世界各地的大學!第7集:90年前衣索比亞與日本的幻婚-倫敦大學Sara Marzagora博士訪談
世界の大学!第7回:エチオピアと日本、90年前の幻の結婚――ロンドン大学、サラ・マルザゴラ博士インタビュー

這可能看起來很突然,但我希望你記住你的世界歷史課。儘管根據世代等可能存在差異,但總體上以下方面是共同的。這意味著學習荷蘭、英國、美國和中國等各國(尤其是西方列強)的歷史。
這似乎是顯而易見的,但這種情況有多常見?我們這次訪談的倫敦大學國王學院的Sara Marzagora 博士( https://www.kcl.ac.uk/people/sara-marzagora )表示,現在有一種趨勢是從不同的角度來理解歷史。研究主要活躍在非洲的知識分子的活動史。
在本次電子郵件訪談中,我們與 Marzagora 先生討論了東非衣索比亞與日本之間的關係,並融入了這個新視角。
現在,您如何看待埃塞俄比亞和日本之間的關係?可能指的是埃塞俄比亞咖啡,在日本也可以喝。有些人可能記得它是參加 1964 年東京奧運會的馬拉松運動員阿貝貝的出生地。最近常出現在新聞中的世界衛生組織總幹事譚德塞顯然也來自衣索比亞(現為厄立特里亞)。
然而,埃塞俄比亞與日本的關係並沒有就此結束。尤其是在兩次世界大戰期間,埃塞俄比亞和日本在某種意義上據說相當接近。以什麼方式?背後的背景是什麼?
馬爾札戈拉先生的故事讓我意識到,有趣的世界事件和人們的活動,乍看之下似乎與我們無關,卻與某些意想不到的密切聯繫。
(文中[]為翻譯註)
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從“以歐洲為中心的各國歷史”到“跨國聯繫”
--首先,您能為我們介紹一下您的研究概況以及您是如何對它感興趣的嗎?
在歐洲和美國的大學中,人文學科課程往往是圍繞著民族國家建構的。例如,可能有法國歷史或美國政治思想等課程,德國文學本科學位或葡萄牙研究學位。
然而,到了2000年代,人們逐漸意識到這種模式不再適合理解我們所處的全球化世界,現代世界已經在政治和經濟上一體化,思想始終與國界掛鉤。適合了解它在世界各地的分佈。
我認為這個「跨國(跨國)轉向」很重要。特別是因為它為克服許多美國和歐洲研究人員的歐洲中心偏見帶來了希望。因此,在對衣索比亞思想史的研究中,我開始思考衣索比亞的全球地位如何塑造了衣索比亞的政治思想。我想探討埃塞俄比亞知識分子如何看待世界並理論化他們在其中的立場。當我開始研究知識分子如何建立跨國聯繫以及他們如何受到跨國聯繫的影響時,我偶然發現了埃塞俄比亞「日本化演員」的故事。

倫敦大學國王學院的 Sarah Marzagora 博士。在埃塞俄比亞亞的斯亞貝巴舉行的「世界文學中的口頭傳統」學術會議上的演講
什麼是埃塞俄比亞「日本化」?
——你提到衣索比亞有「日本化」運動,但在此之前,我覺得日本與衣索比亞的關係在今天的日本並不為人所知。埃塞俄比亞和日本有什麼樣的具體關係?理解這種關係的重要事件是什麼?
埃塞俄比亞與日本關係的頂峰時期是1927年至1935年。 1927年,兩國簽署了商業和友好條約,1930年,日本特使出席了在亞的斯亞貝巴舉行的海爾·塞拉西皇帝加冕典禮。
作為回訪,埃塞俄比亞外交部長赫魯伊·沃爾德·塞拉西率領的代表團於1931年訪問了日本。使節們在日本停留了約兩個月,覲見了裕仁天皇,並參觀了日本近代化標誌的所有地方。這意味著工廠、公司、工業農場、動物園、劇院、鐵路、神社、博物館和軍事教育設施。此訪的目的是加強商業聯繫並減少對歐洲的經濟依賴。和盧外長對他在日本的逗留非常感動,在返回埃塞俄比亞後,他寫了一本題為《光明之地:一個叫做日本的國家》的小冊子,其中他建議埃塞俄比亞效仿日本模式。衣索比亞 1931 年憲法遵循 1889 年明治憲法。

