日本七 奪韓國
日韩吞并是否意味着日本剥夺了朝鲜人的国王、土地、主权、生命等?
在韩国,人们接受的教育是,在日本统治时期,日本人剥夺了韩国人的七样东西:国王、主权、土地、国语、姓氏、生命和资源。 这被称为 "七大剥夺",是反日情绪的根源。
事实上,日本人所做的恰恰相反,而应被称为 "七大恩惠"。
......抢劫国王。
大韩帝国的最后一位国王是高宗。日本将日本皇室成员那西宫家的芳子王后嫁给了高宗的儿子李贤。这证明大韩民国皇室与日本皇室享有同等待遇。如今仍矗立着的赤坂王子典舍就是李煜与方子居住的地方。
日本战败后,李煜本应返回朝鲜,继承王位,建立国家。但是,李承晚和当时的朝鲜人不允许这样做。换句话说,是朝鲜人而不是日本人偷走了国王。
......夺走了我们的主权。
朝鲜多年来一直是中国的属地,但甲午战争后《马关条约》的第一条就是 "朝鲜独立"。条约要求清朝 "将朝鲜视为完全独立和自立的国家"。条约的第一条说明了最重要的问题。日本认为朝鲜独立是最重要的事情。
然而,后来高宗的妻子敏华与俄国溜须拍马,开始操纵使俄国成为新的宗主国。这是导致日俄战争的导火索之一。高宗背叛了让他获得独立的日本,试图站在俄国一边。然而,他的计划没有成功,日本赢得了战争。
原本站在俄国一边的高宗,在失去俄国的支持后改变了态度,开始偏袒日本。为了保护自己,他签订了《日韩协定》(1905 年),导致朝鲜失去外交权,成为日本事实上的保护国。朝鲜总督府成立,在日本的支持下,朝鲜开始了现代化之路。
然而,由于这种自我强加的愿望,高宗失去了实权。
随后,针对这些狗屁政府,一个名为 "一心会 "的叛乱组织出现了,并开始将朝鲜并入日本。
一心会的名称源自日本的明治维新。地位低下的武士推翻了庞大的幕府政权,改变了他们所推崇的地位制度。
这就是 "日本丧失主权 "的故事。他们罪有应得。
......他们夺走了我们的土地。
在吞并之前,朝鲜半岛没有土地管理的概念。日本在太阁土地调查之前也是如此。
朝鲜人之间经常发生土地纠纷,甚至导致杀戮。朝鲜总督制止了这种情况。他们进行了详细的土地调查,明确了土地权利,并使土地现代化,从而避免了麻烦。
自然而然,那些曾经声称 "这是我的土地!"的人和那些曾经声称 "这是我的土地!"的人都不愿意了。以及曾经声称 "土地不属于你们 "的人并根据测量结果被排除在外。在他们看来,"土地从我这里被夺走了!"在他们看来,他们被 "剥夺了土地"。
......被剥夺了民族语言。
在朝鲜,约占人口 10%的王室和贵族阶级统治和剥削人民。因此,他们不愿意对人民进行教育,不教他们读书写字。据估计,日本吞并之前的识字率约为 5%。福泽谕吉和其他致力于朝鲜现代化的人重新发现了韩文字母,并努力将其普及。
韩国总督编纂了第一部完整的韩语词典。全国各地都建立了教授韩文字母和日语的学校。这使得吞并时期的识字率达到 55-60%。
有时人们会说,"我们教他们日语,所以我们拿走了他们的字母"。然而,如果你们只想把他们当作殖民地来剥削,就没有必要传播日语。我们教日语是为了把他们当作日本人对待。传播韩文是为了教授韩国的历史和文化。
如果日本没有吞并朝鲜,朝鲜人民就不会识字,现代化就会遥遥无期。
......他们剥夺了他们的姓氏。
朝鲜被吞并后,立即禁止使用日本式姓氏。朝鲜人要求允许他们使用日本姓氏。
到台湾、满洲和库页岛做民工的朝鲜人瞧不起和歧视当地人,说他们是日本人。但是,如果他们保留朝鲜名字,就不会被当作日本人对待。于是他们说:"我们是日本人,所以我们应该取日本名字!"他们变成了
没有证据表明日本强迫朝鲜人使用日本名字。
有些人用朝鲜族名字成为日本军官和政治家。换句话说,保留朝鲜姓氏并没有什么不利之处。
日韓併合は日本が朝鮮人の国王・国土・主権・生命などを奪ったということですか?
