三島由紀夫那麼酷、那麼聰明、那麼肌肉,為什麼要自殺?



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1970年11月25日,震驚世界的小說家三島由紀夫自殺,至今已過去半個多世紀。

三島由紀夫年輕時,既不酷也不肌肉。儘管表面上他很聰明,但他卻是個所謂的文弱青年(事實上,他的綽號是「青葫蘆」)。

他的前半生有些作品很精彩,像是《假面的告白》。其中,《海聲》(1954)是一部健康又平易近人的作品,多次被拍成電影。

然而,他的後期作品《愛國者》(1961)和《肥沃的大海》(1965-1970)卻超越了常人的理解範圍,並暗示了導致自殺事件的事情。

然而,如果認為三島由紀夫的自殺劇具有誇張的意義並神化,那就大錯特錯了。

三島由紀夫只是犯了一個可怕的誤會,結果滑稽地死了。
晚年的文弱青年對「武士道」 、 「天皇」、「日本傳統文化」產生了自私和虛假的宏大幻想,並透過健身、拳擊而脫離現實。

因此,不必要地高估「三島由紀夫」將會再次導致荒謬的局面。

自殺當天的那句「抱怨」:「…我們認為,戰後的日本在經濟繁榮的麻痺下,忘記了國家的根本,失去了民族精神,不改正就跑到了最後」 …我們夢想真正的日本、真正的日本人和真正的武士的精神現在只在自衛隊中得以保留。我認為你永遠不應該被愚弄...