前排穿著和服的四人是1931年訪問日本的衣索比亞代表團成員。前排最右邊的是王室成員阿賴耶·阿巴巴,旁邊是外交部長和魯伊。後排右側是律師角岡智義。左邊是Chira的妻子,穿著衣索比亞服裝。
衣索比亞代表團的其他成員包括年輕的阿拉亞·阿貝貝(海爾·塞拉西皇帝的親戚),他也對自己在日本的經歷印象深刻,並決定與我結婚。律師兼泛亞洲主義者(主張亞洲人民團結和獨立於西方列強的思想家)門岡智義幫助荒谷找到了結婚對象。黑田雅子被選為伴侶,但由於義大利政府的干涉,婚姻計劃落空。義大利政府想要殖民衣索比亞,反對日本與衣索比亞結盟。

黑田雅子與 Alaya Ababa 訂婚
——所以埃塞俄比亞的知識分子正在關注日本。原因是什麼?
20世紀初的埃塞俄比亞知識分子認識到埃塞俄比亞在國際舞台上的弱勢地位。儘管該國已正式獨立,但它四面八方都被歐洲殖民地包圍。義大利、法國和英國的領土野心威脅到埃塞俄比亞的獨立。衣索比亞在經濟和軍事上都沒有實力與這些歐洲國家競爭,知識分子認為衣索比亞是一個“落後”和“發展中國家”,擔心歐洲列強會入侵他們。因此,他們試圖讓歐洲相信衣索比亞政府能夠迅速實現國家現代化。埃塞俄比亞知識分子認為,如果埃塞俄比亞繁榮,歐洲就很難證明其殖民計畫的合理性。
日本已成為這裡的重要典範。埃盧伊·沃爾德·塞拉西和科貝德·邁克爾(埃塞俄比亞作家)認為,日本雖然最初是從相對於歐洲的邊緣地位進入近代的,但它不僅成功地保持了獨立性,而且分析說它已經成為一個超級大國。換句話說,對於埃塞俄比亞知識分子來說,日本的例子證明,一個非白人、非歐洲國家有可能在保持其當地傳統的同時在國際體系中獲得權力。衣索比亞知識分子不想改變他們的君主政治體制和基督教政治傳統,因此他們保持了對日本是一個大國的認識,但又不失去其文化認同,認為這是一個先例。
日本模式是一句簡單易懂的“口號”
——以日本為榜樣的現代化運動對衣索比亞產生了怎樣的影響?我想問一下優點和缺點。
我認為正面的一面是日本復興了衣索比亞的政治思想。日本是埃塞俄比亞知識分子跳脫西方與東方(或最近的北半球與南半球)二分法思考的動力。換句話說,它向埃塞俄比亞介紹了與其他非西方國家建立聯繫的想法。日本模式使埃塞俄比亞能夠設想一個多極世界,在這個世界中,西方不僅僅掌管一切,「現代化」的方式也不僅僅是一種。在這方面,日本的例子激發了世界對不同權力關係方式的想像。
但實際上,埃塞俄比亞知識分子對日本了解不多,卻對日本模式大加讚賞。日本歷史的理解是平淡而簡單的。只挑出了埃塞俄比亞和日本之間的相似要素,而對許多差異很少進行深入分析。從這個意義上說,日本是一個理想化的典範,是埃塞俄比亞境內用來強調其現代化潛力的口號。然而,討論通常不會進一步進行。換句話說,日本鼓勵埃塞俄比亞知識分子考慮一個不同世界的“可能性”,而不是他們“如何”真正到達那個不同的世界。
——您認為現代人應該從衣索比亞與日本的關係史中學到什麼?
對我來說,埃塞俄比亞與日本關係的歷史是「南南」關係的一個重要案例。歐洲和美國大學所教授的思想史往往非常以歐洲為中心。焦點完全集中在歐洲,每當研究非歐洲傳統時,它們總是被視為歐洲思想的衍生物,作為對歐洲霸權的反應或反應。然而,南南關係的例子,例如埃塞俄比亞和日本的例子,使我們能夠克服這種歐洲中心主義。埃塞俄比亞思想不僅是對歐洲殖民敘事的反應和反應,而且還植根於其他知識傳統,例如日本,以及後來散居在加勒比地區的黑人,它影響了其他非西方知識傳統。

