後藤新平與鴉片日文
後藤新平的女婿鶴見祐輔的殖民地收益計算,日本當初領有台灣七年之間所獲得的經濟利益是相當龐大的。
台灣新領土對母國的輸出入貿易額的利益達一三三五萬圓,加上樟腦專賣的利益一八五萬圓,母國日本國民所獲得的利益是一五二○萬圓。
當時日本對台灣的國庫補助金總額為二七三一萬圓,如果將此當作日本對新領土的純粹投資的話,相減之後,投下資本的利益率其實達到五成五分。
因之,「假定把台灣經營當作一個商業企業來看,創立以來七年,就達到一年五成五分的純利益」 。
其實,後藤新平的女婿對日本在台實施鴉片專賣所獲得的龐大利益故意遺漏,巧妙地掩飾隱蔽。
再說,當初日本對台灣的投資,有一筆是從甲午戰爭後中國的三億六千萬圓賠款中,支出一千兩百萬圓為「台灣經營費補足」的 。
日本當初經營台灣,還有些錢是從中國挪移過來的。
後藤新平能就任殖民地台灣的民政長官,是因為策劃在台灣實施鴉片漸禁制度,以鴉片專賣謀取暴利,而引導日本政府對台的施政方向。
在締結馬關條約割讓台灣之年的1895年11月13日,後藤向伊藤博文內閣的內務大臣提出「台灣的鴉片制度意見」中說:
「當時鴉片輸入稅約80萬(日)圓,如果改為日本政府的專賣,以禁止稅的意思加以三倍的價格出售,即可得240萬圓的收入,可以充當台灣地方殖民衛生的費用」 ,如此引導日本當局確定在台施行鴉片漸禁政策。
日本的鴉片王二反長音藏(最初名稱川端音二郎),在台灣割讓日本之時,立即向伊藤博文內閣上書陳請,說台灣島民吸食鴉片進口的金額龐大,建議在日本國內栽培罌粟來製造鴉片,並透過衛生局員加藤尚志向衛生局長後藤新平遊說,讓這位衛生局長瞭解販賣鴉片有多麼好賺,而獲得衛生局長後藤新平許可,在日本先行試作鴉片的原料罌粟。
這位鴉片王,即時在大阪府三島郡福井村開闢一個罌粟園,立一個「台灣總督府罌粟栽培試驗園」的牌子。
1896年5月,鴉片王歡迎衛生局長後藤新平到他的罌粟園參觀。後來後藤新平也送給二反長音藏親筆書寫的卷物答謝 。
後藤堅持在台的鴉片專賣策,甚至雄心勃勃地欲在中國推行鴉片專賣制,可以說是這位鴉片王教他鴉片之暴利可貪。
1902年後藤因在台施行鴉片制度之功,獲得日本天皇勳二等旭日獎章。讓台灣人吸毒,日本獲暴利,他贏得勳章。連日本的賞勳局都要置疑,「販毒」還能得勳章的奇蹟。他得勳章這一年,鴉片專賣收入達300萬圓,佔歲收的25.3 %。
台灣總督府的財政收支,在日俄戰爭的1905年即不需要國庫補助,達到財政自立的目標。在此過程當中,最大的收入來源就是鴉片專賣收入。
日本統治台灣的50年間,一直不斷地販賣鴉片毒品,在戰爭末期鴉片進口困難的1945年,在台灣登記有案的鴉片吸食者還有500多人,台灣總督的鴉片收入還有509256圓的記錄 。
後藤新平の娘婿であった鶴見祐輔の植民地収入の計算によれば、日本が台湾を独自に領有した7年間に得た経済的利益は莫大なものであった。
新領土台湾の母国に対する貿易額は1,335万円、樟脳専売の利益1,850万円と合わせて、母国日本人の利益は1,520万円であった。
当時の台湾に対する国庫補助の総額は2,731万円であり、これを日本の新領土に対する純粋な投資と考えれば、投下資本に対する利益の割合は差し引きで実に55%であった。
したがって、「台湾事業を営利事業として扱うと仮定すれば、設立以来7年間で、年間55パーセントの純利益が達成されている」ことになる。
実は、後藤新平の娘婿は、台湾における日本のアヘン独占で得た莫大な利益を意図的に省略し、巧妙に隠蔽・隠蔽していたのである。
さらに、そもそも日本が台湾に行った投資のひとつは、日清戦争後に中国が支払った3億6000万円の賠償金のうち、1200万円を「台湾の運営費の上納金」として支払ったものだった。
日本が台湾を運営するために中国から送金されたお金もある。
後藤新平が植民地台湾の民政長官のポストに就くことができたのは、台湾で段階的なアヘン禁止を実施し、アヘンの独占販売で莫大な利益を上げることを目論んでいたからであり、それが日本政府の台湾統治の方向性を導いていった。
下関条約で台湾が割譲された1895年11月13日、後藤は伊藤博文内閣の内務大臣に「台湾における阿片制度に関する意見書」を提出し、こう述べた:
「当時アヘンの輸入税は約80万円であったが、これを日本政府の専売とし、禁止税の3倍の価格で販売すれば240万円の収入となり、台湾の植民地衛生費に充てることができる」と述べ、日本当局に台湾におけるアヘンの段階的禁止政策の実施を確認するよう指導した。
台湾が日本に割譲されると、日本の阿片王・二反長音藏(もとの名は川端音二郎)はただちに伊藤博文内閣に書簡を送り、台湾の島民が阿片を消費して巨額の輸入をしていることを指摘し、日本でポピーを栽培して阿片を生産するよう提案した。 また、保健長官の加藤尚志を通じて後藤新平に働きかけ、阿片の販売がいかに儲かるかを認識させ、許可を得た。彼は後藤新平厚生長官の許可を得て、日本でケシをアヘンの原料として使用する試験を行うことができた。
アヘン王はただちに大阪府三島郡福井村にケシ園を開き、「台湾総督府ケシ栽培実験園」の看板を立てた。
1896年5月、国王は後藤新平衛生長官を迎えてポピー園を視察した。後日、後藤新平は感謝の印として自筆の巻物を二反長音藏に送った。
後藤新平は、台湾でのアヘン専売政策を主張し、中国でのアヘン専売の導入も野心的に望んだ。 アヘンは儲かるビジネスであることを、このアヘン王から教えられたとも言える。
1902年、後藤は台湾でアヘン体制を実施した功績により、日本の天皇から勲二等旭日章を授与された。後藤は、台湾にアヘンを使用させ、日本人が莫大な利益を得るというアヘン政策を実施した功績により、勲二等旭日章を授与された。日本の栄誉賞委員会でさえ、「麻薬密売」でメダルを獲得することの奇跡を疑問視せざるを得なかった。メダルを受賞した年のアヘン専売所の収入は300万円で、彼の年収の25.3%を占めていた。
1905年、日露戦争の最中、台湾総督府は国庫からの補助金を一切必要とせず、財政自立の目標を達成した。その際、最大の収入源となったのがアヘンの専売であった。
日本が台湾を統治していた50年間もアヘン取引は続けられ、アヘンの輸入が困難となった終戦直後の1945年(昭和20年)でも、台湾には500人以上のアヘン喫煙者が登録されており、台湾総督府のアヘン収入は50万9,256円を記録していた。
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