失敗帶來了什麼——日本失去的驕傲
論文
失敗帶來了什麼——日本失去的驕傲
論文
失敗帶來了什麼——日本失去的驕傲
這份報告在回顧戰爭爆發的歷史,特別是日本與美國之間的戰爭時,為什麼日本會得出與美國開戰的結論,儘管這場戰爭被認為是一場打不贏的仗戰爭爆發之前?我想從我自己的角度描述一下後來的戰敗對日本國家至今的形態所產生的影響。
1. 介紹
我可以爭論得足夠多,可以寫一份關於所謂的最後一場戰爭的報告。僅僅如何稱呼它的問題就會引發如何看待這場戰爭的問題,並將其拖入政治辯論。是大東亞戰爭、太平洋戰爭還是第二次世界大戰?
如果稱其為大東亞戰爭讓我們想起軍國主義並被指出是右翼,那麼避免使用這個名稱可能是安全的。這是因為,這份報告無意對上次戰爭是否是侵略戰爭進行毫無意義的二元論。不過,為了更實質性地把握日本當時的處境,我認為稱其為“大東亞戰爭”是合適的,這是當時日本政府所使用的名稱。不過,我無意把討論點放在那裡,所以以後我就敢用“戰爭”這個詞了。
這並不是為了掩蓋之前戰爭的過去。相反,我想指出的是,上次戰爭失敗對日本造成的損害尚未消除。請理解,這是因為我們想討論戰敗帶來了什麼,所謂的所謂戰後時期是否正確,以及什麼繼續影響著今天的日本。
2. 與美國的戰爭的進展和結束
之前的戰爭是什麼樣的戰爭?為了思考這個問題,我們必須考慮當時的世界局勢以及當時的近代歷史進程。如果要追溯本報告的重點——日美戰爭,就不能省略對日俄戰爭半個世紀的日美恩怨的描述。早些時候。
日俄戰爭時,美國是極其親日的。他購買了大量日本公共債券,並在日俄戰爭和平條約締結時擔任美國總統。西奧多·羅斯福積極調解。這背後是美國控制中國(清朝)的願望。為此,俄羅斯的力量是一個障礙,而日本和美國的利益是一致的。但日俄戰爭後,原計劃由美國鐵路大亨愛德華·哈里曼與日本共同管理的南滿鐵路,卻走向了日本獨資的方向。結果,美國被排除在滿洲之外,反日情緒變得僵硬。可以說,此時的恩怨是美國對日本後續涉華行動繼續做出敏感反應的原因。
此後,美國加緊了國內的反日移民運動,並於1924年頒布了《反日移民法》,意在全面禁止日本人移民。結果,對對方國家的相互不信任成為決定性的。
與此同時,當時的世界和日本正處於長期衰退之中。1920年第一次世界大戰後的大蕭條、1923年關東大地震、1929年美國股市崩盤引發的大蕭條。結果,大國陷入了區塊經濟。美國於1930年頒布《神聖斯穆特法案》,對進口商品徵收高額關稅。日本產品逐漸被世界拒之門外,這種封閉的經濟政策對於沒有殖民地的日本來說無異於沉重的打擊。
1939年,美國因天津事變宣布終止日美通商條約。美國已經明確表示對日本完全敵視。當時,日本對美國的出口總額中30%以上是出口,40%以上的進口來自美國。
1940年9月27日,日本、德國、意大利三國條約成立後,美國決定全面禁運對日本的廢金屬出口,並將日本視為完全的假想敵。日本與美國繼續談判,以期避免戰爭,但互不信任並沒有帶來進展,他宣布全面禁止出口,同時在英國、中國、荷蘭設立了經濟封鎖網絡,即所謂ABCD包圍網,將日本逼入絕境。當時,日本80%的石油依賴美國,時任海軍總參謀長長野修美當時表示,庫存的石油將在一年半內耗盡。結果,日本政府內部出現了一些與美國開戰的言論,但近野首相響應天皇的意願,繼續進行旨在避免戰爭的日美談判。1941年9月6日的帝國會議決定,按照原定草案通過陸軍和海軍執行帝國國策的方針,如果日美談判不能在10月初完成,戰爭將爆發。據說此時昭和天皇已經反對日美爆發戰爭。
此後,近衛首相通過美國駐日本大使約瑟夫·格魯多次與國務卿科德爾·赫爾進行談判,以避免日美爆發戰爭。然而,根據赫爾國務卿後來在回憶錄中的說法,此時日美談判已經沒有完成的希望,對日參戰只是推遲到美國準備好面對太平洋為止。是。即使在10月初,近衛首相也堅持即使撤回9月6日帝國會議決議也應繼續日美談判,近衛內閣於10月18日集體辭職,10月19日組建東條內閣。
1941年11月5日,在東條首相的領導下,在帝國會議上,決定了實施帝國國策的新方針。如果日美談判在11月30日前未能成功,日本將與美國開戰。聯合艦隊司令山本五十六表達了他的悲觀情緒,他說:“戰爭將持續一年左右,但之後我不知道會發生什麼。”不 造成這種悲劇性認識的原因是什麼?
