「最低の人間や。あいつが発明したから死なないといかん」“人間爆弾”と呼ばれた特攻兵器「桜花」発案者に元隊員がぶつけた“容赦ない言葉”
『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より #1
1994年5月、大阪市東淀川区に住む大屋隆司の父親・横山道雄が突然、失踪した。この失踪騒ぎの後、みるみる衰弱していく父を看病する中で、隆司はこれまで知らなかった父の過去を知る。
父の戸籍上の名前は「大田正一」といい、死亡により除籍されていた。大田正一といえば太平洋戦争末期に「人間爆弾」と呼ばれた特攻兵器「桜花」を発案したとされる人物である。なぜ彼は、戸籍を変え、別人になってまで生きようとしたのか?
ここでは、カメラマン・ノンフィクションライターの神立尚紀氏が、大田正一の謎多き生涯を追った渾身のノンフィクション『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)より一部を抜粋。神立氏と大屋隆司・美千代夫妻は、大田正一の実像に迫るため、戦時中の大田を知る人物を訪ね始めた——。(全2回の1回目/2回目に続く)
「人間爆弾」と呼ばれた特攻兵器「桜花」(写真=『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より)◆◆◆
「名前を失くした父」
大屋隆司・美千代夫妻に、「大田正一の家族」であることを明かされた私は、これまで取材などで出会った旧海軍の関係者の顔を思い浮かべた。
2014年の時点ではすでに多くの関係者が亡くなっていたが、幸い、生前の大田をよく知る何人かの人物をインタビューしたことがある。支那事変の空の戦いについて取材した稲田正二・元中尉は、1938年(昭和13)から39年にかけ、中国に配備された第13航空隊で大田と同じ陸上攻撃機の搭乗員だった。稲田は「終戦から数年後、常磐線の列車内で大田と偶然再会し、新橋駅西口の闇市に連れて行った」という。
しかし、桜花部隊である第721海軍航空隊(神雷部隊)に関しては、それまで約20年のあいだに慰霊祭や戦友会に何度も参加して、元隊員に話を聞く機会があったにもかかわらず、こと大田に関する証言は断片的にしかとれていなかった。神雷部隊の元隊員に「大田正一の話を」と問うと、ほとんどの人が困惑の色を浮かべ、あるいは不機嫌な表情になり、ふだん闊達な人でも言葉を濁したり、沈黙したり、話題をそらせたりした。
桜花部隊である「神雷部隊」(写真=『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より)大田のことになると口を閉ざす分隊長たち
桜花隊の分隊長だった平野晃・元大尉(2009年12月没)は、かつて私にこう言った。
「私は神之池基地の近くの高松小学校に起居していたので、そこに整備員から報告がありました。大田中尉は自室の机に遺書を残し、自分で零式練習戦闘機を操縦して海のほうへ飛んで行ったと。覚悟の自決飛行であることは明らかだと思いました」
しかし、私が、大田は死にきれずに生きていたのではないかと水を向けると、口を真一文字に結んで黙ってしまった。同じく分隊長だった新庄浩・元大尉(2013年3月没)は、
「生きているとは噂に聞いたけど、詳しいことは知らない」
と言ったきり、その後は大田に関する話題をいっさい受け付けなかった。大田の話は、当事者にとって忌避すべきものであり、まるで触れてはいけないタブーになっているかのようだった。
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そのことを強く感じたのが、2014年9月、元桜花搭乗員も参加して東京・九段の靖国神社で行われた元零戦パイロットの集い「NPO法人零戦の会」慰霊祭に大屋美千代が、
と、約80名の列席者の前に進み出た美千代は、自分は大田正一の家族であること、大田が1994年まで生きていたことを明かし、義父が発案した桜花で多くの若者が命を失ったことを詫びた。ほとんどの参加者は美千代の言葉をあたたかく受け入れたが、なかには顔をしかめて不快感を露わにした人たちがいた。1928年(昭和3)10月生まれ、終戦時16歳の最年少桜花搭乗員だった浅野昭典もその1人だ。旧知の私に向かって、浅野は苦々しげに言った。
「大勢の仲間が桜花で死んだ。私も死ぬはずだった。いまごろ家族が来て謝るぐらいなら、本人が生きてるうちに戦友会に出て詫びればよかったんだ。逃げ回って一度も戦友会に出てこなかったのに、いまさら『大田の家族です』って挨拶されても返事のしようがない」
