過去の歴史と向き合い、謝罪・補償の実現を
遊女の苦しみを飲み込んで、大河は流れる~ 仙台で日本人『慰安婦』の講演
(写真は広瀬川、市民会館横から撮影)
広瀬川 流れる岸辺 想い出は かえらず♪
早瀬 おどる光に ゆれていた 君の瞳
♪ 時はめぐり また夏が来て あの日と同じ 流れの岸
瀬音ゆかしき 杜の都 あの人はもういない♪
(『青葉城恋歌』星間船一作詞 さとう宗幸作曲)
広瀬川の流れは女性達の苦しみの歴史をずっと見つめていたのかもしれない。
私はそんな思いで仙台のけやき通りを行き来し東北地方随一と言われたかつての遊郭の街の跡を「仙台市観光マップ」を片手に歩いた。
江戸時代初期に仙台藩は寛文事件(1660年~71年・伊達のお家騒動)が起き、その後、自粛のため遊女屋(貸座敷)を禁止した。政権が代わった明治からは遊郭が解禁され多い時は三十数軒の貸座敷と三百数十人の娼妓がいた。近隣の農村の娘たちが親に遊女屋に売り飛ばされて、前借金を背負い、奴隷の生活を送った。
広瀬川の流れは彼女達の涙ではないか。私は『青葉城恋歌』に遊女たちを重ねていた。
『宮城の会』の地道な活動に敬意
(写真左・講演する吉川 写真右・仙台市福祉プラザ第1研修室の会場風景)
その前の日、即ち2019年6月30日(日)私は,仙台市福祉プラザで「女性の人権と『慰安婦』問題~日本人「慰安婦」から考える」と題して講演した。雨の中参加者は約50名だった。
主催団体の「日本軍『慰安婦』問題の早期解決を目指す宮城の会」は、2011年6月に結成された。2010年12月、宮城革新懇主催で『慰安婦』問題の講演会を行った(講師は私・吉川)時の参加者と、その前の福島県日本母親大会の「慰安婦」問題分科会(助言者は吉川)参加の女性たちで、宮城県でも『慰安婦』の会を作ろうとの機運が盛り上がり結成された由。
同会は、2011年から2018年の間、大森典子弁護士や川上詩朗弁護士等を講師に招いて毎年講演を8回行う。また、『終わらない戦争』、『太陽がほしい』等映画の上映、パネル展を各7回行い、またニュースを31号まで発行している。『慰安婦』問題解決のための草の根の取り組みを着実に行っている。
(ちなみに私たちの「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」の創設が2010年5月で、その1年後にこの会は結成されている)
『慰安婦』問題最初の大きな山場が1990年代とすれば、その後、第二次安倍内閣の反撃・開き直りに対し被害女性たちが激しく追及した時期に「宮城の会」は結成されている。私は同じ時期の同じ問題意識で取り組んできた同会にたいして親近感を覚えた。
初めて、日本人「慰安婦」問題をテーマに
私が2007年に参議院議員をリタイアしてから求められるままに各地で行った「慰安婦」の講演数は百回を超えるか超えないか…という程度であろう。その中で、日本人「慰安婦」に焦点を当てた講演は今回の仙台が初めてである。
私の講演内容は、最初の頃は韓国人「慰安婦」問題が中心で、強制連行、日本の加害責任、歴史認識、3野党の『戦時性的強制問題解決促進法案』であった。
徐々に講演の内容も女性の人権へ変化し国連の動き、女性への暴力、日本人『慰安婦』へ重点が移っていった。
2010年代、ビルマ従軍軍医から入手した日本人「慰安婦」名簿に基づき九州と関西、山形を訪ね歩いた。1996年に警察庁が私の下に提出した内務省文書もじっくり読んだ。
一人も名乗り出ない日本人「慰安婦」問題を大きな課題として私は認識した。それは自省も込めて、あまりにも遅い対応である。
折しも、「# Me Too」(ハッシュタグ・ミー・ツー)の運動がアメリカ・ハリウッドから起こり、性暴力被害者が声を上げ始めた。これと日本人「慰安婦」はテーマとしても重なり合う。
というわけで、仙台では私は初めて、日本人「慰安婦」問題を中心に据えた講演を行った次第である。今後、この講演を各地で行い『慰安婦』問題と女性の人権問題をきちんと結び付けた運動を展開したいと思っている。
明治以降隆盛を極めた仙台の遊郭
(写真左-かつての花街・常盤町あたり,今は市民会館が建つ 写真右-市民会館の通りの向かい側に一軒だけ日本家屋・一帯がビルに囲まれて、街に遊郭の面影はない)
仙台では明治になって政権が変わったので、遊女屋の御法度も打ち破られた。それ以後第2次世界大戦敗戦迄、仙台の遊郭は(新常磐町遊郭=小田原遊郭)業者三十数軒、娼妓三百人で、東北地方随一と言われるほど隆盛を極めた。帝国陸軍と帝国大学の存在が遊郭の利用を支えたからだという。