在衣索比亞的奧羅莫文化中心。右邊是 Ayele Kebede,他是倫敦大學東方與非洲研究學院 (SOAS) 的研究同事,Marzagora 畢業於該學院。
世界文學觀
——我明白了。順便說一句,你在大學教「世界文學」。我還想聽聽這個領域的概述。這部文學史與以往的文學史有何不同?
世界文學誕生於人文學科的「跨國轉向」。這門學科的基本前提是,現代文學具有高度的跨國維度,研究單一語言民族文學的傳統方法不足以解釋這一運動。某些文學體裁在世界各地廣泛傳播(例如小說)。作家經常受到外國傳統的影響。許多作家過去和現在都講多種語言,並走出家鄉旅行。還有很多文學作品談論遙遠的地方。更不用說,還有不同語言之間的翻譯歷史、國際印刷組織、國際文學節、甚至國際文學獎!
世界文學也讓我們能夠以更多元化的方式重新思考民族國家。即使在同一個民族國家內,我們也會不斷遇到不同的方言、隨情況而變化的說話方式以及不同的語言。
然而,世界文學史不僅是一部平等看待世界的文學史,也是一部強勢文學傳統與邊緣文學傳統之間權力關係失衡的歷史。世界上的每個地理區域都有自己的「中心」和「邊緣」。對我來說,世界文學是一個讓我能夠研究文學如何不斷地與地方和全球形式的權力接觸的領域。
——最後請您介紹一下您今後的活動。有出版計劃嗎?
我目前正在從事各種出版項目。這可能有點太多了!例如,我正在寫一章關於凱貝德·邁克爾思想的新方面。這是關於他如何理論化奴隸制的歷史。我還在共同編輯一本關於口傳傳統在世界文學和思想史中的作用的書。文學研究和思想史往往是僅基於書面資料的研究,但口頭詩歌、歌曲和民間傳說在世界範圍內也很重要,並且具有現代和美學影響,是一種複雜的創造性表達形式。
更重要的是,我完成了我的第一本個人書。暫定標題是《獨立的真正意義:殖民世界中的埃塞俄比亞知識分子》。今後,我願花更多時間探討埃塞與日本關係歷史的新面向。
如果您有興趣合作進行這樣的研究項目,我們很樂意聽取您的意見!
——如果有人有興趣合作,請告訴我們。所以,非常感謝。