大田正一の実像に迫るにはどうすればいいのか。私は、慰霊祭に参列していたNHK福岡放送局のディレクター・久保田瞳に声をかけた。久保田は美千代の言葉に共感を覚えたという。
2010年7月、久保田の祖父・北島源六(享年90)が亡くなり、荼毘に付すと、頭蓋骨にめりこんでいた弾丸の破片が見つかった。生前、戦争体験をほとんど語らなかった祖父が、唯一、孫の久保田に話していたのが、開戦直後の1941年12月10日、マレー沖海戦で一式陸上攻撃機に搭乗し、イギリスの最新戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈したことだった。祖父は、このとき被弾したのだろうか。真相を知っているのだろうか、なぜか祖母の口は重い……。久保田は、生前祖父の元に届いていた手紙を手掛かりに戦友を訪ね歩き、やがて祖父が心に秘めていた「必ず妻のもとに帰ってくる」という思いを知ることになる。
久保田が体当たりで制作したドキュメンタリーは、2011年5月2日、「ドキュメント20min.」の20分番組として放送されるや、孫が祖父の秘密をたどってゆく出色の映像作品として注目を集め、9月4日には59分の拡大版が「ETV特集」枠で放送され。
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終戦、78年目の夏
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「最低の人間や。あいつが発明したから死なないといかん」“人間爆弾”と呼ばれた特攻兵器「桜花」発案者に元隊員がぶつけた“容赦ない言葉”
『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より #1
神立 尚紀2023/08/13
私は長年の友人であるNHKの考証担当シニアディレクター・大森洋平からの依頼を通じてこの番組の制作を手伝い、久保田の誠実な取材姿勢と取材力に感銘を受けていた。久保田が「おじいちゃんと鉄砲玉」で祖父の戦友を訪ね歩いたように、大屋隆司・美千代夫妻の「父親探し」の旅をドキュメンタリーにできないだろうか。
久保田の祖父・北島源六は、7人1組で搭乗する一式陸上攻撃機の偵察員(偵察、航法、無線、爆撃などを担当する)だった。後に詳述するが、大田正一も一式陸攻のベテラン偵察員だったから、もしかするとどこかで大田とすれ違っているかもしれない。
幸いにも久保田の番組提案に局がゴーサインを出し、久保田と私たちの取材が始まる。桜花搭乗員の生き残りなど関係者への取材を重ね、ETV特集「名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔」として、2016年3月19日、放送にこぎつけた。
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この番組の制作を通じて、2015年夏、63歳にしてようやく実現した大屋隆司の「父親探し」の旅が始まった。
大田正一(写真右)と大屋隆司(写真=『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より)
「最低の人間や」
隆司と美千代は、愛媛県今治市の高齢者施設に入居している佐伯(旧姓・味口)正明・元上等飛行兵曹を訪ねた。佐伯は1945年1月17日、桜花の練習機での訓練で着陸に失敗、顔面と頭部を36針縫う瀕死の重傷を負い、そのために出撃することなく神之池基地で終戦を迎えた。終戦時、19歳。
「大嫌いでしたね」
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挨拶もそこそこに佐伯は言った。
「神之池でしょっちゅう会ったけど、直接話をしたということはまずなかった。大田少尉のことは、極端に言うたら(われわれの間では)ボロクソやった。最低の人間や。あいつがこういうことを発明したから俺たちは死なないといかん、そう思う者がかなりおったはずです」
やはり、父は快く思われていなかったのか──隆司はこれまでにも、本や雑誌で大田正一に対する批判的な記述を目にしたことはあったが、じっさいに桜花で死ぬはずだった当事者から、面と向かって悪感情を突きつけられたのは初めてだった。
さかんに耳に入ってきた太田への批判の声
