大元帥トシテ陸海軍ヲ統帥シ戦争ヲ遂行セラレタノデアルカラ最高戦争責任者デアル」として 当時、天皇訴追が免除されたことを 「聯合軍ノ公正ヲ疑ハシムルモノデアル」 と言う。 これに対し 「乙」では, 「天皇御退位ヲ指令スル程度=止メテ頂キ度イ」とし、これにより 「天皇制対スル日 本人ノ反省ヲ強メ日本民主化ノ促進=大ナル効果」が期待でき、 「天皇ノ戦争責任問題が解決」すると している。そして, 天皇は 「天皇ノ榮誉」 を保持するためにも 「政治軍事其ノ他一切ノ權力關興セ ラレズ之=超然タル御立場デナケレバナラス」 と主張するのである。


“天皇の戦争責任を 「程度」 の問題としてとらえ,これを退位に止め、天皇制は廃止する事なく非 政治化することにより存続する" とは,当時の世論を代表する見解であろう。同氏は天皇主権説を 「国民ノ批判力ヲ麻痺サセル阿片」としながら、 「天皇ノ楽誉」に執着し、乙の立場を採ったのであ る。 「終戦後深刻ナル煩悶/ 後忠君愛国ノカラ覚メタ時国家コソハ禍ノ源デアルコトヲ発見シタ」 というこの人物にして,なお 「阿片」 を捨て去ることが出来なかったのである。このことは,普遍的 なものを志向しながらも、個別的 (日本的)なものとの葛藤に苦しみ, 結局は 「世界人ノ立場」を採 ることが出来ない日本人の姿を象徴している。


2) 軍人、官僚、警察の戦争責任


“軍人” と言っても下は二等兵から上は大元帥である天皇までを指し, “官僚" もまたしかりであ る。つまり“身近さ" 故にその末端までを戦犯に含めることは,国民全部を戦犯とすることになり かねない。 このため、軍人、官僚に対する告発には,しばしばこの戦犯の境界線の定義が現れる。 あ る者は「全国ケイ察官ノ内、復員軍人, 下士官以上八軍国主ギ者デアルカラ之レモスグニヤメサセル コト下士官軍ノ中心ナリ」 (12月とのみ日付不祥、差出人名なし) とする。 しかし、この一方で「支 那ヤ南方=アル軍人ハ一日モ早クカヘルヨウ骨折ツテ下サイ皆家族へ心配シテ待ツテ井マス御ネガイ シマス」と主張するのである。 まさか, 下士官以上は復員しなくてもいいという訳ではあるまい。 同 胸の逸早い帰国は国民の誰もが抱いた思いである (4) しかし, 復員軍人の言動に軍国主義の復活を懸念する声は各所に聞かれるものであった。 CIE調査でも旧軍人に対しては 「軍国主義者は地下に 潜伏している(時間稼ぎをしている; かつて軍の諸団体に集められた基金を使っている 軍需品工場 を買収する組織を設立し、 そして政治結社を作ろうとしている)」という批判があった。 取り分け、復 貝軍人が警官や教員に採用されることに批判が多く寄せられた。 名古屋市のある易者もこれに反対 し 「復員軍人北海道移住其内乱暴者八警察ノ乱暴者ヲ加へ勿論民間ト雖モ乱暴者ハ口上ノ処分ト シ逐次改心復皈ノ処分トスルコト炭鉱其他各所ノ労務ニ使役スルヲ適当ナル処置カト存ジマス」 (11 月20日, G. K氏) としていた。