《Ki》全文請參閱下文。

三島由紀夫《木》
(注) 1. 上記の三島由紀夫の「檄」の本文は、主として 『多摩湖畔日誌』 というサイトに掲載してある「檄文」のコピーの写真により、その他『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)(新潮社、昭和51年2月25日発行)所収の本文を参照して記述しました。 → 三島由紀夫「檄」 (「檄文」のコピーの写真) 2. 文中の漢字は、コピーの写真に一部常用漢字(当用漢字)体になっているものも、 ) なお、「凛烈」は「凛冽」、「ねじ曲つた」は「ねぢ曲つた」、「治安出動は不用となつた」は「治安出動は不要となつた」、「堺」は「界(又は「境」)」とあるべきところかと思われますが、原文のままにしてあります。(前掲の『全集』には、「ねじ曲つた」だけが「ねぢ曲つた」となっています。 2011年8月23日確認。 ) * 全集記載の「檄」と、ここに掲げた「檄」との本文の違いは、「ねじ曲つた」が全集には「ねぢ曲つた」となっている点だけです。 3. 『全集』の巻末にある「校訂」には、 「 銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十一日といふ日は」の「昭和四十五年」について、<「昭和四十四年」の誤りと思われるが、原文のままとした>とあります。 4. この「檄」について、『全集』巻末の「解題」に、「「檄」と「辭世」は、昭和四十五年十一月二十五日、午後零時十五分、自衛隊市ヶ谷駐屯地、東部方面総監室にての自決に際して遺されたものである」とあります。 5. 著作権について:檄文の性質上、資料として掲載することは差し支えないものと判断して、掲載させていただきました。 6. 三島由紀夫は、昭和45年(1970)11月25日、楯の会隊長として隊員4名とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本庁)に東部方面総監を訪ね、その部屋で懇談中、突然日本刀を持って総監を監禁、部屋の前のバルコニーで演説してクーデターを促しましたが、自衛隊員は決起せず、約1時間後に割腹自殺を遂げました。享年45。 (フリー百科事典『ウィキペディア』による。) 7. 〇三島由紀夫(みしま・ゆきお)=小説家・劇作家。本名、平岡公威 (きみたけ) 。東京生れ。東大卒。20世紀西欧文学の文体と方法に学んで、秩序と神話を志向、純粋日本原理を模索して自裁。作「仮面の告白」「金閣寺」「豊饒の海」など。(1925-1970) (『広辞苑』第6版による) 〇三島由紀夫(みしま・ゆきお)=(1925-1970)小説家・劇作家。東京生まれ。本名、平岡公威 (きみたけ) 。東大卒。絶対者の希求、美的死生観、様式美への憧憬を昇華させて唯美的世界を構築。その傾向はしだいにナショナリズム的色彩を強めた。割腹自殺。著「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鹿鳴館」「豊饒の海」など。                         (『広辞林』第2版による) 8. 三島由紀夫の死をどうとらえるか。それを肯定的にとらえるにせよ、否定的にとらえるにせよ、いずれにしても、自分なりに検証しておく必要があるだろうと思い、資料の一つとして掲載しました。 9. 山中湖畔にある 『三島由紀夫文学館』 のホームページがあります。 10. フリー百科事典『ウィキペディア』に 「 三島由紀夫 」 の項 があり、 三島由紀夫についての 詳しい解説が出ています。 11. 三島由紀夫に、「私が組織した「楯の會」は、會員が百名にも滿たない、そして武器も持たない、世界で一等小さな軍隊である。毎年補充しながら、百名でとどめておくつもりであるから、私はまづ百人隊長以上に出世することはあるまい」という書き出しの、「楯の會」結成一周年記念パンフレット(昭和44年11月)に掲載された「「楯の會」のこと」という文章があります。 これを「檄」を読むときの参考に、資料の一つに入れたいと思いましたが、考えてみると、著作権がまだ切れていないということがあり、結局、資料に加えることを断念しました。関心のある方は、『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10) (新潮社、昭和51年 2月25日発行) などでご覧ください。 なお、三島由紀夫が 楯の会会員にあてた遺書「楯の会会員たりし諸君へ」 という文章がネット上に出ていて、これを読むことができます。 12. 『四国の山なみ』というサイトに、三島由紀夫が 自衛隊市ヶ谷駐屯地で行った演説 「三島由紀夫演説文」 が掲載されています。 13. 読売新聞文化欄、2011年(平成23年)6月6日の「今に問う言葉」で、文芸評論家の富岡幸一郎氏は、三島由紀夫の『太陽と鉄』(1968年)から「『武』とは花と散ることであり、『文』とは不朽の花を育てることだ」という言葉を引いて、次のように書いておられます。 昭和45年11月25日、三島由紀夫は市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部(当時)で千人の隊員たちを前に演説後、割腹自殺した。自衛隊がアメリカの傭兵 (ようへい) である現状から脱却し、名誉ある国軍となるために憲法改正に立ちあがれ、との主張であった。(中略) 死の数年前に著した『太陽と鉄』は、作家の思想を凝縮した文学的遺書であり、戦後のあらゆる価 値の転倒した時代にこそ、「文武両道」という古い徳目が復活すべきだと説いている。「武」と「文」という相反する緊張感のなかに、日本人の伝統感覚を追求しようとした三島。「武」が欠落すれば「文」は弛緩 (しかん) し腐敗する。その衝撃的な死からすでに40年。日本は何も変 わってはいない。 14. 『うずまく研究室』というサイトに、『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社) (2000年11月~2006年4月) の各巻目次が出ています。 この全集では、「檄」は第36巻評論11に入っています。 → 『うずまく研究室』 → 『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)各巻目次 15. 篠原裕著『三島由紀夫かく語りき』(展転社、2017年5月刊)が出ています。 (本の紹介文「三島氏は我らに何を遺していったのか? 膨大精緻なる創作と言動の一端に、元楯の会一期生が肉迫する!」)

学生時代の三島由紀夫 虚弱体質で顔は青白く、あだ名は「青びょうたん」.

小説家として本格デビューした頃の三島由紀夫 1948年

何度も映画化された小説「潮騒」 写真は第一作目 1954年 主演 久保明 青山京子

青年期のコンプレックスから、肉体改造に取り組む

「武士道ごっこ」に傾倒し、切腹を自演する

小説「憂国」を、自ら主演・監督し映画化する 写真は切腹シーン

「楯の会」を結成 「兵隊ごっこ」を始める 1968年

1970.年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室を楯の会4人と共に占拠、バルコニーで演説し自衛隊員にクーデターの決起を促す三島由紀夫氏。  
結局、同調者は現れず計画は失敗、最後に「天皇陛下万歳」と数回叫んだあと、屋内に入り割腹自殺する(享年45歳)。

1970年11月25日 事件当日の新聞夕刊

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雖然他很聰明,有著無與倫比的敏感度,但他很可能是唯一一個患有愚蠢情結並愚蠢地死去的人。我也討厭美化事物。另外,這似乎沒有必要,但我經常批評那些渴望健美的人。