1941年11月26日,赫爾國務卿提出了和平解決大綱,即所謂的赫爾照會。條約的主要內容是日本軍隊完全撤出中國南方、蔣介石政府批准、退出日德意三國條約。這不是日本能夠接受的,日本承認這是美國的最後通牒,並在12月1日的帝國會議上正式決定與美國開戰。
回顧日美關係史,我們可以看到,此前對美戰爭的開端絕非偷襲珍珠港簡單爆發。在帝國主義鼎盛時期的背景下,日本這個遠東有色人種正在與世界其他國家競爭。我看你沒有。甚至在那個時候就已經認識到對陣美國沒有獲勝的機會。但考慮到當時資源形勢嚴峻,進則地獄,退則地獄。也確實,這是考慮一個國家的獨立和生存時的最終選擇。可以說,這與接下來的悲慘結局息息相關。我想補充一點,這不僅是政府的一部分,而且通過媒體在全國范圍內掀起了一股近乎熱情的熱潮。
天皇陛下後來說道:
“如果我不接受開戰的決定,國家將不可避免地變成一場大內戰,我周圍我信任的人都會被殺,我的生命也得不到保障。然後,一場比之前大數倍的悲慘時刻。”現在的戰爭將會發生,而且最終戰爭不會結束,我相信日本將會滅亡。”
以陛下的決心,我們得出的結論是,之前的戰爭是難以避免的。
我不會觸及與美國戰爭之後的戰爭歷史。這是因為,從這份報告來看,有太多可寫的東西。
3. 失敗後
在兩顆原子彈慘敗之後,真正統治日本的是道格拉斯·麥克阿瑟。說起麥克阿瑟,不能忽略的就是他與昭和天皇的合影。這些照片中隱藏著麥克阿瑟的偉大意圖,這讓當時的公眾感到震驚和羞辱。就是把日本改造成麥克阿瑟的理想國家。他向日本人民展示了日本這個他所謂的“12歲國家”,可以拍攝這樣一張天皇的照片,天皇在戰爭期間是活生生的神。在戰後的混亂中,也確實出現了一些輕浮的人,認為麥克阿瑟是皇帝的替代者,舉行儀式向他致敬,並寄來情書。
麥克阿瑟將日本視為一個古老的封建社會,並致力於將日本打造成一個理想的民主國家,遠東的瑞士。同時,他徹底推動了美國文化的傳播,否定了日本延續至今的唯靈論。正是因為他最擔心日本的軍事化和帝國主義的複闢,他開始將戰後的日本轉變為一個崇拜美國的國家。目的是通過非軍事化和民主化防止日本再次與美國對抗。
日本憲法的製定成為日本民主化的標誌。據說,這部受到總司令部強烈影響的憲法第9條中的放棄戰爭的規定,在當時引起了全世界的關注。當時有報導稱,民眾厭惡戰後的毀滅性打擊,對這部憲法表示歡迎,但當時糧食極度短缺,民眾每天都在為生存而掙扎。描述說他沒有時間回顧憲法。無論如何,可以說它展現了佔領時期的混亂時期。
那麼,麥克阿瑟給今天的日本留下了怎樣的影響呢?可以說,戰後民主就是由此留下的偉大遺產。然而,我想提出的不止於此,是對日本迄今為止所維持的精神和道德的完全否定。它宣揚了物質文明的價值,貶低了公共觀念、恥辱精神、神話、大和精神,這些才成就了日本。在戰後的燒焦的田野裡,我並沒有充滿靈性,所以說自然也可能是自然的。然而,戰後失去的靈性,以及日本作為一個國家的形態的模糊性一直延續到了今天。這就是戰後 60 多年後這個國家所面臨的問題。日本在戰前就被徹底否定了。此後,它只追求經濟增長。現在我們有了今天的日本。
戰爭的失敗導致了歷史上延續的民族意識和日本獨特價值觀的斷絕。可以說,在物質和民主方面輸給同盟國的反應,就是成為經濟超級大國的出路。然而,在接下來的60年裡,這個國家失去了一種比經濟繁榮更重要的精神。這種精神是由傳統孕育出來的。只要日本人還是日本人,就不能保證他們的靈性會持續下去。被切斷的傳統只會產生空虛。
4. 什麼是民族
道德敗壞的事件,令人懷疑此類事件是否存在的犯罪行為,以及社會生活中道德的缺失。我知道,在日本還有很多人如此純粹的正派,充滿怨恨,他們為國家做了一些事情。
作為這種良知的代表,我敢提一下在戰爭結束25年後自殺的三島由紀夫。我認為,這封告示中包含著日本戰後必須解決的事實。
“我們看到戰後的日本陷入經濟繁榮,忘記了國家的根本,失去了民族精神,不問根本就跑到最後,陷入了權宜之計和虛偽之中,忘記了自己的靈魂。我看到它陷入了真空:
政治只是致力於粘貼矛盾、自我保護、權力慾望和虛偽;我不得不咬緊牙關,看著日本人自己摧毀日本的歷史和傳統。”
三島由紀夫在咬牙切齒的是什麼?難道日本的美好被踐踏了?最重要的是,你是否感嘆這個叫做日本的國家已經陷入了一種看似不雅的境地?這取決於生活在這個國家的每一個公民的想像力。令人悲哀的是,有些日本人連想像力都喪失了。
最終,前次戰爭的失敗帶來的是所謂的戰後時期,而戰後民主割斷了日本的傳統精神和價值觀,並沒有復興它們。上次戰爭後的民主是靠外部力量實現的,而戰後民主無非是對麥克阿瑟給出的美國民主理想的模仿,意識形態乘勢而上的結果是戰後教育的摧殘和當今社會的崩潰。教育。
結果,直到今天,民族共同的價值標準和規範才得以恢復。我相信這種精神的空洞是當今日本一切混亂的根源。現在需要的是,將戰後時期相對化,置於日本近代歷史的背景下,鳥瞰日本的歷史,思考應該將什麼價值觀和規範置於這個國家和社會的基礎之上。是要討論。只有這樣,我們才能從民族的存在、共同體的意義、宗教傳統等方面來定義我們自己的國家,並恢復日本的國家地位。我相信,通過這樣做,我們一定能夠消除今天有心人對日本的不協調感。
5. 綜上所述
到目前為止,我講了上次戰爭的失敗帶來了什麼,即日本的戰後時期和戰後民主,我認為已經過去了,還做不到。
當然,也有很多人不同意這個觀點。有些人可能無法理解,因為它是一個抽象的、感性的理論。但我相信也有很多人同意我的觀點。如果所謂的戰後時期和戰後民主沒有問題,為什麼現在關于靖國神社問題的爭論如此激烈?這不僅僅是受到中國和韓國批評的結果。
為何從未公開討論過的修憲會作為一個真正的政治問題擺上桌面?公眾似乎不能再對與現實的背離視而不見了。這種象徵性的狀況,說明了日本國家形象的缺失和國家認同的漂移。如果它保持閒置狀態,這種漂移就永遠不會停止。
在此,我想談談戰前因推翻東條內閣而被迫自殺的政治家中野誠吾的戰時首相理論。
“一個國家不是因為經濟而滅亡,不是因為戰爭失敗而滅亡,而是因為領導人失去信心,人民對未來迷茫而滅亡。”