官僚に対する不信にもこの反動の懸念があった。 CIEの報告書によると「官僚はa. 帝国主義的 で, 軍国主義的であり、 そして民衆の抑圧に関与し, b. 現在では, 連合軍当局からの友好を得よう と装うことで自己を守ろうとし, そして, c. 占領が終了したならば手の平を返すつもりでいる」と いうのが官僚批判の一般的傾向であった。 都道府県の官吏, 市町村の首長や議員, 町内会部落会指導 者等が頻繁に批判され, その退職が求められていた。 そして、 最も身近な官製組織として隣組の廃止 を求める声が多い。 この官僚に対する批判は, 日中全面戦争への突入以降, 取り分け総動員体制の強 化に始まるものであった。 従って、敗戦後の官僚批判は少なくともそれに先立つ八年間、常に世論の 流を形成していたと言える。 しかし, こうした「事の善悪の目標を唯単に官吏官吏と社會より評 價」されることに異を唱える声が当の官吏から寄せられた。 この 「某判任官」によると、戦中、戦 後を通じて 「最も生活に苦難を感じたるは下層官吏即ち高等官の下級者及び判任官以下の者」であ り 「上層級の高等官 (五等以上と断定) は格別に種々と樂なる点」 (10月26日, I. H氏) があっ た。 そして、 「戦時中各官廳に於て戦争指導者として活躍してゐた所謂中堅人物は、概ね部長級, 又は 「課長級の者」(11月12日, H. H氏)という戦争責任の境界線がひかれる。 また、この戦争責任の境界 をめぐって 「日本の官吏は二十五歳ヨリ十八九歳位の若い今迄何も悪い事は知らない純情なる少年 で國家の政治に当たらして下さい 今の二十五歳以上の奴等は根上(˙*)のくさつた奴等ばかりです」 (前掲, 豊臣秀吉) といった世代間の不信が現れていた。 しかし、この官僚の境界線というのも非常 に微妙な位置にある。 というのは、戦時体制下とはいえ立身出世を望まぬ者はいなかった筈である。 また、敗戦当時の「若さ」も必ずしも当てになるものではない。 若い世代ほど軍国主義的な教育によ りまさに“純粋培養” されていたからである。


10月4日 GHQは政治信教並びに民権の自由に対する制限の撤廃に関する覚書を日本政府に交 付し,これにより特高警察が解体した。 この特高廃止はその境界線が明確なものであったが(5) GH Qの処置はまだ手ぬるいという批判が数多くこれに寄せられた。 例えば、ある匿名の人物は 「聯合軍 最高司令部ノオ人好ショ 愛知県特高警察廃止ノ実情ヲ知ルヤ 重要ナル人物ハ悉ク網ノ目ヲ逃レ取 ルニ足ラヌ人物ノミガ罷免サレテイルデナイカ」 とし, 秘密警察撤廃が指令された時点で既に他の部 課に異動していた重要人物の名前を指摘している。 さらに、余程腹に据えかねたのか 「日本警察/ 実 情ヲ知ラヌ故アンナ馬鹿ナ事ヲヤツタト思フガ」と前置きし、 「特高係ヲ直接指揮監督スルノハ各署 ノ署長次席」 (日付不祥, 差出人中部日本新聞) であると指摘した。 また、 「解職された特高職員は如「何なる行動」をとっているかについての告発も見られた。 自称 「大塩平八」 氏 (11月11日)によれ ば、依然, 警官用の交通 「バス」 を所持し闇買いに行き、かつての同僚はこれを黙認し、 「署長をはじ めとして署員はこれらの特高休職者を一般民間に雇入れ方を勧奨し」,「休職の特高員が各方面に慰労 金を集めに廻つてゐる」という有り様であった。 この投稿者は対策として 「罷免した警官は集団を組 まして北海道の開拓地拡大に使用する」ことを提案する。


軍人、官僚、警察の戦争責任をめぐる境界線で共通することは, しばしば,それが戦争受益者とそ うではない人との間に引かれていた点である。 ある自称「下級者」は戦争受益者に対する激しい憎悪 を示している。「今迄, 富豪な生活をして下の者を動物の様に見て居た者は焼けて当然です。子を亡し て良いのです。財産を失って結構です悪をすると,当然, 神がそうするのでせう。 悪魔も多く死んだ でせう。 B29は神の飛行機でせう。然し、 都会地は勿論, 大部分見舞てやりましたが、田舎の悪魔は 未だ未だ多く有ります」 (11月20日)。 次の例ではこれがさらに明確に現れる。 「聯合軍に於て犯罪者リ ストは比較的指導的立場にありし者上層部の者のみに止まるのではきかと存ぜられるますが一般民 間に於ける戦争受益者 (敗戦受益者も含めて)を広く人民投票により之等利得を吐き出させられ度く 又は人民審判制の如きものを創設し人民の手によりその不当なる利得を処分すべく御指示下され度く 「願ひます」 (10月21日, K. M氏)。 このように境界線の基準は,必ずしも軍国主義的な, 或いは非民 主的な価値に対する非難として設定されていたのではない。


