战后70年--东京审判与GHQ(5全)]麦克阿瑟作为一名老兵,为何要证明 "日本是为了自卫而参战"?
战后70年--东京审判与GHQ(5全)]麦克阿瑟作为一名老兵,为何要证明 "日本是为了自卫而参战"?
老兵永远不会死。他们只会逐渐消失。作为一名老兵,他努力按照上帝的旨意履行自己的职责。永别了"
1951 年 4 月 19 日。在美国参众两院联席会议上,以盟军最高司令官(SCAP)身份占领并统治日本的陆军上将道格拉斯-麦克阿瑟(Douglas MacArthur)结束了他长达半小时的告别演说。
后来成为美国第 37 任总统的共和党参议员理查德-尼克松聆听了演讲,并在他的著作《什么是领袖?
麦克阿瑟就像古代神话中的英雄。他的话铿锵有力,整个会议厅被魔力震得麻木,他的演讲多次被掌声打断。一位参议员说:'共和党人激动得湿了眼皮,民主党人害怕得湿了裤子......'"
八天前,即 11 日,麦克阿瑟在被美国第 33 任总统哈里-杜鲁门解除所有职务后回国。这次演讲是他人生的暮年,但他的内心却充满了奋斗的激情。
1952 年,麦克阿瑟参加共和党总统候选人提名竞选,他决心击垮预计将作为民主党候选人寻求连任的杜鲁门。他在演讲中说:"只有我的朝鲜政策才能带来胜利。现任政府的政策只会使漫长而无休止的战争继续下去"。
麦克阿瑟在美国大受欢迎。当他心爱的巴丹飞机抵达旧金山时,有 50 多万人迎接他,在华盛顿、纽约、芝加哥和密尔沃基举行的游行总共吸引了数百万人。相反,公众舆论对杜鲁门解雇他的 "英雄 "持冷淡态度,麦克阿瑟的第二次生命似乎一帆风顺。
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美国参议院军事和外交关系联合委员会传唤麦克阿瑟出席听证会。听证会的主题是 "远东的军事形势和麦克阿瑟的解职"。其背景是共和党阴谋打击杜鲁门政府。
麦克阿瑟欣然同意。他认为这将有利于总统提名战。按照计划,世界媒体密切关注听证会,并提前进行了广泛报道。
5 月 3 日,听证会第一天。在证人席上,麦克阿瑟诚恳地回答了问题,并继续对 1950 年 6 月爆发的朝鲜战争的前因后果进行了娓娓道来。
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提问者共和党参议员伯克-希肯卢珀问道:"将军提出的从海上和空中封锁红色中国的建议,不正是美国在太平洋战争中战胜日本时所使用的战略吗?
目的是加强麦克阿瑟战略的合法性,但麦克阿瑟的回答出乎意料。
你必须明白,日本在四个小岛上有近 8000 万人口。
'日本的劳动力无论在数量上还是质量上都有可能是最好的。他们建造了工厂,他们有劳动力,但他们没有原材料。他们没有棉花,没有羊毛,没有石油生产,没有锡,没有橡胶,也没有其他任何东西。所有这些都存在于亚洲水域"。
如果原材料供应被切断,日本将有 1,000 万至 1,200 万人失业。这就是他们所担心的。因此,促使日本发动战争的动机在很大程度上是出于安全需要"。
听众们都惊呆了。如果证词是正确的,那么日本参战不是为了侵略,而是为了自卫。这不仅破坏了战争是击败侵略国日本的正义战争的前提,而且使东京法庭(远东国际军事法庭)也失去了合法性。
更具体地说,它甚至可能否定麦克阿瑟占领日本五年零八个月并实现 "民主化 "和 "非军事化 "的成就。
这一声明使共和党人的期望落空,并激起了强烈的愤怒。此后,麦克阿瑟的声望迅速下降,他的总统梦也随之破灭。
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麦克阿瑟为什么要发表这一证词?