這句話的分量很深很重,如果領導人不能表現出民族的重生,民族就會滅亡。我認為,戰後許多政治家一直在致力於國家的複興,這是現代日本必須首先解決的政治問題。
如今,日本通過最近的結構性改革已經克服了後泡沫時代,真正成為經濟超級大國,政治有必要呈現下一個超越經濟霸權的價值。我們按照日本古代流傳下來的真、善、美的傳統價值觀塑造了國家形象,而今天的日本卻處於混亂狀態,存在著犯罪頻發、崩潰等諸多問題。教育的淪喪、經濟道德的解體,我們必須嚴肅地面對物質與精神平衡的美麗日本。為此,我們需要具有深刻歷史感、崇高使命感和預見日本未來的領導力的政治家。
<參考文獻>
約翰·道爾《擁抱失敗、上下》 岩波書店 2004 年 2 月 小熊英二《
民主與愛國主義》 新陽社 2002 年 11 月
田原宗一郎 《日本戰爭》 小學館 2000 年 11 月
河合淳《從眼睛到天平》 太平洋戰爭》 PHP 研究所8 月2002 年
松本健一 《日本的失敗》 東洋經濟公司 1998 年 12 月
渡邊翔一 《激進的日本民族論》 德間書店 2004 年 4 月
佐伯敬史《首相的素質是什麼?》 小學館文庫2002 年6 月坂谷太一《
創造日本的 12 個人》日本” PHP 研究所 2006 年 2 月
Keishi Saeki、Kiyotada Tsutsui、 Terumasa Nakanishi、Kazuo Yoshida
“一個世紀的優雅衰落” 文藝春樹2000年1 月
高松智之論文
論文
Satoshi Takamatsu

第25期
高松 智之
たかまつ・さとし
(前)練馬区議会議員
這份報告在回顧戰爭爆發的歷史,特別是日本與美國之間的戰爭時,為什麼日本會得出與美國開戰的結論,儘管這場戰爭被認為是一場打不贏的仗戰爭爆發之前?我想從我自己的角度描述一下後來的戰敗對日本國家至今的形態所產生的影響。
1. 介紹
我可以爭論得足夠多,可以寫一份關於所謂的最後一場戰爭的報告。僅僅如何稱呼它的問題就會引發如何看待這場戰爭的問題,並將其拖入政治辯論。是大東亞戰爭、太平洋戰爭還是第二次世界大戰?
如果稱其為大東亞戰爭讓我們想起軍國主義並被指出是右翼,那麼避免使用這個名稱可能是安全的。這是因為,這份報告無意對上次戰爭是否是侵略戰爭進行毫無意義的二元論。不過,為了更實質性地把握日本當時的處境,我認為稱其為“大東亞戰爭”是合適的,這是當時日本政府所使用的名稱。不過,我無意把討論點放在那裡,所以以後我就敢用“戰爭”這個詞了。
そしてそれは先の戦争という過去をぼやかすことではない。むしろ私が問題にしたいのは、先の戦争での敗戦がこの日本にもたらしたものは、まだ払拭ができていないということであるのだ。その敗戦によってもたらされたもの、いわゆる戦後という呼び方が正しいのかどうか、現在の日本にまとわりついて離れることなく影響を及ぼし続ける、そのものについて議論をしたいがためであることをご理解いただきたい。
2.対米開戦への経過と終焉
先の戦争がいかなる戦争であったのか。それを考えるには当時の世界情勢、さらにはそこに至るまでの近代の歴史の流れを考えなくてはならないであろう。本レポートの中心となる日米開戦までを追うのであれば、その半世紀も前の、日露戦争での日米間の確執についての記述を外すことはできない。
米国は日露戦争時点では極めて親日的であった。多額の日本公債を購入し、日露戦争講和条約締結の際にも、時のアメリカ大統領。セオドア・ルーズベルトの積極的仲介があった。これには米国なりの中国(清国)支配への欲望が背景にあった。そのためにはロシアの力が邪魔であり、日米の利害関係が一致していたのである。しかし日露戦争後、米国の鉄道王、エドワード・ハリマンと日本の間で共同管理を目論んでいた肝心の南満州鉄道は、日本の単独経営の方向に舵が切られた。これによって米国は満州から締め出されることとなり、対日感情にしこりが出来たわけである。その後の中国にまつわる日本の行動に米国が敏感に反応し続けたのはこの時の確執が尾を引いていたといえよう。
その後、米国は国内において日本人移民の排斥運動を強め、1924年には日本人移民の完全禁止を意図した排日移民法を制定した。これにより相互に国内で相手国への不信感が決定的になった。
合わせて当時の世界、及び日本国内は慢性的な不況に陥っていた。1920年の第一次世界大戦後恐慌、1923年の関東大震災、1929年の米国株価暴落による世界恐慌。それをうけ列強諸国はブロック経済に突入していく。米国は1930年にホーリー・スムート法を制定し、輸入商品に対して高率関税をかけることとした。これによって日本の製品は次第に世界から締め出されることとなった、こうした閉鎖的経済政策は植民地を持たなかった日本にはボディーブローのように効くこととなる。
1939年には天津事件によって米国は日米通商条約の破棄を通告。米国は完全に日本に対して敵対の姿勢を明確にした。当時の日本は米国への輸出が輸出額全体の3割以上、輸入が4割以上であり、国内経済への打撃はあまりあるものであった。
1940年9月27日、日独伊三国同盟成立後には米国は屑鉄の対日全面禁輸を決定し、完全に仮想敵国として日本を捉えるようになった。その後日米間では戦争回避に向けての交渉が続けられたが、相互の不信から進展することはなく、1941年7月の日本による南部仏印への進駐に対し、米国は日本に対する石油の全面輸出禁止を発表し、同時にイギリス・中国・オランダに経済封鎖網、いわゆるABCD包囲網を構築し、日本を追い詰めることとした。当時の日本はアメリカに石油の8割を依存しており、この時点で当時の海軍軍令部総長永野修身は「備蓄石油は1年半で消費しつくす」と発言していた。これによって日本政府内では対米開戦論も出ていたが、天皇陛下の意図を受けた近衛首相は戦争回避に向けての日米交渉を継続していた。1941年9月6日の御前会議において、陸海軍による帝国国策遂行要領は原案どおり通され、10月上旬までに日米交渉が妥結しないときには開戦となる方針が決定された。このときに昭和天皇陛下は日米開戦には反対の意思であったといわれる。