そもそも、国民の殆ど全てが戦争協力者であると同時に戦争被害者でもあった。 このため、自己批 判を伴わない戦争責任の追及は、自己や身内について被害者意識ばかりが先行する。 例えば,特高廃 止によりその従弟が罷免された人は、 「心から残虐なる仕打を喜ぶ者はなく否それ処か治維法 [治安 維持法], 治警法 [治安警察法] の如き悪法は心中なんとか早く取除かれないものであらうかと念願す らしてゐた者が勘くない」と訴える。そして, 「責任はさらした法律 [治安維持法, 軍機保護法等] を 作った支配階級(当時の軍官財各閥等) にあるのです命令をされた者は涙を呑んでそれを為したので す」 (11月1日, 匿名) とその罷免の解除を懇願するのである。


他方、外の者には「炭鉱其他各所 労務」 「北海道の開拓」 といった懲罰的な提案に見られるよう な厳しい態度が採られた。 こうした気持ちが一度, 上 (戦争指導者)に向けられるとしばしば, 残酷 にすらなる。次に見るのはその典型であろう。 「東條に猿轡をはめ帝都をくまなく行進し列車の窓よ 全国民に謝罪せしむると共に尊族二代卑族十代に及んで共非を覚らしむる為め其隠匿せる全財産家 族親類名義のもの全部 (内閣在職中不□なる手段を以て得たる財産を分割せる疑あり) を押収すべき であるそれは一見残虐の如くなれど血統を重視する我國の民情を考慮する時貴國の思ひ及ばざ[り] し如き処断もあえて異とするものでない」 (10月28日 匿名氏)。


戦争が 「終わり」, 軍国主義者は 「非国民」 扱いをされることとなったのである。 このような感情的 な戦争責任者の追及 自己批判を伴わない思考は国民の政治的成熟度と密接な関係にある。このこと を高見順は次のように指摘している。 「権力を持つと日本人は残虐になるのだ。 権力を持たされない と、子羊の如く従順 卑屈。 ああなんという卑怯さだ。 しかしそれも日本においては,人民の手からあらゆる権力が剥奪されていたからだ。 だから権力を持たせられると,それを扱いたくなる。酷薄に なる。 残虐になる。 逸脱するのだ。 それは人民の手に権力が与えられていなかったための一種のヒス テリー現象だ。 可哀そうな日本人」 (10月5日)。


3) 戦争責任の否定


当時の新聞を見ると戦争責任の追及は世論でも趨勢であるかのように思われる。 しかし、そこには 戦争受益者の非難, 自己批判の欠如があり、 平和に対する罪や侵略行為による加害の認識は希薄で あった。 また、占領下という状況で戦争責任という考えを批判することは困難であった。 ここでは戦 争責任の否定 あるいは批判を述べた数少ない見解を紹介しよう。