在亞的斯亞貝巴埃塞俄比亞作家協會
世界の大学!第7回:エチオピアと日本、90年前の幻の結婚――ロンドン大学、サラ・マルザゴラ博士インタビュー

突然だが、世界史の授業のことを思い出してほしい。世代などによって違いはあるだろうが、概ね次のような部分は共通しているだろう。つまり、オランダ、イギリス、アメリカ、中国など、いろいろな国(特に西洋の大国)の歴史を学ぶということだ。
当たり前のようにも思えるが、しかしこれはどこまで当たり前なのか?今回お話を伺ったロンドン大学キングス・カレッジのサラ・マルザゴラ博士(https://www.kcl.ac.uk/people/sara-marzagora)は、これまでとは異なる枠組みで歴史を捉えようとする流れに立ち、主にアフリカで活動した知識人たちの営みの歴史を研究している。
今回、マルザゴラさんには、そうした新しい視点をとりいれながら、東アフリカのエチオピアと日本との関係についてメールインタビューで語っていただいた。
さて、エチオピアと、日本との関係について、何を思い浮かべるだろう。日本でも飲めるエチオピアのコーヒーのことかもしれない。1964年の東京オリンピックで活躍したマラソンのアベベ選手の出身地として記憶している人もいるだろう。最近ニュースでよく目にするテドロス・アダノムWHO事務局長もエチオピア(現・エリトリア)出身だそうだ。
しかし、エチオピアと日本の関係は、それだけにとどまらない。特に両大戦間期、エチオピアと日本はある意味でかなり近い距離にあったという。どんなふうに?そしてそこにはどんな背景があったか?
マルザゴラさんのお話からは、一見私たちとそれほど関係がなさそうな世界の出来事や人々の営みが、案外近いところにつながっていくことの面白さを感じることができた。
(本文中の〔〕は訳注)
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「ヨーロッパを中心にした各国の歴史」から「越境的なつながり」へ
――最初に、ご自身の研究の概要と、関心をもたれたきっかけをお聞かせくださいますか。
ヨーロッパとアメリカの大学では、人文学のプログラムは国民国家をベースに組み立てられる傾向がありました。例えば、フランス史やアメリカ政治思想といった科目、ドイツ文学の学部、ポルトガル研究の学位といったものがあるでしょう。
しかし2000年代になって、このモデルは、私たちの生きるグローバル化した世界の理解には適していない、近代になって世界が政治的・経済的に統合されてきたこと、そして思想がつねに国境を越えて流通してきたことの理解には適していない、と研究者たちは議論するようになりました。
私は、この「トランスナショナル(越境的)な転回」が重要だと考えたのです。特に、多くのアメリカやヨーロッパの研究者によるヨーロッパ中心主義的な偏見を乗り越える期待ができたからです。そのため、私はエチオピアのインテレクチュアル・ヒストリー〔知の営みに関する歴史学〕の研究において、エチオピアの世界的な立ち位置がいかにエチオピアの政治思想を形作ったのかを考えるようになりました。エチオピアの知識人が世界をどう捉え、そしてそのなかで自分たちの置かれている立場をどう理論化しているのかを探りたいなと。知識人たちが、トランスナショナルなつながりをどうやって築き、そこからどのような影響を受けてきたのかを調べ始めたところ、エチオピアの「日本化の担い手たち」の話と出会いました。

ロンドン大学キングス・カレッジのサラ・マルザゴラ博士。エチオピア・アディスアベバで開かれた「世界文学における口承の伝統」に関する学術会議での講演
エチオピアの「日本化」とはなにか?
――エチオピアの「日本化」の動きがあったということですが、その前に、現在の日本では、エチオピアとの関係は一般的にはあまり知られていないような気がします。エチオピアと日本は具体的にどんな関係を持ってきたのでしょうか。その関係を知るうえで重要な出来事はなんでしょう。
エチオピアと日本の関係のピークは1927年から1935年の間です。1927年に、この2国は通商友好条約を結び、1930年にはアディスアベバ〔エチオピアの都市〕で行われた皇帝ハイレ・セラシエ (Haile Selassie)の戴冠式に日本の使節が出席しました。
その返礼訪問で、外務大臣ヘルイ・ウォルデ・セラシエ(Heruy Wolde Selassie)率いるエチオピア代表団が1931年に日本を訪れます。使節たちは日本に約2カ月間滞在して、天皇裕仁に謁見し、そして日本の近代化のシンボルとなるあらゆる場所を巡りました。つまり、工場、会社、工業型農場、動物園、劇場、鉄道、神社、博物館、軍事教育施設です。このときの訪日の目的は、商業的なつながりを強化するため、そしてヨーロッパへの経済的な依存を弱めるためでした。外務大臣ヘルイは日本滞在に感動して、エチオピアへの帰国後に『光の場所――日本という国』と題した小冊子を執筆し、そのなかで、エチオピアも日本モデルに従うことを推奨しました。1931年のエチオピアの憲法は、1889年の明治憲法を踏襲したものです。