戦前から女子の入学を受け入れる等リベラルで知られる東北大学であるが、最高学府に学ぶ男性が遊郭の“常連“という事が私の頭の中では一致しにくい。女性の人権など国民全体の意識にも上がらない時代なので大学も例外ではないということかもしれないが…
敗戦後、米軍の「慰安施設」&RAA(特殊慰安協会)
敗戦直後にRAA協会発足
どのようにして米軍兵士の「慰安所」は作られたのか?政府の命令で中心的役割を果たしたRAAの設立趣意書は以下のように記している。
「1億国民が(敗戦で)茫然自失していた昭和20年8月18日、進駐してくる連合軍の将兵を慰安するための各種施設をつくることを閣議で決定し都道府県警察に無電で指示した。8月21日、都下の接客業者の代表が警視庁から進駐軍将兵の施設を至急作るようにとの指令を受けた」
「つどい来る女性は戦火で家を焼かれ肉親と別れたいとしい女性たちであった。その服装のなんとみすぼらしい事よ。これらの女性を急遽慰安所に送り込み、将兵慰安の実務に就かせることにした」
「八月二八日、宮城(きゅうじょう=皇居)前に集合し宣誓式を行い新日本発足と全日本女性の純潔を守るための礎石事業を自覚し滅私奉公の決意を固めた」云々。
RAAオフリミット~仙台の場合
仙台にも米兵の「慰安所」があった
RAAは東京周辺の「慰安所」設置に関わったが仙台ではどうだったのか?
「各地で「特殊慰安施設」の設置を急ぐ余り・・・従業婦の獲得に狂奔し、女給、ダンサー、慰安婦等の求人広告を新聞紙上に掲載・社会風致上考慮すべきもの・・・を集めにわか仕立てでスタートした。
日本の「贈り物」に対してマッカーサーなど占領軍の幹部が一番神経をとがらせたのは米兵への性病の蔓延だった。彼らは「慰安婦」として動員された日本女性に対して徹底的に性病検査を行った。
「仙台では、市当局のバック・アップで市内の進駐軍兵舎の真向かいに127人のダンサーを置くダンスホールが、『性病のため』数日でオフリミットとなった。米軍の憂慮が性病にあったのは言を俟たない。」(ドウス昌子著『敗者の贈り物 特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』P111)
ダンスホールは「性的慰安施設」ではないので、ダンサーたちの性病検査は行っていないはずである。何故ダンサーが性病に感染していることが分かったのか?
私は次の証言に注目する。
「進駐軍が来てすぐだと思うけど、常磐町にはアメリカ兵がわっと押し寄せてきた。ところがどういう問題があったのか、何カ月もしないうちに『OFF LIMITS』(オフリミット・立ち入り禁止)って立札が立った。進駐軍の兵士たちは出入り禁止になったのさ。‥常磐町にアメリカ兵は来なくなった。(常磐町で生まれ育った宮島信子さんの話)」
「小田原遊郭全体が米兵立ち入り禁止に区域になったという事はここがその時期RAAによって管理された特殊慰安施設であったことを物語っている(千葉由香著「みちのくの仙台常盤町 小田原遊郭随想録」平成30年1月1日・カストリ出版)
仙台にも米兵の「慰安所」は設置されて、東北地方の女性たちが敗戦後もなお「慰安婦」として提供されていたことは確実である。
<コメント>
東北地方随一の遊郭「小田原遊郭」の女性たちは戦争中は貸座敷が閉鎖されてどんな生活をしたのか。ここから『従軍慰安婦』として送られた女性は皆無だったのか。また、戦後進駐軍が来てダンスホールがにぎわったことまでの記録はあるが、しかしすぐに「オフリミットになった」ことから「慰安所」があったことが確認できる。
1946年2月20日、三百年以上続いた日本の公娼制度は正式に廃止された。仙台小田原遊郭という名もこの時点で消えた。戦後の混乱の中で、多くの国民が生活苦にあえいだが、性産業で働いた女性たちは世間の蔑視の中、どうなったのか?
戦争中も、敗戦直後も国家の政策で性奴隷とされた女性達。仙台も、一人の女性も名乗りを上げていない事は他の地域と同じだが、仙台の場合はオフリミットの記録がものの本に残されている(ドウス昌子著『敗者の贈り物 特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』、『県警史』他)。彼女たちの戦後を知る“よすが”は他にもないか。あれば、それは現代の「女性への暴力撤廃」の課題にも「# Me Too」も繋がる。
「『慰安婦』問題の解決を目指す宮城の会」がこれらの問題に取り組まれることを期待したい。(吉川春子記)
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