先ず、当時の警察官僚の考え方を代表するものとして、 元岐阜県警察部特高課長中村隆則の見解を 紹介する。 特高廃止については 「微細の點に至る迄中央の指示があり地方に於ては機械的に之を適 用するに過ぎなくしかもそれに違反する分は中央に指揮を受けてなされるものであります」とし、 罷免は「各特高課長以上としその他の下僚は警察に於ける他の部門へ轉属せしめる様懇願して止ま ない」としている。 部下思いと言えばそれまでだが, 部下には職務上の責任しかないというのであれ ば, 上司の責任はどのように理解されているのであろうか。 これについて、 当時,総司令部が用いた 「秘密警察」 という表現について 「被疑者を正式の裁判に附することなく事件を闇から闇へ葬つて処 分して終ることが処調秘密警察」であり,日本では 「検事の令状により拘引し正式の裁判をへて判決 が下されるのであつて裁判には弁護人が附せられ控訴も許されてゐるのであります。 秘密警察とする のは當て嵌らない」と主張する。 つまり、 合法的に取締まったのだから秘密警察ではないというので ある。次いで, 敗戦後、 「飽く迄も抗戦すべしとなす過激分子があり其の態度は聯合軍の平和進駐を迎 へるに當つて最も憂慮された問題」であったことを指摘する。そして,「全國の特高警察官は降伏後の 激動期に於いて一命を賭して進駐軍の平和進駐のために盡力しその努力により今日に至る迄聯合軍の 進駐を迎べるに當つて大過なく過し得て来てゐる」と主張する。 「この功績は高く評價さるべきもの」 であり, 罷免は「上司の判断の誤謬と失策を何等の責任もなく寧ろ現在に於いては功績ある特高警察 官に迄轉嫁するもの」とさえ言うのである。 職務上とか、法に照らしてとはいかにも官僚的な思考で ある。 国民に対する責任を感じているような口物はみじんも読み取ることが出来ない。 それどころか 「平和進駐」の「功績」 をマッカーサーに訴えるとはなんとしたことか。 強者におもねるとはこのこ とである。


次に取り上げるのは、恐らく戦争責任に対する当時の日本人の本音であろう。 それは平和に対する 罪が何故日本にだけ負わされねばならないのかという意識である。 この 「欧米本位の平和」に対する 批判は戦前においては顕在的に,そして占領下においては潜在的に常に存在してきた。 ここではその 底流にある意識がマッカーサーへの抗議として現れた希な例を紹介しよう。


「アメリカ人は本気で自國に戦争の責任はないと信じ居れるやアメリカ人には戦争犯罪者がないと 信ずるや反省し神に謝せよ、日本は戦に負けたが負けたばかり悪いので勝つた國は責任ないのですか 日本人を民主國家にしてやる等と頼まれもせぬのに余計な事に気を配るより自國内の黒人を□□ に取扱ったり支那人等の移民の差別待遇を止めたら如何です 人類には原子爆弾は有効かも知れませ んが神様にはどんなもんですかね 神をおそれよ 〈中略〉 日本人はアメリカの御陰で軍人禍を除かれ この点は幸福に思つとるが軍人が日本の代りにアメリカ軍人にのさばられて居るのでは民衆は不満に 一足飛びに共産化せんとしとるアメリカ軍はよい気持ちで他國人を裁く前に伏して神に謝せよ日本 この都市に空より放火した賠償として食物を早く持ち来れ <中略>


犯罪人検挙に小生もお手傳ひ致しましよう


1 ローズベルト 目下煙獄に有り神の審判を受けつあり


2 スターリン ヨーロッパ優 (*) 日ソ中立条約違反


3 原子爆弾発明者並に使用者 人類の敵也但シ命令により投弾せるものを除き発明者並に広島 長 崎に投彈を命じたる者


4 日本都市爆撃非武装市民 (女子, 子供を含む) 殺害者命令せる者全部,但シ学校病院等を爆撃銃 撃せる後撃墜せられ園々しく落下傘にて降下せる悪魔の一部は日本側にて協 [極?] 力処分済に 付きアメリカの人数は省畧出来、日本側に感謝せよ」


(12月10日, S. H氏)


確かに日本の侵略だけを問題とするのは片手落ちであり、戦前、戦後を通じて「欧米列強の侵略」 は先勝国であるが故に免罪されてきた。このため、日本の侵略のみを告発するような歴史記述は, し ばしば,自虐的な知識人による東京裁判史観などと称されてきた。 しかし, アメリカの非をもって目 本の非を正当化することはできない。 戦争加害者であると同時に、戦争被害者であるという十字架を 日本人は背負い続けねばならないのである。