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憂鬱之王Zephyr(原Ades)的頭像

從側邊對不起。

我會說這是愚蠢的,但我比只相信三件事的日本人活得聰明。

誠然,三島由紀夫的死是愚蠢的,但在21世紀,沒有人因為更擔心日本的未來並認真地試圖改變它而自殺。

我覺得這有點悲傷。

這是因為三島由紀夫的死是有意義的死,但大多數日本人的死是因為他們活得很長,只為自己而活。

如果說三島由紀夫的死是愚蠢的,那麼,一般日本人的死就更愚蠢了。

三島由紀夫試圖將日本人民從適用於所有日本人民的文官控制的洗腦中解放出來。

然而,大多數日本人比三島由紀夫還要愚蠢,他們把試圖打破洗腦的三島由紀夫逼入絕境,強迫他切腹自殺。

如今,比三島由紀夫更聰明的日本人屈指可數。

三島由紀夫那麼酷、那麼聰明、那麼肌肉,為什麼要自殺?
1970年11月25日,震驚世界的小說家三島由紀夫自殺,至今已過去半個多世紀。

三島由紀夫年輕時,既不酷也不肌肉。儘管表面上他很聰明,但他卻是個所謂的文弱青年(事實上,他的綽號是「青葫蘆」)。

他的前半生有些作品很精彩,像是《假面的告白》。其中,《海聲》(1954)是一部健康又平易近人的作品,多次被拍成電影。

然而,他的後期作品《愛國者》(1961)和《肥沃的大海》(1965-1970)卻超越了常人的理解範圍,並暗示了導致自殺事件的事情。

然而,如果認為三島由紀夫的自殺劇具有誇張的意義並神化,那就大錯特錯了。

三島由紀夫只是犯了一個可怕的誤會,結果滑稽地死了。
晚年的文弱青年對「武士道」 、 「天皇」、「日本傳統文化」產生了自私和虛假的宏大幻想,並透過健身、拳擊而脫離現實。

因此,不必要地高估「三島由紀夫」將會再次導致荒謬的局面。

自殺當天的那句「抱怨」:「…我們認為,戰後的日本在經濟繁榮的麻痺下,忘記了國家的根本,失去了民族精神,不改正就跑到了最後」 …我們夢想真正的日本、真正的日本人和真正的武士的精神現在只在自衛隊中得以保留。我認為你永遠不應該被愚弄...