その後近衛首相は日米開戦回避に向けて駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと通して、コーデル・ハル国務長官との交渉を繰り返した。しかし後にハル国務長官が回想録で語るには、既にこの時点では日米交渉が成立する見込みはなく、アメリカの太平洋正面に対する軍備が整うまで、対日戦突入を先に引き伸ばすだけであったということである。近衛首相は10月上旬を迎えても、9月6日の御前会議の決議を撤回してでも日米交渉を継続すべきだと主張したが、即時開戦派であった東条陸相に御前会議の決定を覆すことの責任を問われ、近衛内閣は10月18日に総辞職し、10月19日には東条内閣が出来た。
東条首相のもと、1941年11月5日の御前会議にて新たな帝国国策遂行要領が決定された。11月30日中に日米交渉が成功しなければ対米戦争へ突入するということとなる。連合艦隊司令長官山本五十六は「開戦後1年くらいは暴れてみせるが、そのあとはどうなるかわからない」と悲観論を開陳しており、なにより軍中央部には米国への本土攻撃計画もなかったにもかかわらずである。この悲壮な覚悟はなぜゆえであろうか。
1941年11月26日、ハル国務長官から平和解決要綱、いわゆるハル・ノートが提示された。この内容は日本軍の南方・中国からの完全撤退、蒋介石政権の承認、日独伊三国同盟の離脱が主であった。これは到底日本が受け入れられる内容ではなく、これがアメリカの最後通牒と認識した日本は、12月1日の御前会議にて正式に対米開戦を決定したのである。
こうして日米間の歴史を振り返れば、先の戦争の対米開戦が決して真珠湾攻撃という単純な勃発ではなかったということがわかるだろう。帝国主義全盛の当時の時代背景において、極東の有色人種であった日本が世界に伍していく中で、資源を持たない日本が資源を求めて大陸に進出することを列強諸国が決して歓迎しなかったことが伺える。対米開戦については勝ち目がなかったことは当時の状況でも認識をされていた。しかしながら当時の資源に関する抜き差しならぬ状況を考えれば、進むも地獄、退くも地獄。一国の独立と存続を考えるうえで究極の選択であったこともまた事実である。それが先の悲壮な覚悟につながっているといえよう。そしてこれは政府一部の人間だけではなく、報道を通じた国内の熱狂に近い盛り上がりがあったことも付け加えておきたい。
後に天皇陛下はこのように語っている。
「私がもし開戦の決定に対して拒絶したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の生命も保証できない。それはよいとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨時が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」
陛下のこの覚悟をして、こうして先の戦争は避けることが困難であったという結論に至るのである。
対米開戦後の戦史については、ここでは触れることはしない。それは本レポートの視点では書くに余りある内容であるからである。
3.敗戦後
2度の原子爆弾の投下という屈辱を受けた敗戦後、日本をまさに仕切ったのはダグラス・マッカーサーであった。マッカーサーを語るうえで外すことができないのは、あの昭和天皇陛下との写真であろう。当時の国民にとって衝撃的であり、かつ屈辱的であった写真には、マッカーサーの大きな意図が隠されていた。それは日本をマッカーサーの理想の国に作り変えるというものである。戦時中は現人神であった天皇に対してあのような写真が撮れるということを、彼のいうところの12歳の国、日本の国民達に見せ付けたわけである。戦後の混乱の中で、マッカーサーをこれまでの天皇陛下の代わりと考え、マッカーサー様と拝みたてまつり、親愛の手紙を送るという軽薄な輩が出現したことも事実である。
マッカーサーは日本を古い封建社会ととらえ、理想の民主主義国家、極東のスイスとなるべく、教育の自由主義、男女平等、労働組合の推進、農地解放、などの政策を次々と展開した。同時にアメリカ文化の普及を徹底し、日本に脈々と続いてきた精神主義を否定した。日本の軍国化、帝国主義の復権をなにより恐れていたからこそ、戦後の日本をアメリカ礼讃の国へと作り変えることを進めていった。非軍事化と民主化によって日本が二度とアメリカに立ち向かうことないようにという狙いがあったのである。
そして日本の民主化の象徴となったのが日本憲法の制定である。GHQの意向が強く繁栄されたこの憲法においては憲法九条に戦争の放棄が明記される画期的な内容として、当時の世界の注目を受けたと伝えられている。当時の報道には戦後の壊滅的な打撃に嫌気が指していた国民もこの憲法を歓迎したという記述もあれば、当時は極度の食糧難であったため、国民は今に毎日を生き抜くかで精一杯であり、憲法などかえりみる余裕はなかったという記述もある。どちらにせよ、占領下での混乱期を示すものであるといえるだろう。
さて結果として、マッカーサーはどのような影響を現在の日本に残したのであろうか。戦後民主主義こそがその大きな遺産であるということもいえるだろう。だがそれ以上に私が問題にしたいのは、それまでの日本が維持していた精神性・道徳の完全否定である。物質文明の価値を喧伝し、日本を日本たらしめてきた公という概念、恥の精神、神話、大和魂といった精神性の価値を貶めた。戦後の焼け野原では精神性では腹いっぱいにならなかったのであるから、当たり前と言われれば当たり前なのかもしれない。しかし、戦後に失われた精神性、そして現在に至るまで、そこからもたらされている日本という国家の形のあやふやさ。これこそが戦後60年を超えた今、このくにに問われているものなのである。戦前までの日本を全否定されたこと。その後は経済成長のみを追いかけてきたこと。そして今、現在の日本があるのである。