韓国では、日本統治時代に「国王」「主権」「土地」「国語」「姓名」「命」「資源」の七つを日本によって奪われたと教育しているそうです。 「七奪」と称され、反日感情の源泉となっています。
この話、事実をみるとまったく逆で、むしろ「七恩」と言うべきことを日本人はしています。
・ 国王を奪った
大韓帝国最後の王は高宗。日本はその高宗の世子である李垠へ日本の皇族、梨本宮家の方子女王を嫁がせています。これは大韓民国の王室を日本の皇族と同等に扱ったという証拠です。現在も「赤坂プリンス クラシックハウス」として残る建物は、その李垠が方子と暮らした建物です。
日本の敗戦後、本来であれば、李垠は韓国に戻り、王位を継承し、建国にあたるべきでした。しかし、それを許さなかったのが李承晩であり、当時の韓国人達です。つまり、国王を奪ったのは、日本人ではなく、韓国人だったのです。
・主権を奪った
長年、シナの属国だった朝鮮でしたが、日清戦争後の下関条約で第一條にあげられているのが、「朝鮮の独立」です。清に対して「朝鮮を完全無欠の独立自立の国として扱え」と要求しています。条約の第一條は、一番重要なことを記載します。日本は朝鮮の独立を一番重要な事柄と考えていました。
しかし、その後、高宗の妻閔妃がロシアにすり寄り、ロシアを新たな宗主国にしようと工作を始めます。このこともきっかけの一つになり、日露戦争が始まります。高宗は、独立させてくれた日本を裏切り、ロシア側に付こうと工作しました。しかし、高宗のもくろみは外れ、日本が勝ってしまいます。
ロシア側に付いていた、高宗はロシアの後ろ盾がなくなると、態度を変え、日本にすり寄ります。自身の保全を目的に日韓協約(1905年)を結び、これによって韓国の外交権が失われ、事実上日本の保護国となりました。朝鮮総督府が置かれ、日本人の支援のもとで近代化への道を歩み始めます。
しかし、この自らが望んだ結果、高宗には実権がなくなってしまいます。
そして、これらのでたらめな政府に対して、一進会という反政府勢力が現れ、日韓併合に進みます。
一進会の名前は、日本の明治維新からとられています。身分が低い武士達が、幕府という巨大な体制を倒し、身分制度を一変させたことに憧れを持ちました。
これが「日本に主権を奪われた」という話の中身です。自業自得ですね。
・土地を奪った
併合前の朝鮮半島では、土地の管理という概念がありませんでした。日本で言えば太閤検地以前の状態です。
朝鮮人同士の土地トラブルが頻繁に起こり、殺し合いも起こっていました。それを止めさせたのが、朝鮮総督府です。詳細な土地調査を行い、土地の権利を明確にして、トラブルが起こらないように近代化したのです。
当然ながら、今まで「自分の土地だ!」と主張していた人が、「その土地はあなたのものではない。」と調査に基づき排除されます。その人達から見ると「土地を奪われた!」となりますね。
・国語を奪った
朝鮮は、人口の1割程度の王族・貴族階級が人民を支配し、搾取していました。そのため、人民に教育を与えることを嫌い、文字の読み書きも教えることはありませんでした。日本が併合する前の識字率は5%程度とされています。朝鮮の近代化に尽力した福沢諭吉らがハングル文字を再発見し、それの普及に努めました。
初めての本格的な朝鮮語辞典は朝鮮総督府が編纂しました。国中に学校を作り、ハングル文字と日本語を教えます。これにより、併合期間の間に識字率は55〜60%までになりました。
「日本語を教えたから、文字を奪った。」と言う人がたまにいるのですが、植民地として搾取するだけなら日本語を普及する必要はないのです。日本人として扱うために日本語を教えた。そして、朝鮮の歴史や文化を教えるためにハングルを普及したのです。
日本が併合していなければ、文字の読み書きもできない民族であり、近代化など遠い話だったということです。
・姓名を奪った
併合直後は日本式の名前を名乗ることが禁止されていました。それを朝鮮人達が「日本名を名乗れるよう要求した」のです。
台湾や満州、樺太に出稼ぎに出た朝鮮人達は、「自分たちは日本人だ」と、現地の人たちを見下し差別しました。しかし、名前が朝鮮名のままだと日本人扱いされません。そこで、「俺たちは日本人だから日本の名前を名乗れるようにしろ!」となったのです。
日本が朝鮮人に日本名を強制した事実はありません。
朝鮮名のままで日本軍の将校や政治家になった人もいます。つまり、朝鮮名のままでなんら不利はなかったのです。