前列の和服姿の4人は1931年に日本を訪れたエチオピア代表団。前列一番右が皇族のアラヤ・アベバ、その隣が外務大臣ヘルイ。後列右は弁護士の角岡知良。その左はエチオピア服を着た、知良の妻
エチオピア代表団の他のメンバーには若き日のアラヤ・アベバ(Araya Abebe)〔皇帝ハイレ・セラシエの親族〕がいて、やはり日本での経験に大きな感銘を受けて、日本の女性と結婚しようと決意しました。汎アジア主義者〔アジア諸民族の団結と欧米列強からの独立を主張する思想の持ち主〕の弁護士・角岡知良が、アラヤの結婚相手探しを手伝いました。黒田雅子というお相手が決まったのですが、イタリア政府の干渉があって最終的に結婚の話はたち消えになりました。イタリア政府はエチオピアの植民地化を狙っていて、日本とエチオピアの同盟関係に反対だったのです。

アラヤ・アベバと婚約していた黒田雅子
――エチオピアの知識人たちが日本に注目していたわけですね。一体どんな理由があったのでしょうか?
20世紀初頭のエチオピアの知識人たちは、国際舞台でのエチオピアが弱い立場にあることがわかっていました。この国は公的には独立していましたが、全方位をヨーロッパの植民地に囲まれていたのです。イタリア、フランス、イギリスは領土拡張の野望を抱いていて、エチオピアの独立を脅かしていました。エチオピアは経済的にも軍事的にもこうしたヨーロッパの国々と張り合える力を持っておらず、知識人たちは、エチオピアが「後進国」「発展途上国」であるということをヨーロッパの列強が侵略の口実に使う可能性を恐れていました。したがって彼らは、エチオピア政府はすぐに国家を近代化できるのだ、ということをヨーロッパに確信させようとしました。エチオピアが繁栄すれば、ヨーロッパは植民地化の計画を正当化するのが難しくなるのではないかと、エチオピアの知識人は考えたわけです。
ここで日本が重要なモデルになりました。ヘルイ・ウォルデ・セラシエや、ケベデ・マイケル(Kebede Michael)〔エチオピアの作家〕は、日本は当初こそヨーロッパに対する周縁的な立場から近代に参入したものの、その後うまく独立を保っただけでなく、自ら世界の大国になった、と分析しました。言い換えると、エチオピアの知識人にとって日本の事例は、非白人の非ヨーロッパの国家が、ローカルな伝統を維持しながら国際的なシステムのなかで力を得ることが可能だということの証でした。エチオピアの知識人は、自分たちの君主制の政治体制とキリスト教的な政治の伝統を変えることは望んでいませんでしたので、日本は文化的なアイデンティティを失うことなく、強国であるという認識を得ていた前例だと思われていたのです。
日本モデルはわかりやすい「スローガン」だった
――日本をモデルに近代化しようという動きは、エチオピアにどんな影響をもたらしたのでしょうか?功罪両面についてお聞きしたいです。
プラスの面は、日本がエチオピアの政治思想を活性化させたことだと私は考えています。というのも、日本は、エチオピアの知識人たちが西洋vs.東洋(あるいはもっと最近の言い方をすればグローバルノースvs.グローバルサウス)の二分法の外側で考える原動力となったからです。言い換えれば、他の非西洋の国家とつながりを築くという発想をエチオピアにもたらしました。日本モデルは、西洋だけが牛耳るのではない、そして「近代」化の方法が一つだけではない、多極化した世界をエチオピアが思い描くことを可能にしました。この点から言うと、日本の例は、世界の力関係の異なるあり方についての想像をかきたてるものでした。
ところが実際には、エチオピアの知識人たちは日本のことをよく知らずに日本モデルを称賛していました。日本の歴史は、平坦に、単純化して理解されました。エチオピアと日本の似ている要素だけが取り出され、多くの相違点は深く分析されることがほとんどありませんでした。この意味で、日本は理想化された見本であって、エチオピア内部で近代化の可能性を強調するために用いられたスローガンのようなものだったといえます。しかし、議論は大抵それ以上進みませんでした。別の言い方をすると、日本がエチオピアの知識人に促したのは、異なる世界の「可能性」を考えるという点であって、「いかにして」その異なる世界へと実際に到達できるのかではなかったのです。
――そうしたエチオピアと日本との関係の歴史から、現代の人々が学ぶべきことは何だと思われますか?
私にとっては、エチオピアと日本の関係史は、「南と南」のつながりの重要なケースです。ヨーロッパとアメリカの大学で行われるインテレクチュアル・ヒストリーは、非常にヨーロッパ中心主義的になる傾向がありました。専らヨーロッパに焦点が当てられますし、ヨーロッパ以外の伝統が研究されるときには、それはいつもヨーロッパ思想の派生物として、ヨーロッパの覇権への反応や反動として扱われていました。しかし、エチオピアと日本のケースのような南と南の関係の例は、このヨーロッパ中心主義を乗り越えることを可能にします。エチオピアの思想はヨーロッパの植民地の物語への反応や反動であるだけではなく、日本のような別の知的な伝統を基盤にしていたし、そしてのちにはカリブ海に離散した黒人たちなど、他の非西洋の知的伝統に影響を与えました。