再建に向けて


再建に向けて体制の選択は被占領という決定的な枠組みの中に置かれていた。 ここでは天皇制 経 済体制 国際政治という三つの視点から戦後体制への選好を分析してみることにする。


一般に極めて現実主義的な見解が持たれたが,この中にあって唯一の例外が天皇 (制) であった。 「先日常盤炭礦に於ける共産党演説中止のシンパー中佐の行為は真に我等日本人にとりて有難きもの に御座升我等日本人は天皇様有りて始めて生活し得るものに候マッカーサー閣下の御努力に依り共産 党の天皇制廃止の運動を弾圧されんことを懇願奉升」 (10~11月, M. G氏) とあるように, 天皇 (制) は生活と同列に置かれていた。 この国民的な反共心理を踏まえたうえで、次のような政治力学 を説く者もいた。 「共産運動者が跋扈スレバ必ズ我國ニ於テハソノ反動団体トシテ國粋主義団体が育 成セラルナリ。 共産主義者卜国粋主義者トノ闘爭ガ各所=展開セラル場合ニハ國粋主義運動必 ズヤ軍國化, フツアショ化スル恐レアリ。故二日本ヲ真=平静裡=民主化セントスルナラバ共産主義 運動単ナル理論又ハ言論ノ空論止 実践運動ヲ禁ズルナラバ國民ハ反動的ナル國粋運動共鳴セザルデアロウ。 此点一寸理解セラレザルカモ知ラヌガ御注意ヲフ。 今日/場合員ノ民主主義運動が 展開セラル、 ダケナラ國民ハ國粋運動=参加シ又ハ同情スルモノハナイデアロー然シ共産運動が跋扈 スレバ国粋運動 同情スル恐レ十分ニアリト思フ」 (11月5日, A. T氏)。 この投書からは極端なも のを避け政治的中立を選好する日本人の姿が浮かび上がる。 また 「日本ヲ眞ニ平靜裡=民主化」 とあ るように, 天皇制と政治的中立は復興というイデオロギーを正当化する要因であった。 この一方で、 戦後政治の新興諸勢力に対しては「戦争中何等信念なく戦争を傍観し今になって無産運動者なり。 自 由主義者なりと厚かましく名乗り出る徒輩彼等にもまた一端の責任がある筈であります」 (10~11月, 匿名生)との批判がよく指摘された。 殆どの日本人にとって政治的立場の特定化を、戦前からの一貫 したものとして正当化することは困難であった。 従って、 特定の政治イデオロギーよりは中立が選好 されたが,これは政治的無節操への転化を容易にするものでもあった。


一般に経済問題については,ただ窮乏を訴えるとか、助けを求めるといったものが多く、 建設的な 提案を見ることが少ない。 恐らく、経済体制について平等の実現に共感を抱いた人は多いはずであ る。 しかし、 僅かに見いだされた経済対策についての提案を見ると、 「國民ノ日常生活必需品 即刻= 自由販賣ニシテドサイ但シ,米,妻,ハ現在ノ通りトシテオイテ下サイ 其ノ他ノ物八、衣、食、住 何物デモ自由販賣=即時指令ヲ出シテ下サイ, 日本政府、 考ヘサシテオケバ何時事ニナルカワカ リマセンカラ閣下へ直接, 指令シテ下サイ」(10月27日, O. I氏), 「官営事業 全部民営=移スコト <中略> 諸営業届出ノミトシテ何商業モ自由=早ク営業ノ出来得様」 (10月26日, 帝國一庶民)と あるように経済自由化の志向が強いのである。これは 「闇市」 のような経済的不平等を生み出す原因 が統制経済とそれを盾に 「役得」にあずかる官僚にあるという考えが支配的だったためである。 「少な きを憂えず, 等しいからざるを憂える」 とは戦前に盛んに言われたことである。 ところが,“少なく て" しかも“等しくない” というのが、民衆の体験した統制経済の実態であった。 このため 「共産党 は全體主義であり統制主義であるから, 實は権力主義で, ミリタリズムに到達せずには巳まない。 そ して貴族, 官僚, 財閥その他の勢力を統合して, デモクラシーの名の下に、全然デモクラシーに反 封したものを造りあげるであらう」 (12月19日 匿名) と予測する人もいた。 このように反官と反共の 間で自由経済が選好されたのである。