歴史の中で脈々と続く国家の意識、日本独自の価値観を断絶してしまったこと、これこそが敗戦がもたらしたものなのだ。連合国の物量に負けた、民主主義に負けた、その反動が経済大国への道であったともいえよう。しかし、その後の60年の間に国家として経済繁栄以上に重要な精神を失ってしまったのである。精神とは伝統から育まれるものである。日本人が日本人である限り、精神性が続くとはまるで限らない。断ち切られた伝統からは、空虚しか生まれないのである。
4.国家とは
道徳の退廃を示すような事件、その事件の発生自体を疑いたくなるような犯罪、社会生活の中でのモラルの欠如、こうした報道を聞くたび、そして実際に目の当たりにするたびに、一体誰がこんな国にしたのだ、という憤りに駆られる、そうした純粋な良識を持つ方々がまだこの日本には多くおられることを私は知っている。
その良心の代表として、戦後から25年後に自決を遂げた三島由紀夫をあえて挙げたい。私は日本の戦後が清算しなくてはならないもの、それこそが込められているのがこの檄文であると考える。
「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を糾さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」
三島は一体何を歯噛みしていたのか、日本の美しさが踏みにじられたことであるのか、ナショナリズムが解体されたにも関わらず国家が存続していることなのか。なによりもこの日本という国がまるで淫したかのような事態に陥っていることに嘆いたのか。それはこの国に生きる国民一人一人の想像力に掛かっている。その想像力すらも働かなくなった日本人がいることもまた悲しむべき事実でもあるが。
結局のところ、先の戦争の敗戦がもたらしたもの、それはいわゆる戦後であり、戦後民主主義は日本の伝統精神、価値といったものを断絶させ、復興させることはなかった。先の戦争以降の民主主義が外部からの効力によって成就されたものであること、そしてその戦後民主主義が、マッカーサーから与えられたアメリカ民主主義の理想の模倣に過ぎず、そこに安易な戦後民主主義者が乗っかっていった結果が象徴しているのは戦後教育の荒廃であり、現在の教育の崩壊である。
結果として国家の共通の価値基準、規範といったものは取り戻されることなく今に至った。この精神の空洞化こそが、現在の日本における諸処の混乱の元凶であると私は考えるのである。今必要なのは、戦後というものを近代日本の歴史の中で相対化し、俯瞰的な視点で日本の歴史を捉え、どんな価値、規範がこの日本という国家・社会の根本に置かれるべきなのかということを議論することである。そのときにはじめて国家という存在について、共同体の意義について、宗教的な伝統について自らの国を定義し、国家としての日本を取り戻すことができるであろう。これによって、心ある人々が感じている現在の日本への違和感を解消することができると私は信じている。
5.おわりに
ここまで私は先の戦争の敗北がもたらしたもの、それはいわゆる日本の戦後であり、戦後民主主義であり、その存在ゆえに日本が精神の空洞化に陥り、国家としての明確なくにのかたちを打ち出すことができずにここまで経過したと論じてきた。
無論こうした意見に異を唱える方も多くいるだろう。抽象的かつ感覚的な論であるゆえ理解できないという方もおられるだろう。しかし私は国民の中に同意をされる方もまた多くおられると信じている。いわゆる戦後、そして戦後民主主義になんら問題がなかったのであれば、ではなぜいま、靖国問題に関する論議がこれまでに盛り上がりを見せるのか。それは中国、韓国からの批判にさらされているという一事象だけの結果ではない。
そしてなぜこれまで堂々と語られることのなかった憲法改正が現実の政治問題として机上に乗ってきたのか。現実との乖離に国民が目をそむけることができなくなったのではないのか。こうした象徴的な事態が指し示すのは日本という国の国家像の欠如であり、ナショナルアイデンティティの漂流である。この漂流は無策無為のままでは決して止まることが無いだろう。
ここで戦前の政治家であり、東条内閣の打倒に動いて自決に追い込まれた中野正剛の戦時宰相論をここで取り上げたい。
「国は経済によりて滅びず、敗戦によりて滅びず、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷うことによりて滅びるのである」
国家の再生を指導者が示すことができなければ国家は滅びるというこの言葉は非常に深く、重いものがある。戦後多くの政治家が取り組んできたこの国家の再生こそが、現代の日本が真っ先に取り組まなくてはならない政治課題であると私は考える。
昨今の構造改革によってバブル崩壊後を乗り越え、真に経済大国となった今こそ、経済至上主義を超えた次の価値を政治が提示していくことが必要であるはずだ。真・善・美という古来日本からの伝統的な価値に沿った国家像を作り上げ、犯罪の多発、教育の崩壊、経済モラルの溶解、様々な問題をはらんだカオス状態の現在の日本と、物心のバランスが取れた美しい日本とを厳然と対峙させなくてはならない。そのためには深遠なる歴史観を携え、高貴なる使命感を持って日本の将来像を描き出すリーダーシップを携えた政治家が求められるのである。
<参考文献>
ジョン・ダワー 「敗北を抱きしめて 上・下」 岩波書店 2004年2月
小熊英二 「民主と愛国」 新曜社 2002年11月
田原総一朗 「日本の戦争」 小学館 2000年11月