金錫源 - Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 金 錫源 (キム・ソグォン、きん せきげん [2] 、 朝鮮語 : 김석원 、 1893年 9月29日 – 1978年 8月6日 )は、 大日本帝国陸軍 、および 大韓民国陸軍 の 軍人 、教育家、 政治家 。 日本名 は 金山 [2] 錫源 [3] [注釈 1] 。 陸軍士官学校(日本) 27期 [2] 。最終階級は、大日本帝国陸軍では陸軍 大佐 [2] 、韓国陸軍では陸軍 少将 [2] 。 号 は沃田。 本貫 は 慶州金氏 。 現在の韓国では 親日反民族行為者 に認定されている。 第二次世界大戦まで [ 編集 ] 李氏朝鮮 の 漢城 で生まれた。金尚吉(官吏)の二男 [2] 。 大韓帝国 の武官学校 [注釈 2] を経て、 1909年 ( 明治 42年)9月、 大日本帝国 の陸軍中央幼年学校予科(後の 陸軍予科士官学校 )に入校 [2] [注釈 3] 。 1909年当時韓国人は嘲笑の的であり、とくに韓国人学生の学生監であった小倉少佐 [注釈 4] の行為はひどく、金錫源は怒りを抑えるため祖母がくれた山の神霊像に合掌していたという [8] 。韓国が合併されたと聞いて失意の日々を送っていたが、やがて日本人より良い成績を上げて韓国人の気概を高めようとし、熱心に勉強に励んだ [9] 。これにより韓国人は劣等民族ではないと証明し、またそれによって日本人が韓国人を無視することができなくなるだろうと考えた [9] 。戦術学や地形学などの軍事学に関する成績は優秀な方だったが、一般学科で、その中でもロシア語は殆ど落第点に近い成績だった [10] 。 1915年 5月25日に 陸軍士官学校 を卒業(27期。卒業成績は466人中432位)。見習士官として和歌山の 歩兵第61連隊 に配属された [11] 。同年12月25日に陸軍 歩兵 少尉 に任官し、2年後には 歩兵 中尉 に進級。中尉のとき、約1か月ほど満州に出征し、これが初の実戦だった [12] 。 1919年 、 三・一運動 が起こり、 朝鮮 内の兵力では対処できなくなると日本本土の部隊も増援派遣されることに決定した [13] 。各連隊から1個中隊を抽出し、第61連隊にも出動命令が出されたが、上部の指示により金は派遣要員から外された [13] 。 1931年 に 満州事変 が勃発した際には機関銃隊長( 大尉 )として出征し、 馬占山 軍と交戦した [14] 。論功行賞金として700円を貰い [15] 、これは城南高等学校の設立に使われることになった [16] 。 朝鮮総督府 に許可を求めたが、当時私立学校は独立運動の震源地となっていたので設立許可は出されなかった [16] 。 日中戦争 が勃発して出征命令を受けると、今度は直接 南次郎 総督を訪ねて学校設立を要望し、南はこれを承諾した [16] 。日中戦争では 歩兵第78連隊 第3大隊長( 少佐 )として北支戦線へ従軍。 1937年 7月25日、 天津 で待機中であったところに、最前線部隊として選抜され「 北京 東南方10キロ地点に位置する団河村一帯の敵を掃討して、 行宮 高地を占領せよ」という命令を受けた [17] 。27日に行宮兵営攻撃の第一線として参加し、午後6時30分に占領した [18] 。戦闘中に壕に躓いて足首を脱臼したため、人力車に乗って部隊を指揮し、戦闘終了後に天津の陸軍病院に後送された [18] 。この戦闘で、1個大隊で1個師団の中国軍を撃破したということで称賛されたが、金錫源によれば、中国軍が1個師団規模の兵力を探知し、徹底抗戦を避けたためだという [18] 。 約1か月半治療を受けた後、原隊に復帰した [18] 。 1938年 2月、 山西省 東苑の戦闘に参加。2月21日、 霊石 の総攻撃が開始され、中国軍の右側背面を攻撃するよう命令を受けた [19] 。翌日、中国軍が反撃し、約3時間の激戦が繰り広げられた [19] 。この時、金錫源の大隊は進撃速度が速すぎたため、連隊との連携が取れず、陝西軍第86師(長: 高双成 中将)に包囲された [19] 。全滅も時間の問題であったが、奇策を思いつき、中国軍にも聞こえるように大声で「皆よく聞け!今すぐ3千名の増援部隊が到着しするので安心して戦い、現陣地を死守せよ」と言った後、自分の部隊にだけ聞こえる低い声で「諸君、今日で最後だ。もう少し頑張って最後の突撃だ。持っている煙草を全部吸え。そして軍歌を声高らかに歌い、狂ったように踊れ。万歳を叫べ!」と告げた [20] 。こうして350名の全将兵が一斉に煙草に火をつけ、軍歌を歌い、踊り、万歳を叫んだため、実際の人数より遥かに多いように感じられた [20] 。この奇策が功を奏し、中国軍は撤退した [20] 。 こうして2個中隊をもって第86師を撃退し、この功績から、朝鮮人としては初の功三級 金鵄勲章 を授与された。また、なかなか貰うことができない 北支那方面軍 司令官名義の感状が部隊に与えられた [21] 。