戦争が終わって70年が経ち、年齢を重ねた佐伯の記憶は不確かになったり、後から上書きされた感情や、付け加えられた知識も入り混じっているのだろうが、佐伯は次のように言葉を継いだ。
「じつはこんど、人間爆弾の桜花というのを海軍省が作ったんで、そのパイロットになって『敵艦に命中せい』っていうんですよ。自殺ですよね。桜花は爆弾の形しとるでしょ。だから(着陸するための)車輪がないし、練習機には橇(そり)をつけた。それで(訓練中に着陸に失敗し)ジャンプしてね、ほんで私、ケガしたから生き残れたんや」
佐伯は神雷部隊の戦友と4人で写った写真を指して、「私を除いて3人とも戦死しました。私だけが生き残ったわけやからね。みなさんに説明するとき涙が止みません」と言い、さらにこう言った。
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終戦、78年目の夏
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『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より #1
神立 尚紀2023/08/13
「終戦のとき、大田さんへの非難の声もさかんに耳に入ってきました。あんたが桜花というものを上へ、生産をやれと申告しただろうが、ということでね、だいぶひどい目に遭うたようです。殺されてもおかしくなかったでしょうけどね。それで本人も、『これでは生きておれん』という気持ちになったんやろうと思います」
「家族の人にはなにも罪はない」
終戦の3日後、佐伯は大田が零式練習戦闘機を操縦し、神之池基地を飛び立つのを目撃したという。
「あの人は操縦員じゃない、偵察員やから見よう見まねでね。神之池の滑走路をヨロヨロしながら、ちょうどボロの古いミシンでね、布を縫うように上がっていくでしょう。車輪を出したまま南東の方角に向かって、そのうちに飛行機の姿が1つの点になって見えなくなった。どこかで死のうと思ったんでしょうね。私らも、あっちへ飛んで行ったんなら太平洋に墜ちるしかないと話してたんです」
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佐伯は隆司に、現在の自分自身の気持ちとしては大田正一への恨みはないと語り、
「大田さんも、飛んで行ったまま海上に不時着して、もし近くに漁船がいなかったら生きておられんかったでしょう。だからまあ、お天道様が生かしてくれたんじゃから。戦争が終わって生き残った以上、こんどは頭を切り替えて自分が生きる方法を考えなきゃならん。自分の生活が大事になるのはあたりまえのことなんで……。私も、復員になって今治に帰ったら空襲で家が丸焼けになっていて、これをどうやって建て直そうかということで頭がいっぱいで、そやからいままで大田さんのことは忘れていました。
桜花はあくまで70年前のことで、今日こうしてあなたとお会いしても、べつに『あの大田の息子か』なんていう(恨む)気持ちはもうまったく頭にありません。済んだことは済んだことやしね、家族の人にはなにも罪はないんですよ」
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と、つとめて隆司を傷つけまいとする気遣いを見せた。だが、言葉のはしばしに大田への反感はにじみ出てくる。
神雷部隊に対する当時の報道(写真=『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』より)
大田が生き残ったことを赦さない元隊員も
「おそらく復員した連中のなかには、大田さんを憎む立場の人もおったんでしょう。(死にそこねて戦後)逃げ回ってたというのは、それが心の底にあったんでしょうね。お父さんの頭のなかには、死んで目をつぶるまであったと思う、『お前がくだらんものを発明しやがって』という批判がね……」
ストレートで容赦ない佐伯の言葉は、隆司の胸をするどくえぐった。大田自身が出撃することのないまま生き残ったことを赦さない元隊員もいる。あらかじめ覚悟はしていたが、やはり面と向かって「大嫌いでしたね」「最低の人間や」と言われるのは、大田の息子として心が折れそうになるほどつらいことだった。
今治から大阪へ帰る道すがら、夕暮れのしまなみ海道を走るワゴンタクシーの車内で、隆司はひと言も発せず、沈み切った様子でただ窓の外を見つめていた。美千代は、そんな隆司にかける言葉もなかった。
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