河合 敦 「目からウロコの太平洋戦争」 PHP研究所 2002年8月
松本健一 「日本の失敗」 東洋経済新報社 1998年12月
渡部昇一 「ラディカルな日本国家論」 徳間書店 2004年4月
佐伯啓思 「総理の資質となにか」 小学館文庫 2002年6月
堺屋太一 「日本を創った12人」 PHP研究所 2006年2月
佐伯啓思・筒井清忠・中西輝政・吉田和男
「優雅なる衰退の世紀」 文藝春秋 2000年1月
高松智之の論考
Thesis
Satoshi Takamatsu

第25期
高松 智之
たかまつ・さとし
(前)練馬区議会議員
Thesis
敗戦がもたらしたもの~失われた日本の誇り~
本レポートでは、先の戦争、とりわけ日米開戦へ至るまでの経緯を見つめながら、開戦前から勝ち目のない戦いと考えられていたにもかかわらず、なぜに対米開戦という結論に至ったのかを考え、その後の敗戦という結果が現在までの日本のくにのかたちに与えた影響を私なりの視点で記述していく。
1.はじめに
先の戦争をなんと呼ぶか、これだけで一つのレポートが書けるほどの議論ができるだろう。いかに呼ぶかをいうことだけで先の戦争の捉え方が問われ、また政治的議論に引きずりこまれることとなる。大東亜戦争なのか、太平洋戦争なのか、第二次世界大戦なのか。
大東亜戦争と呼ぶことで、軍国主義を彷彿させ、右翼的であると指摘されるならば、その呼称は避けることが無難であるかもしれない。なぜならこのレポートでは先の戦争は侵略戦争であったか否か、という無意味な二元論を展開したいがためのレポートではないからである。しかしながら当時の日本がおかれた状況をより実体的にとらえるには、当時の日本政府が呼称として使った大東亜戦争を呼ぶことが的確であると考える。だがあくまでも議論のポイントをそこに置くつもりは毛頭ないので、あえて先の戦争という言葉にて表現を進めていく。
そしてそれは先の戦争という過去をぼやかすことではない。むしろ私が問題にしたいのは、先の戦争での敗戦がこの日本にもたらしたものは、まだ払拭ができていないということであるのだ。その敗戦によってもたらされたもの、いわゆる戦後という呼び方が正しいのかどうか、現在の日本にまとわりついて離れることなく影響を及ぼし続ける、そのものについて議論をしたいがためであることをご理解いただきたい。
2.対米開戦への経過と終焉
先の戦争がいかなる戦争であったのか。それを考えるには当時の世界情勢、さらにはそこに至るまでの近代の歴史の流れを考えなくてはならないであろう。本レポートの中心となる日米開戦までを追うのであれば、その半世紀も前の、日露戦争での日米間の確執についての記述を外すことはできない。
米国は日露戦争時点では極めて親日的であった。多額の日本公債を購入し、日露戦争講和条約締結の際にも、時のアメリカ大統領。セオドア・ルーズベルトの積極的仲介があった。これには米国なりの中国(清国)支配への欲望が背景にあった。そのためにはロシアの力が邪魔であり、日米の利害関係が一致していたのである。しかし日露戦争後、米国の鉄道王、エドワード・ハリマンと日本の間で共同管理を目論んでいた肝心の南満州鉄道は、日本の単独経営の方向に舵が切られた。これによって米国は満州から締め出されることとなり、対日感情にしこりが出来たわけである。その後の中国にまつわる日本の行動に米国が敏感に反応し続けたのはこの時の確執が尾を引いていたといえよう。
その後、米国は国内において日本人移民の排斥運動を強め、1924年には日本人移民の完全禁止を意図した排日移民法を制定した。これにより相互に国内で相手国への不信感が決定的になった。
合わせて当時の世界、及び日本国内は慢性的な不況に陥っていた。1920年の第一次世界大戦後恐慌、1923年の関東大震災、1929年の米国株価暴落による世界恐慌。それをうけ列強諸国はブロック経済に突入していく。米国は1930年にホーリー・スムート法を制定し、輸入商品に対して高率関税をかけることとした。これによって日本の製品は次第に世界から締め出されることとなった、こうした閉鎖的経済政策は植民地を持たなかった日本にはボディーブローのように効くこととなる。
1939年には天津事件によって米国は日米通商条約の破棄を通告。米国は完全に日本に対して敵対の姿勢を明確にした。当時の日本は米国への輸出が輸出額全体の3割以上、輸入が4割以上であり、国内経済への打撃はあまりあるものであった。
1940年9月27日、日独伊三国同盟成立後には米国は屑鉄の対日全面禁輸を決定し、完全に仮想敵国として日本を捉えるようになった。その後日米間では戦争回避に向けての交渉が続けられたが、相互の不信から進展することはなく、1941年7月の日本による南部仏印への進駐に対し、米国は日本に対する石油の全面輸出禁止を発表し、同時にイギリス・中国・オランダに経済封鎖網、いわゆるABCD包囲網を構築し、日本を追い詰めることとした。当時の日本はアメリカに石油の8割を依存しており、この時点で当時の海軍軍令部総長永野修身は「備蓄石油は1年半で消費しつくす」と発言していた。これによって日本政府内では対米開戦論も出ていたが、天皇陛下の意図を受けた近衛首相は戦争回避に向けての日米交渉を継続していた。1941年9月6日の御前会議において、陸海軍による帝国国策遂行要領は原案どおり通され、10月上旬までに日米交渉が妥結しないときには開戦となる方針が決定された。このときに昭和天皇陛下は日米開戦には反対の意思であったといわれる。
その後近衛首相は日米開戦回避に向けて駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと通して、コーデル・ハル国務長官との交渉を繰り返した。しかし後にハル国務長官が回想録で語るには、既にこの時点では日米交渉が成立する見込みはなく、アメリカの太平洋正面に対する軍備が整うまで、対日戦突入を先に引き伸ばすだけであったということである。近衛首相は10月上旬を迎えても、9月6日の御前会議の決議を撤回してでも日米交渉を継続すべきだと主張したが、即時開戦派であった東条陸相に御前会議の決定を覆すことの責任を問われ、近衛内閣は10月18日に総辞職し、10月19日には東条内閣が出来た。