この事から当時の朝鮮では、『金部隊長奮戦記』、『金錫源部隊激戦期』、『戦塵余談』といった金を称える記事が連日メディアにおいて発表され、 崔南善 の 作詞 で『金少佐を思う』という歌までが作られた。 その後、1年間は 黄河 流域まで転戦したが、比較的部隊に激戦は無かった。中国軍では「金錫源部隊と戦うより逃げろ」と言われていたという [21] 。 1939年 3月に朝鮮へ帰還し、全国巡回講演をした [22] 。また、 1941年 に 太平洋戦争 が勃発した際には、朝鮮人の青年達に 学徒動員 に参加する様に呼びかける講演活動等、 銃後 の支援も積極的に行った。 1940年 、 広島県 福山市 の連隊に転属 [23] 。これは城南高等学校の安倍校長 [注釈 5] が軍司令部に金錫源の転出を要請した結果だという [23] 。 1941年末に 山東省 へ転属することになり、混成旅団を経て済南軍直轄の幹部教育隊長となった [25] 。 1944年 に 大佐 に昇進。太平洋戦争終戦時は 平壌 兵事部課長。 大韓民国建国以降 [ 編集 ] 1948年 8月に大韓民国が成立し 大韓民国国軍 が正式なものになると、高級将校が不足したため国防力強化に外国軍出身の高級将校に決起が呼びかけられ、 1949年 1月に大佐として入隊、第1旅団長に任ぜられた。1949年4月には 准将 、第1師団長。 1949年5月3日、第1師団第11連隊の警戒陣地を北朝鮮軍が占領した [26] [27] 。第11連隊は陣地の奪還を図ったが、地形と北朝鮮軍が構築した陣地からの側防火力によって攻撃は進展しなかった [26] 。これに金錫源は、10人からなる特別攻撃隊 [注釈 6] に81ミリ迫撃砲弾を抱いて突入させ陣地を回復した [26] 。 1949年7月、北朝鮮軍が度々行ってきた攻撃に対する報復を決意し、7月25日に松岳山頂の488高地を奇襲で奪取した [28] 。7月27日から北朝鮮軍も反撃し、高地をめぐる戦闘は8月3日まで続いた [29] 。 しかし、剛直で曲がった事が許せない性格
https://ja.wikipedia.org/wiki/金錫源
朴春琴 - Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/朴春琴
・命を奪った
これに関しては特にねつ造がはびこっています。
「日韓五十年戦争」、『朝鮮独立運動之血史』、東学党三十万人虐殺、日露戦争時の民間人虐殺などですが、全て現在の韓国の主張を正当化するために作り出された嘘です。
日本人は朝鮮農業の発展に尽力し、近代医療を導入して平均寿命を倍にしました。さらには、人口も倍増しました。日本人が朝鮮人を殺しまくっていたのに、なんで人口が増えているのか?シンプルな問題です。
ちなみに韓国人のプライドともいえる「キムチ」ですが、これも日韓併合時代にできたものです。白菜は、アブラナ科の植物で、近くに同じアブラナ科の植物が植えられていると交雑してしまい、安定した採取が難しい植物でした。これを安定化させたのが日本人で、その栽培技術は併合時代になって朝鮮に伝えられます。
つまり、日本併合があったから「白菜キムチ」が生まれたんですね。
・資源を奪った
併合時代に日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は、現在の価値で63兆円にものぼります。
ダムを造り、インフラを整え、鉄道を施設し、学校や病院を作りました。
政府だけではなく、民間企業もたくさんの投資を行い、朝鮮の近代化と工業化を推進しました。
資源を奪うどころか、莫大な投資を行っています。
たまに「日本人は米を奪った」などと言う人がいますが、日本人は「米作り」を教え、収穫高を大きく引き上げました。朝鮮の農民達は、この米を朝鮮内で売ろうとしないで、日本に売ろうとしました。朝鮮内で売るよりも日本で売った方が高値が付くからです。これを止めさせようとしたのは朝鮮総督府です。
「日本が米を守った」と言ってほしいですね。
そもそも併合前の朝鮮の写真を見たら、奪うものが何もなかった。と思うのですけど、どうしてこういう事実は無視されるのでしょうか?
韓国人は「七奪」を学校で教わります。そのため、韓国人がこのように思うのは無理のないことだと思います。しかし、日本人(日本人のふりをしている人も含む)で未だに「七奪」を言っている人がいます。
安っぽい正義感なのか?知識が薄っぺらいのか?理解力が乏しいのか?
もしくは、工作員なのか?
そろそろまともになってもいいと思いますよ。
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