1925年以降、なぜ日本は軍国主義に傾いていき、またそれが可能だったのですか?

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様々な要因はありますが、あまり語られない要因としては「民主化」もその一つ。

例えば日露戦争以前の戦争は、まだ「民主化」がそれほど進行していない時期に行われたため、当時の政権は、日露戦争も講和反対の世論を押し切り、それなりに適切な時期に講和に持ち込むことができた。(世論によって暴動が起きたり、結果的に桂内閣の退陣につながりはしたが)

しかし満州事変、日中戦争、太平洋戦争に至ると「民主化」がある程度進行してしまったため、政権は対中・対米英に強硬な世論を無視できなくなり、退き際を見極められなかった。

また、軍は世論から批判を受けるおそれのある戦略的・戦術的な失敗を隠蔽するようになった。

また、それ以外の要因としては、第一次世界大戦で日英同盟に基づく英国からの欧州戦線への陸軍派遣要請を断り兵士の犠牲が最小限に抑えられたがため、却って欧州諸国ほどには、日本人には「戦争の悲惨さ」が身に沁みなかった。

さらに最小限の犠牲でドイツの山東省や南洋諸島の利権を獲得したり、大戦の「漁夫の利」だった「大正バブル」により、日本人の多くはむしろ「戦争はおいしい(儲かる)」とまで考えるようになった。

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つまり、安倍首相は軍国主義者なのだった。

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主に若い兵士がふざけていて、一部の文人や貴族がそれに従った。

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これはこれまで気がつかなかった新しい視点だ。

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民主化による外交関係の悪化は、実は近年の国際社会でも「あるある」です。例えば90年代以降の民主化により韓国では対日関係が、台湾では大陸との関係が不安定化しました。 また、中国は90年代も共産党一党支配体制は維持し民主化までは至らなかったものの、その後改革開放が進んだことにより世論を無視できなくなり、2000年以降になって対日関係や対米関係が不安定化しています。 しかし民主化によるデメリットは、現代の民主主義社会ではなかなか公然と口には出しづらいので、政治家やマスメディアはあまり言いません。 しかし本来、民主主義を上手に運用するためには、民衆もこういう欠点も当然知っておくべきですよね。 この欠点を緩和す…
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小山 有雄
なるほど、勉強になりました。民主化のデメリットには「衆愚」の問題がありますね。
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色々な側面があるんでしょうが「話し合い」を覚えることができなかったという面に焦点を当てて書いてみたいと思います。


日本の議会制民主主義は西洋を真似た「ごっこ」的な側面が強くありました。ヨーロッパの国では国民から時には暴力も交えた権利請願がありそれに応える形で議会制民主主義が拡大してゆくのですが、日本は「一流国は憲法や議会を持っているから我々も持たなければならない」という理由で議会が導入されました。

さらに国民は主権者ではありませんでしたから「国の未来に責任を持つ」という意欲も育ちません。

結果的に次のようなことが起こります。

  • 国民の気をひくために雑誌などを使った劇場型政治が横行しました。普通選挙で拡大した有権者は主権者ではなく最終決定権はないうえに政治教育設けていません。政策議論にはたいして興味は持ちませんがスキャンダルは大好きです。最初の劇場型事件は「朴烈事件」と言います。朝鮮人無政府主義者と内縁の妻の悲恋を大逆事件に絡めたものだったと言われているそうです。
  • ある政党が行き詰まると外から調整が入ります。これを憲政の常道と言います。元々は二大政党制の下の政権交代のことを意味していたようですが日本では「ある政党が失敗したら第二党が引き継ぐ」と単純化されて理解されました。すると「だったら相手の失敗を見つけてくればいいのだ」という理解が生まれ足の引っ張り合いがさらに加速します。騒ぎが大きくなれば外から調整が入りますからそれをにらみながら足の引っ張り合いを行い続けます。これが立憲主義の正体でした。
  • ところが調整をしていた「最後の元老」が気力をなくして退場すると調整機能も失われ単なる足の引っ張り合いに堕してゆきます。つまり議会制民主主義を支えていたのは極めて属人的な調整だったのです。明治憲法は天皇が要になっていたのですが個人的なアドバイザリーが失われたことで事実上議会政治は空中分解します。

金融危機などで議会がソリューションを提示できない中唯一有言実行ができたのが軍隊でした。中国大陸進出を通じてフロンティアができると経済は上向きます。つまり国民には「結果を出しているように」見えたわけです。結果的には先発資本主義国とそれに挑戦する後発資本主義国の争いに発展します。

議会に見切りをつけて軍隊に賛同する若い官僚も出てきました。それが当時最新の政治理論だったマルクス主義を勉強した革新官僚です。計画経済を満州(現在の中国東北部)で試しそれを本国(日本)に持ち込みました。野口悠紀雄はこれを1940年体制といっています。計画経済の国家社会主義体制です。高度経済成長期の日本の基幹となった仕組みはこの時に作られていてバブル崩壊ごろまで持続されていました。

革新官僚のなかには岸信介や椎名悦三郎(三木内閣を作った椎名裁定で有名です)がいます。

経緯は全く違いますがドイツも同じような道を辿ります。つまり話し合いの不在が戦争につながっていったという意味ではドイツと日本は似たような構造を持っていたわけです。

国家形成が遅れたドイツは議会制民主主義が発展せず強い君主(プロイセン王でのちのドイツ皇帝)がドイツを勝利に導くという構図でした。裏にいたのは優秀な宰相であるビスマルクでした。

ビスマルクが退場するとドイツは勝ちから見放されることになるのですがそれでも議会制民主主義は成熟しません。戦争の英雄を民選の皇帝である大統領に据えるのですがそれでも議会はまとまりませんでした。

ドイツの場合は国民の期待を一身に受けたのは軍ではなく一人の演説が極めて上手な政治的リーダーでした。おそらく軍は第一次世界大戦で負けていたので期待の対象にならなかったのでしょう。

大統領から権限を委譲されると公共事業を増やすなどして成果を上げ国民の熱狂的な支持を集めます。ところが彼の経済政策はネズミ講もどきでした。戦後ドイツ国民はそのことに気がついたのですが手遅れでした。強烈なハイパーインフレに見舞われユダヤ人虐殺という重い事実に打ちひしがれることになります。

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