麦克阿瑟在回忆录中没有提到他为何赞同日本的 "自卫战争"。然而,在解读麦克阿瑟在朝鲜战争中的战略时可以找到答案。
通过朝鲜战争,麦克阿瑟敏锐地意识到北朝鲜背后的苏联和中国(中华人民共和国)共产主义国家所构成的威胁。
如果朝鲜和台湾落入共产主义国家之手,日本将岌岌可危,美国在远东的地位将丧失殆尽,防线可能倒退到美国西海岸。防止这种情况发生的唯一办法就是死守朝鲜半岛。这种观点在国务院和五角大楼根深蒂固。
然而,杜鲁门也对北大西洋公约组织(NATO)成员国感到不安,因为与中国和苏联的彻底对抗可能导致苏联对欧洲的报复性攻击,因此他制定了一个在北纬 38 度线附近 "艰苦 "解决的计划。
对此,麦克阿瑟拒绝让步,坚持必须从海上和空中遏制中国,必须推翻毛泽东领导的共产党政权,否则美国未来的安全将受到威胁。这就是杜鲁门解雇麦克阿瑟的原因。
×××
即使我们追溯其后的历史,麦克阿瑟的论点也是有说服力的。然而,一边在大陆与中苏对抗,一边死守朝鲜半岛的战略,与甲午战争以来日本政府为捍卫独立而采取的战略并无二致。
过去 100 年来,美国在太平洋犯下的最大政治错误就是加强了中国共产党的力量。我们将在未来 100 年中付出代价"。
麦克阿瑟还说。这意味着 "美国正在与错误的敌人作战。真正的敌人不是日本,而是苏联和中国共产党"。
通过日本占领和朝鲜战争,麦克阿瑟一定意识到了日本在地缘政治上的重要性。他关于 "自卫战争 "的评论应被视为口误,因为他雄辩地阐述了其战略的优越性。
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然而,杜鲁门也对北大西洋公约组织(NATO)成员国感到不安,因为与中国和苏联的彻底对抗可能导致苏联对欧洲的报复性攻击,因此他制定了一个在北纬 38 度线附近 "艰苦 "解决的计划。
对此,麦克阿瑟拒绝让步,坚持必须从海上和空中遏制中国,必须推翻毛泽东领导的共产党政权,否则美国未来的安全将受到威胁。这就是杜鲁门解雇麦克阿瑟的原因。
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即使我们追溯其后的历史,麦克阿瑟的论点也是有说服力的。然而,一边在大陆与中苏对抗,一边死守朝鲜半岛的战略,与甲午战争以来日本政府为捍卫独立而采取的战略并无二致。
过去 100 年来,美国在太平洋地区犯下的最大政治错误就是增强了中国共产党的力量。我们将在未来 100 年中付出代价"。
麦克阿瑟还说。这意味着 "美国正在与错误的敌人作战。真正的敌人不是日本,而是苏联和中国共产党"。
通过日本占领和朝鲜战争,麦克阿瑟一定意识到了日本在地缘政治上的重要性。他关于 "自卫战争 "的评论应被视为口误,因为他雄辩地阐述了自己战略的优越性。
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麦克阿瑟还留下了其他重要证言。
当民主党参议员拉塞尔-朗称赞盟军总司令部(GHQ)的成功在历史上无与伦比时,麦克阿瑟断然否认。
我不接受这样的评价。战胜国占领战败国的想法从来都不会产生好结果。只有少数例外。
一旦交战结束,我们不应对占领国的某些人带有任何惩罚性的含义或怨恨。
那么,日本的占领和东京审判究竟是怎么回事,我们就不再继续追问了。
当另一位参议员问及原子弹在广岛和长崎造成的损失时,他回答说:"我很清楚。两个地区的人数不同,但屠杀在两个地方都是残酷的"。他似乎想批评杜鲁门下令进行原子弹轰炸,但重要的是,他将原子弹轰炸描述为 "大屠杀"。
因此,麦克阿瑟在持续三天的听证会上的证词让日本人感到高兴,但一句话却引起了彻底的转变,导致了强烈的愤怒和失望。
如果说盎格鲁-撒克逊人在科学、艺术、神学和文化方面已经有 45 岁的话,那么德国人也差不多成熟了。与我们的 45 岁相比,日本人还像 12 岁的男孩"。
不过,在这句话前后,他又说:"我们还灵活地将新的思维方式引入学习阶段。日本人具有很强的应变能力,很容易接受新的思维方式"。可以说,他是从正面将 "日本人的灵活性 "比作一个小男孩。
日本人在大战中英勇作战,震慑了美军,但战败后他们却出奇地温顺,并对麦克阿瑟的统治大加赞赏。麦克阿瑟可能将他们视为 "12 岁的男孩"。
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在 1952 年 7 月的共和党大会上,曾经的部下、欧洲前线最高指挥官德怀特-艾森豪威尔获得提名,并于 1953 年成为第 34 任总统。
麦克阿瑟退休后,与爱妻珍在纽约华尔道夫酒店的一间套房里度过了余生。和当兵时一样,他的生活很有规律,经常在客厅里踱来踱去,从不耽误午睡。
尼克松非常尊重麦克阿瑟,他通过时任总司令部民政局局长的考特尼-惠特尼邀请麦克阿瑟到他在酒店的房间,之后又多次在那里教他。不过,他也看到了自己的不足。
麦克阿瑟最大的错误是公开表现出政治野心,并试图将自己的军事抱负转化为政治资产......