東条首相のもと、1941年11月5日の御前会議にて新たな帝国国策遂行要領が決定された。11月30日中に日米交渉が成功しなければ対米戦争へ突入するということとなる。連合艦隊司令長官山本五十六は「開戦後1年くらいは暴れてみせるが、そのあとはどうなるかわからない」と悲観論を開陳しており、なにより軍中央部には米国への本土攻撃計画もなかったにもかかわらずである。この悲壮な覚悟はなぜゆえであろうか。
1941年11月26日、ハル国務長官から平和解決要綱、いわゆるハル・ノートが提示された。この内容は日本軍の南方・中国からの完全撤退、蒋介石政権の承認、日独伊三国同盟の離脱が主であった。これは到底日本が受け入れられる内容ではなく、これがアメリカの最後通牒と認識した日本は、12月1日の御前会議にて正式に対米開戦を決定したのである。
こうして日米間の歴史を振り返れば、先の戦争の対米開戦が決して真珠湾攻撃という単純な勃発ではなかったということがわかるだろう。帝国主義全盛の当時の時代背景において、極東の有色人種であった日本が世界に伍していく中で、資源を持たない日本が資源を求めて大陸に進出することを列強諸国が決して歓迎しなかったことが伺える。対米開戦については勝ち目がなかったことは当時の状況でも認識をされていた。しかしながら当時の資源に関する抜き差しならぬ状況を考えれば、進むも地獄、退くも地獄。一国の独立と存続を考えるうえで究極の選択であったこともまた事実である。それが先の悲壮な覚悟につながっているといえよう。そしてこれは政府一部の人間だけではなく、報道を通じた国内の熱狂に近い盛り上がりがあったことも付け加えておきたい。
後に天皇陛下はこのように語っている。
「私がもし開戦の決定に対して拒絶したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の生命も保証できない。それはよいとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨時が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」
陛下のこの覚悟をして、こうして先の戦争は避けることが困難であったという結論に至るのである。
対米開戦後の戦史については、ここでは触れることはしない。それは本レポートの視点では書くに余りある内容であるからである。
3.敗戦後
2度の原子爆弾の投下という屈辱を受けた敗戦後、日本をまさに仕切ったのはダグラス・マッカーサーであった。マッカーサーを語るうえで外すことができないのは、あの昭和天皇陛下との写真であろう。当時の国民にとって衝撃的であり、かつ屈辱的であった写真には、マッカーサーの大きな意図が隠されていた。それは日本をマッカーサーの理想の国に作り変えるというものである。戦時中は現人神であった天皇に対してあのような写真が撮れるということを、彼のいうところの12歳の国、日本の国民達に見せ付けたわけである。戦後の混乱の中で、マッカーサーをこれまでの天皇陛下の代わりと考え、マッカーサー様と拝みたてまつり、親愛の手紙を送るという軽薄な輩が出現したことも事実である。
マッカーサーは日本を古い封建社会ととらえ、理想の民主主義国家、極東のスイスとなるべく、教育の自由主義、男女平等、労働組合の推進、農地解放、などの政策を次々と展開した。同時にアメリカ文化の普及を徹底し、日本に脈々と続いてきた精神主義を否定した。日本の軍国化、帝国主義の復権をなにより恐れていたからこそ、戦後の日本をアメリカ礼讃の国へと作り変えることを進めていった。非軍事化と民主化によって日本が二度とアメリカに立ち向かうことないようにという狙いがあったのである。
そして日本の民主化の象徴となったのが日本憲法の制定である。GHQの意向が強く繁栄されたこの憲法においては憲法九条に戦争の放棄が明記される画期的な内容として、当時の世界の注目を受けたと伝えられている。当時の報道には戦後の壊滅的な打撃に嫌気が指していた国民もこの憲法を歓迎したという記述もあれば、当時は極度の食糧難であったため、国民は今に毎日を生き抜くかで精一杯であり、憲法などかえりみる余裕はなかったという記述もある。どちらにせよ、占領下での混乱期を示すものであるといえるだろう。
さて結果として、マッカーサーはどのような影響を現在の日本に残したのであろうか。戦後民主主義こそがその大きな遺産であるということもいえるだろう。だがそれ以上に私が問題にしたいのは、それまでの日本が維持していた精神性・道徳の完全否定である。物質文明の価値を喧伝し、日本を日本たらしめてきた公という概念、恥の精神、神話、大和魂といった精神性の価値を貶めた。戦後の焼け野原では精神性では腹いっぱいにならなかったのであるから、当たり前と言われれば当たり前なのかもしれない。しかし、戦後に失われた精神性、そして現在に至るまで、そこからもたらされている日本という国家の形のあやふやさ。これこそが戦後60年を超えた今、このくにに問われているものなのである。戦前までの日本を全否定されたこと。その後は経済成長のみを追いかけてきたこと。そして今、現在の日本があるのである。
歴史の中で脈々と続く国家の意識、日本独自の価値観を断絶してしまったこと、これこそが敗戦がもたらしたものなのだ。連合国の物量に負けた、民主主義に負けた、その反動が経済大国への道であったともいえよう。しかし、その後の60年の間に国家として経済繁栄以上に重要な精神を失ってしまったのである。精神とは伝統から育まれるものである。日本人が日本人である限り、精神性が続くとはまるで限らない。断ち切られた伝統からは、空虚しか生まれないのである。