《Ki》全文請參閱下文。

三島由紀夫《木》
(注) 1. 上記の三島由紀夫の「檄」の本文は、主として 『多摩湖畔日誌』 というサイトに掲載してある「檄文」のコピーの写真により、その他『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)(新潮社、昭和51年2月25日発行)所収の本文を参照して記述しました。 → 三島由紀夫「檄」 (「檄文」のコピーの写真) 2. 文中の漢字は、コピーの写真に一部常用漢字(当用漢字)体になっているものも、 ) なお、「凛烈」は「凛冽」、「ねじ曲つた」は「ねぢ曲つた」、「治安出動は不用となつた」は「治安出動は不要となつた」、「堺」は「界(又は「境」)」とあるべきところかと思われますが、原文のままにしてあります。(前掲の『全集』には、「ねじ曲つた」だけが「ねぢ曲つた」となっています。 2011年8月23日確認。 ) * 全集記載の「檄」と、ここに掲げた「檄」との本文の違いは、「ねじ曲つた」が全集には「ねぢ曲つた」となっている点だけです。 3. 『全集』の巻末にある「校訂」には、 「 銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十一日といふ日は」の「昭和四十五年」について、<「昭和四十四年」の誤りと思われるが、原文のままとした>とあります。 4. この「檄」について、『全集』巻末の「解題」に、「「檄」と「辭世」は、昭和四十五年十一月二十五日、午後零時十五分、自衛隊市ヶ谷駐屯地、東部方面総監室にての自決に際して遺されたものである」とあります。 5. 著作権について:檄文の性質上、資料として掲載することは差し支えないものと判断して、掲載させていただきました。 6. 三島由紀夫は、昭和45年(1970)11月25日、楯の会隊長として隊員4名とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本庁)に東部方面総監を訪ね、その部屋で懇談中、突然日本刀を持って総監を監禁、部屋の前のバルコニーで演説してクーデターを促しましたが、自衛隊員は決起せず、約1時間後に割腹自殺を遂げました。享年45。 (フリー百科事典『ウィキペディア』による。) 7. 〇三島由紀夫(みしま・ゆきお)=小説家・劇作家。本名、平岡公威 (きみたけ) 。東京生れ。東大卒。20世紀西欧文学の文体と方法に学んで、秩序と神話を志向、純粋日本原理を模索して自裁。作「仮面の告白」「金閣寺」「豊饒の海」など。(1925-1970) (『広辞苑』第6版による) 〇三島由紀夫(みしま・ゆきお)=(1925-1970)小説家・劇作家。東京生まれ。本名、平岡公威 (きみたけ) 。東大卒。絶対者の希求、美的死生観、様式美への憧憬を昇華させて唯美的世界を構築。その傾向はしだいにナショナリズム的色彩を強めた。割腹自殺。著「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鹿鳴館」「豊饒の海」など。                         (『広辞林』第2版による) 8. 三島由紀夫の死をどうとらえるか。それを肯定的にとらえるにせよ、否定的にとらえるにせよ、いずれにしても、自分なりに検証しておく必要があるだろうと思い、資料の一つとして掲載しました。 9. 山中湖畔にある 『三島由紀夫文学館』 のホームページがあります。 10. フリー百科事典『ウィキペディア』に 「 三島由紀夫 」 の項 があり、 三島由紀夫についての 詳しい解説が出ています。 11. 三島由紀夫に、「私が組織した「楯の會」は、會員が百名にも滿たない、そして武器も持たない、世界で一等小さな軍隊である。毎年補充しながら、百名でとどめておくつもりであるから、私はまづ百人隊長以上に出世することはあるまい」という書き出しの、「楯の會」結成一周年記念パンフレット(昭和44年11月)に掲載された「「楯の會」のこと」という文章があります。 これを「檄」を読むときの参考に、資料の一つに入れたいと思いましたが、考えてみると、著作権がまだ切れていないということがあり、結局、資料に加えることを断念しました。関心のある方は、『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10) (新潮社、昭和51年 2月25日発行) などでご覧ください。 なお、三島由紀夫が 楯の会会員にあてた遺書「楯の会会員たりし諸君へ」 という文章がネット上に出ていて、これを読むことができます。 12. 『四国の山なみ』というサイトに、三島由紀夫が 自衛隊市ヶ谷駐屯地で行った演説 「三島由紀夫演説文」 が掲載されています。 13. 読売新聞文化欄、2011年(平成23年)6月6日の「今に問う言葉」で、文芸評論家の富岡幸一郎氏は、三島由紀夫の『太陽と鉄』(1968年)から「『武』とは花と散ることであり、『文』とは不朽の花を育てることだ」という言葉を引いて、次のように書いておられます。 昭和45年11月25日、三島由紀夫は市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部(当時)で千人の隊員たちを前に演説後、割腹自殺した。自衛隊がアメリカの傭兵 (ようへい) である現状から脱却し、名誉ある国軍となるために憲法改正に立ちあがれ、との主張であった。(中略) 死の数年前に著した『太陽と鉄』は、作家の思想を凝縮した文学的遺書であり、戦後のあらゆる価 値の転倒した時代にこそ、「文武両道」という古い徳目が復活すべきだと説いている。「武」と「文」という相反する緊張感のなかに、日本人の伝統感覚を追求しようとした三島。「武」が欠落すれば「文」は弛緩 (しかん) し腐敗する。その衝撃的な死からすでに40年。日本は何も変 わってはいない。 14. 『うずまく研究室』というサイトに、『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社) (2000年11月~2006年4月) の各巻目次が出ています。 この全集では、「檄」は第36巻評論11に入っています。 → 『うずまく研究室』 → 『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)各巻目次 15. 篠原裕著『三島由紀夫かく語りき』(展転社、2017年5月刊)が出ています。 (本の紹介文「三島氏は我らに何を遺していったのか? 膨大精緻なる創作と言動の一端に、元楯の会一期生が肉迫する!」)
http://sybrma.sakura.ne.jp/348mishima.gekibun.html
学生時代の三島由紀夫 虚弱体質で顔は青白く、あだ名は「青びょうたん」.