最後に世界政治における日本占領の位置付けから戦後を展望する見解を紹介しよう。 「日本を貴 の自治領として戴き対」 との懇願書を書いたS. K氏は 「親米聯盟」を結成した。 その 「宣言」 によ ると聯盟結成の動機は「日本國民が米国ノデモクラシーニ基ク民主政治 新時代ヲ謳歌 セザル以前二 同胞相手相喰ム共産革命ノ忍ナル破壊作用=直面セントシツツアル現状ハ絢ニ深憂ニ堪エズ」 た めであった。 これを避けるには 「米國ノデモクラシーニ基ク公正ナル政策ト旺盛ナル闘力=俟タルベ 「カラズ」 とあり,そして次のような現実認識に至るのである。 「國際聯合ノ世界安全保障機構ノ確立ヲ 契機トシテ原子時代ノ世界ハニーツニナルベキ歴史ノ必然的過程ヲ歩ミ」 つつあり、「原子爆弾ヲ 保有スル米國ノ軍事力ハ今後ノ世界平和ヲ維持スル安定勢力タルコトヲ我等ハ率直=認ムルナリ」 (1 946年1月1日)。 戦後の国際政治は米ソ対立が主軸となり、この両者の対立の後に真の世界平和が到来するという見方は,敗戦後の日本人にしばしば見られた考えである。 それにしても「原爆」を肯定的に位置 付けるとは、戦災体験もこの人の世界最終戦争論的な歴史観を変えるには至らなかったのであろうか。 このような優勝劣敗による「歴史ノ必然的過程」 の強調は、歴史展開を人間意志を越えた力の支配に委ね るものである。ここから責任の自覚は生まれない。


むすびにかえて


この小論に際し265通の書簡に目を通した。 本論はその中から幾つかの傾向を抜粋し, 再構成したに 過ぎない。あれから約半世紀が経過した今日, これらの書簡が持つ意味を改めて問い直す必要があろ う。当時の日本人が感じたこと, 思ったこと, 考えたことの一つ一つを積み上げ現代へと結び付けた いというのが筆者の狙いであった。 これらを忘却の彼方へしまい込むことが断絶や総決算などという ことを安易に言わせるのである。 確かに被占領と言い, 食料難と言い日本人は状況に支配された中で 選択肢を模索して来たといえる。 しかし、 五十近くの大人が何時までも自分の性格を幼児期の環境の せいに出来ようか? 「与えられた民主主義」 とか、 自主憲法制定などと声高に叫ばれると, 「日本人の 精神年齢は十二才」というマッカーサーの言葉が思い出されてならない。 「まず, 汝自身を知れ」とは 我々日本人にこそ当てはまる訓戒ではないか。 半世紀がたったのである。もう半世紀もたったのであ る。 我々は戦後民主主義に多いに責任をもとうではないか。


注 (1) 袖井林次郎氏が『拝啓マッカーサー元帥様』 大月書店 (1985) で示した計算は若干の訂正が必要であ る。 先ず, 翻訳通訳部隊 (ATIS) の 「一九四六年九月から一九五〇年末までに受けとった手紙の総数 四一万一八六通」 という記録 (前掲書15頁) がある。 これに 「最初の一年間は日本人がもっとも熱心に マッカーサーとGHQにあてて手紙を書いた時期と考えられるので、 前期の総数に少なくとも一〇万通を 「ブラス」 とある。しかし、本文中にあるように1946年9月までの投書総数は民間情報教育局の調査から知 ることが出来、これによるとその総数は10,433通であった。 従って, 1950年末までに受け取った投書総数 は422,249通ということになる。 民間情報教育局の投書調査は現在1947年10月までしか確認が出来ないが。 これによれば46年11月以降は月平均1万通前後の投書がありこれから占領が終了するまでの約一年間の