1964 年 4 月 5 日下午 2 时 39 分,麦克阿瑟在华盛顿附近的沃尔特里德陆军医院去世,享年 84 岁。波托马克河畔樱花盛开。
前首相吉田茂在《产经新闻》上发表了题为 "保护天皇制的恩人 "的悼念文章。昭和天皇也向美国总统发出了唁电。葬礼于 8 月 8 日在美国国会大厦举行,吉田也出席了葬礼。
麦克阿瑟的一生褒贬不一。麦克阿瑟的声誉在日本还没有定论。不过,他在参议院听证会上的证词可能是一种忏悔,是他军旅生涯的真实写照。他的遗体与让的遗体合葬在弗吉尼亚州诺福克的麦克阿瑟纪念馆。(荣誉省略)。
=故事结束
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本系列由石桥文人、花房苏、峰正孝、狩野博之、森本满、天中信博和田中一成编剧。
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【戦後70年〜東京裁判とGHQ(5完)】老兵・マッカーサーはなぜ「日本は自衛の戦争だった」と証言したのか…
「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら」
1951年4月19日。米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官(SCAP)として日本を占領統治した陸軍元帥のダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。
後に第37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著「指導者とは」にこう記した。
「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。彼の言葉は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。ある上院議員は『共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らした』と語った…」
8日前の11日、マッカーサーは第33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国した。人生の黄昏を感じさせる演説だが、心中は闘争心でみなぎっていた。
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マッカーサーは52年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを完膚なきまでに叩き潰す腹づもりだったのだ。演説でも「私の朝鮮政策だけが勝利をもたらす。現政権の政策は長く終わりのない戦争を継続するだけだ」とトルーマンを批判した。
米国内のマッカーサー人気は絶大だった。愛機「バターン号」がサンフランシスコに到着した際は50万人以上が出迎え、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、ミルウォーキーの各地で行われたパレードには総勢数百万人が集まった。逆に「英雄」を解任したトルーマンに世論は冷ややかで、マッカーサーの第二の人生は順風満帆に見えた。
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米上院軍事・外交合同委員会はマッカーサーを聴聞会に召喚した。テーマは「極東の軍事情勢とマッカーサーの解任」。背景にはトルーマン政権に打撃を与えようという共和党の策謀があった。
マッカーサーは快諾した。大統領選の指名争いに有利だと考えたからだ。狙い通り、世界中のメディアが聴聞会の動向に注目し、事前から大々的に報じた。
5月3日の聴聞会初日。証言台に立ったマッカーサーは質問に誠実に応じ、1950年6月に勃発した朝鮮戦争の経緯をよどみなく説明し続けた。
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質問者の共和党上院議員、バーク・ヒッケンルーパーは「赤化中国を海と空から封鎖するという元帥の提案は米国が太平洋で日本を相手に勝利を収めた際の戦略と同じではないか」と質した。
マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが狙いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった。
「日本は4つの小さい島々に8千万人近い人口を抱えていたことを理解しなければならない」
「日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた」
「もし原料供給を断ち切られたら1000万~1200万人の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」
会場がどよめいた。証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる。これは「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、東京裁判(極東国際軍事裁判)まで正当性を失ってしまう。
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もっと言えば、5年8カ月にわたり日本を占領統治し「民主化」と「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。
この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領の夢は潰えた。
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なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。
日本の「自衛戦争」を認めた理由についてマッカーサーは回顧録でも触れていない。だが、マッカーサーが朝鮮戦争でどのような戦略を描いたかを紐解くと答えが見えてくる。
マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国(中華人民共和国)という共産主義国の脅威を痛感した。
朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。
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ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国が「中ソと徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」と動揺したこともあり、北緯38度線付近で「痛み分け」にする策を練っていた。
これに対して、マッカーサーは中国を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。これがトルーマンがマッカーサーを解任した理由だった。
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マッカーサーの主張は、その後の歴史をたどっても説得力がある。ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。
「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」
マッカーサーはこうも語った。これは「米国は戦う相手を間違った。真の敵は日本ではなくソ連や中国共産党だった」と言っているのに等しい。
マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。「自衛戦争」発言は、自らの戦略の優位性を雄弁に語るうちにポロリと本音が出たとみるべきだろう。
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他にもマッカーサーは重要な証言を残した。
民主党上院議員、ラッセル・ロングが「連合国軍総司令部(GHQ)は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」と称えたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。
「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」
「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」
それならば日本の占領統治や東京裁判は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。
別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えた。原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を「虐殺」と表現した意義は大きい。
このように3日間続いた聴聞会でのマッカーサー証言は日本人を喜ばせたが、ある発言で一転して激しい怒りと失望を招いた。
「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである」
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ただ、この発言の前後で「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。「日本人の柔軟性」をよい意味で少年に例えたといえなくもない。
日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。
× × ×
1952年7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、1953年に第34代大統領に就任した。
マッカーサーは引退し、ニューヨークのホテル・ウォルドーフ・アストリアのスイートルームで愛妻ジーンと余生を過ごした。軍人時代と同じく常に居間を歩き回り、昼寝を欠かさない規則正しい生活を送った。
マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政局長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。ただ、欠点も見抜いていた。
「マッカーサーの最大の過誤は政治的野心を公然と示し、軍事的声望を政治的資産に転じようとしたことだった…」
1964年4月5日午後2時39分、マッカーサーはワシントン近郊のウォルター・リード陸軍病院で84年の生涯を閉じた。ポトマック川岸は桜が満開だった。
元首相、吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。昭和天皇も米大統領宛に弔電を打った。葬儀は8日に米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。
毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人生だった。マッカーサーの評価は日本でもなお定まらない。ただ、上院聴聞会での証言は軍人マッカーサーの偽らざる思いであり、一種の懺悔(ざんげ)だったのかもしれない。その遺体はバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館にジーンとともに葬られている。(敬称略)
=おわり
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この連載は石橋文登、花房壮、峯匡孝、加納宏幸、森本充、今仲信博、田中一世が担当しました。
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