4.国家とは
道徳の退廃を示すような事件、その事件の発生自体を疑いたくなるような犯罪、社会生活の中でのモラルの欠如、こうした報道を聞くたび、そして実際に目の当たりにするたびに、一体誰がこんな国にしたのだ、という憤りに駆られる、そうした純粋な良識を持つ方々がまだこの日本には多くおられることを私は知っている。
その良心の代表として、戦後から25年後に自決を遂げた三島由紀夫をあえて挙げたい。私は日本の戦後が清算しなくてはならないもの、それこそが込められているのがこの檄文であると考える。
「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を糾さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」
三島は一体何を歯噛みしていたのか、日本の美しさが踏みにじられたことであるのか、ナショナリズムが解体されたにも関わらず国家が存続していることなのか。なによりもこの日本という国がまるで淫したかのような事態に陥っていることに嘆いたのか。それはこの国に生きる国民一人一人の想像力に掛かっている。その想像力すらも働かなくなった日本人がいることもまた悲しむべき事実でもあるが。
結局のところ、先の戦争の敗戦がもたらしたもの、それはいわゆる戦後であり、戦後民主主義は日本の伝統精神、価値といったものを断絶させ、復興させることはなかった。先の戦争以降の民主主義が外部からの効力によって成就されたものであること、そしてその戦後民主主義が、マッカーサーから与えられたアメリカ民主主義の理想の模倣に過ぎず、そこに安易な戦後民主主義者が乗っかっていった結果が象徴しているのは戦後教育の荒廃であり、現在の教育の崩壊である。
結果として国家の共通の価値基準、規範といったものは取り戻されることなく今に至った。この精神の空洞化こそが、現在の日本における諸処の混乱の元凶であると私は考えるのである。今必要なのは、戦後というものを近代日本の歴史の中で相対化し、俯瞰的な視点で日本の歴史を捉え、どんな価値、規範がこの日本という国家・社会の根本に置かれるべきなのかということを議論することである。そのときにはじめて国家という存在について、共同体の意義について、宗教的な伝統について自らの国を定義し、国家としての日本を取り戻すことができるであろう。これによって、心ある人々が感じている現在の日本への違和感を解消することができると私は信じている。
5.おわりに
ここまで私は先の戦争の敗北がもたらしたもの、それはいわゆる日本の戦後であり、戦後民主主義であり、その存在ゆえに日本が精神の空洞化に陥り、国家としての明確なくにのかたちを打ち出すことができずにここまで経過したと論じてきた。
無論こうした意見に異を唱える方も多くいるだろう。抽象的かつ感覚的な論であるゆえ理解できないという方もおられるだろう。しかし私は国民の中に同意をされる方もまた多くおられると信じている。いわゆる戦後、そして戦後民主主義になんら問題がなかったのであれば、ではなぜいま、靖国問題に関する論議がこれまでに盛り上がりを見せるのか。それは中国、韓国からの批判にさらされているという一事象だけの結果ではない。
そしてなぜこれまで堂々と語られることのなかった憲法改正が現実の政治問題として机上に乗ってきたのか。現実との乖離に国民が目をそむけることができなくなったのではないのか。こうした象徴的な事態が指し示すのは日本という国の国家像の欠如であり、ナショナルアイデンティティの漂流である。この漂流は無策無為のままでは決して止まることが無いだろう。
ここで戦前の政治家であり、東条内閣の打倒に動いて自決に追い込まれた中野正剛の戦時宰相論をここで取り上げたい。
「国は経済によりて滅びず、敗戦によりて滅びず、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷うことによりて滅びるのである」
国家の再生を指導者が示すことができなければ国家は滅びるというこの言葉は非常に深く、重いものがある。戦後多くの政治家が取り組んできたこの国家の再生こそが、現代の日本が真っ先に取り組まなくてはならない政治課題であると私は考える。
昨今の構造改革によってバブル崩壊後を乗り越え、真に経済大国となった今こそ、経済至上主義を超えた次の価値を政治が提示していくことが必要であるはずだ。真・善・美という古来日本からの伝統的な価値に沿った国家像を作り上げ、犯罪の多発、教育の崩壊、経済モラルの溶解、様々な問題をはらんだカオス状態の現在の日本と、物心のバランスが取れた美しい日本とを厳然と対峙させなくてはならない。そのためには深遠なる歴史観を携え、高貴なる使命感を持って日本の将来像を描き出すリーダーシップを携えた政治家が求められるのである。
<参考文献>
ジョン・ダワー 「敗北を抱きしめて 上・下」 岩波書店 2004年2月
小熊英二 「民主と愛国」 新曜社 2002年11月
田原総一朗 「日本の戦争」 小学館 2000年11月
河合 敦 「目からウロコの太平洋戦争」 PHP研究所 2002年8月
松本健一 「日本の失敗」 東洋経済新報社 1998年12月
渡部昇一 「ラディカルな日本国家論」 徳間書店 2004年4月
佐伯啓思 「総理の資質となにか」 小学館文庫 2002年6月
堺屋太一 「日本を創った12人」 PHP研究所 2006年2月
佐伯啓思・筒井清忠・中西輝政・吉田和男
「優雅なる衰退の世紀」 文藝春秋 2000年1月
高松智之の論考
Thesis
Satoshi Takamatsu

第25期
高松 智之
たかまつ・さとし
(前)練馬区議会議員



留言
張貼留言