投書を約12万通とし、 その総計を約54万通と推定することとした。 (2) 『マッカーサーの二千日』 中央公論 (1974) で断片的に紹介。 『思想の科学』 (1983'8~84'7) に連載し たものが 「拝啓マッカーサー元帥様』にまとめられた。


(3) 『マッカーサーへの手紙』 図書出版社 (1986)


(4) 神田文人 『昭和の歴史第八巻』 小学館 (1983) 42頁。 (5) 前掲 「拝啓マッカーサー元帥様』 12頁。


(6) Naikaku Shingishitsu (Cabinet Deliberation Room) (1946.447.2),CIE.GHQ/SCAP.


(7) 投書の宛先は首相官邸であり,その所轄は総理府となる。 しかし、 総理府は1948年2月火災により全焼 している。 内閣文庫, 国立公文書館, 憲政記念館, 憲政資料室でも所在を確認することはできなかった。 (8) 裏田稔『占領軍の郵便検関と郵趣』 日本郵趣出版 (1982) 24頁。


(9) 民間情報教育局の調査によれば, 1945,11.15~12末に282 (週平均50)。 ②46.1.15までに118通 (同 5 ③2.15までに287 (同72) 3.15までに801通 (同200)。 ⑤4.15までに1,425 (同356)。 ⑥6.1までに1,684 通(同280)。 ⑦ 7.15までに1761通 (同296)。 ⑧9.1までに4,075通 (同679)。 ⑨ 10.15までに6,33 9 (同1057)。 ⑩ 11.30までに14,191通 (同2,365)。 47,1.15までに12,217通 (同 2,036)。 12.28までに 10,251通 (同1,709)。 14.15までに41,820通 (同6,970)。 45.30までに49,985 (同8,331)。 ⑩ 7.15まで 34,939 (同5,823) 18.31までに18,035 (同 3,005)。 10.15までに17,083通 (同 2,847)。


(10) まず, 1945,11.15~12.31 (注10参) 287通。 10月15日の毎日新聞にある 「マ元帥への投書戦争犯罪人 処罰, 配給制度改訂等一ヶ月余りに三百通」 とあることから占領開始から10月15日までの投書を300通。さ らに10月15日から11月15日までの投書を約200通とすると、 その総計は約800通となる。


(11) 1947年10月の第6回国勢調査によると、 総人口7810万。 リテラシーを90パーセントとして算出した。 (12) 引用した書簡の差出し人は原則として匿名扱いし、イニシャルのみを表記することにした。 国民に対し 責任を取るべき立場にある者、または明らかに偽名と分かるものについては差出名をそのまま表記した。


(13) 例えば,日本世論調査研究所 (『日本週報』第三号, 部分的に読売新聞 45'12.9), 3,348人中, 天皇制支 持3,174 (94.8%), 否定 164 (5.2%)。 なお, CIEは世論調査機関, 言論機関の活動を監督しており、日 本側の主だった世論調査は全て掌握していた。 従って,CIEのファイルからは当時の世論調査の資料が 多数確認できる。


(14) 1945年までは復員の待望が投書行為にまだ結び付いていない。 復員はアメリカが上陸用舟艇等を日本政 府に貸与した1946年以降本格化する。これに伴いCIE の投書分析ではNo. 4 (注10参) の報告から復員の 項目が登場し,全体の10~20%を占めるようになる。そして, 7月1日 「尋ね人」 の放送開始から激増し 投書の大多数 (八割以上) を占めるようになった。


(15) 罷免は「内務大臣, 内務省警保局長,警視総監, 大阪府警察局長 (其の他の各都市警察署長), 北海道庁 警察部長, 各府県警察部長 (各都市), 北海道及各府県の特別高等警察課の全員, 司法省保護監察審査会並 に保護観察所の一切の官吏」。


(かわしましたかね)


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