エチオピアのオロモ文化センターにて。右は、マルザゴラさんの出身校であるロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS/ソアス)での研究仲間、アエレ・ケベデ(Ayele Kebede)さん
世界文学という見方
――なるほど、知的な営みを介してさまざまな地域がダイナミックにつながっていきますね。ところで、あなたは大学で「世界文学」を教えておられます。この分野の概要についてもお話を伺いたいです。これまでの文学史との違いはどこにあるのでしょうか?
世界文学は人文学の「トランスナショナルな転回」のなかから生まれました。この学問分野の基本的な前提となっているのは、近現代の文学がかなりトランスナショナルな側面をもっていること、そして一つの言語の国民の文学を研究するという旧来のアプローチは、このトランスナショナルな動きを説明するには不十分だということです。一部の文学ジャンルは世界中に広まっています(例えば小説です)。作家はよく外国の伝統に影響を受けてきました。作家の多くは昔も今も複数の言語を使いますし、出身地以外へと旅に出かけてきました。そして遠く離れた場所について語る文学作品は数多くあります。言うまでもなく、いろいろな言語間の翻訳の歴史があるし、国際的な印刷機構、国際的な文学フェスティバル、そして国際的文学賞まである!
また、世界文学は、国民国家をもっと多元的に考え直すことも可能にします。同じ国民国家の内部でも、違う方言、状況に応じて変わる話し方、違う言語と常に出会っていますよね。
しかし、世界文学の歴史は、世界を平等に捉える文学の歴史というだけでなく、強力な文学の伝統と周縁的な文学の伝統の、不均衡な力関係の歴史でもあります。世界のそれぞれの地理には、それぞれの「中央」と「周辺」があります。私にとって、世界文学は、いかに文学がローカルおよびグローバルな権力形式と常に関わっているのか研究することを可能にする分野です。
――最後に、今後の活動について教えて下さい。出版の予定もあるとか。
今、いろいろな出版プロジェクトの仕事をしています。少し多すぎるかもしれないほどです!例えばケベデ・マイケルの思想の新たな側面についての一章を執筆しています。彼が奴隷制の歴史を理論化した方法についてです。また、世界文学とインテレクチュアル・ヒストリーにおける口承の役割についての一巻を共同編集中です。文学研究とインテレクチュアル・ヒストリーは書かれたものだけを基にした研究になりがちなのですが、口承の詩、歌、民話も世界中において、重要であり、近代的な、そして美学的に複雑な創造的表現の形です。
そしてさらに重要なのは、初の単著を完成させること。仮のタイトルは『独立の真意: 植民地主義世界におけるエチオピアの知識人たち(The True Meaning of Independence: Ethiopian Intellectuals in a Colonial World)』です。将来的には、エチオピアと日本の関係史の新しい側面の探求にも、もっと時間を割きたいと思っています。
もしこうした研究プロジェクトでのコラボレーションに関心のある方がおられたら、連絡お待ちしています!
――コラボレーションに興味のある方がおられたら、ぜひ。ということで、どうもありがとうございました。

アディスアベバのエチオピア作家協会にて
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