小説家として本格デビューした頃の三島由紀夫 1948年


何度も映画化された小説「潮騒」 写真は第一作目 1954年 主演 久保明 青山京子



青年期のコンプレックスから、肉体改造に取り組む


「武士道ごっこ」に傾倒し、切腹を自演する


小説「憂国」を、自ら主演・監督し映画化する 写真は切腹シーン


「楯の会」を結成 「兵隊ごっこ」を始める 1968年


1970.年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室を楯の会4人と共に占拠、バルコニーで演説し自衛隊員にクーデターの決起を促す三島由紀夫氏。  
結局、同調者は現れず計画は失敗、最後に「天皇陛下万歳」と数回叫んだあと、屋内に入り割腹自殺する(享年45歳)。



1970年11月25日 事件当日の新聞夕刊


雖然他很聰明,有著無與倫比的敏感度,但他很可能是唯一一個患有愚蠢情結並愚蠢地死去的人。我也討厭美化事物。另外,這似乎沒有必要,但我經常批評那些渴望健美的人。

從側邊對不起。

我會說這是愚蠢的,但我比只相信三件事的日本人活得聰明。

誠然,三島由紀夫的死是愚蠢的,但在21世紀,沒有人因為更擔心日本的未來並認真地試圖改變它而自殺。

我覺得這有點悲傷。

這是因為三島由紀夫的死是有意義的死,但大多數日本人的死是因為他們活得很長,只為自己而活。

如果說三島由紀夫的死是愚蠢的,那麼,一般日本人的死就更愚蠢了。

三島由紀夫試圖將日本人民從適用於所有日本人民的文官控制的洗腦中解放出來。

然而,大多數日本人比三島由紀夫還要愚蠢,他們把試圖打破洗腦的三島由紀夫逼入絕境,強迫他切腹自殺。

如今,比三島由紀夫更聰明的日本人屈指可數。
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日本再生投資株式会社(非上場)の代表取締役社長 (2010–現在)2年前

小説家三島由紀夫の世界中を驚かせた割腹自決事件(1970年11月25日)からもう半世紀以上たちます。

若い頃の三島由紀夫は、決してかっこよくもないし筋肉隆々でもありませんでした。頭は良かったようですが、いわゆるひ弱な文学青年でした(実際「青びょうたん」とあだ名されています)。

前半生の作品には「仮面の告白」など素晴らしいものがあります。なかでも「潮騒」(1954年)は何度も映画化された健全で親しみやすい作品です。

しかし、晩年の作品「憂国」(1961年)や「豊饒の海」(1965-1970年)は、常人の理解の及ばないところあり、あの割腹自決事件につながるものを暗示しています(その意味で高く評価する人もいますが)。

しかし三島由紀夫の自決劇に大仰な意義を見出して神格化するのは大間違いです。

三島由紀夫はひどく勘違いし、それによって滑稽な死に方をしただけです。
ひ弱な文学青年が、晩年、「武士道」や「天皇」「日本の伝統文化」に、自分勝手な誤った誇大妄想を膨らませ、ボディビルやボクシング、武士道ごっこ・軍隊ごっこに走り、現実から遊離していった結果なのです。

したがって「三島由紀夫」をいたずらに過大評価するのは、とんでもなく滑稽な事態を再び招くことにつながります。

自決当日のあの「檄」《・・・われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、・・・われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢見た。・・・》には、決してたぶらかされてはいけないと思います。

なお「檄」の全文は以下を参照してください。

三島由紀夫「檄」
(注) 1. 上記の三島由紀夫の「檄」の本文は、主として 『多摩湖畔日誌』 というサイトに掲載してある「檄文」のコピーの写真により、その他『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)(新潮社、昭和51年2月25日発行)所収の本文を参照して記述しました。 → 三島由紀夫「檄」 (「檄文」のコピーの写真) 2. 文中の漢字は、コピーの写真に一部常用漢字(当用漢字)体になっているものも、 ) なお、「凛烈」は「凛冽」、「ねじ曲つた」は「ねぢ曲つた」、「治安出動は不用となつた」は「治安出動は不要となつた」、「堺」は「界(又は「境」)」とあるべきところかと思われますが、原文のままにしてあります。(前掲の『全集』には、「ねじ曲つた」だけが「ねぢ曲つた」となっています。 2011年8月23日確認。 ) * 全集記載の「檄」と、ここに掲げた「檄」との本文の違いは、「ねじ曲つた」が全集には「ねぢ曲つた」となっている点だけです。 3. 『全集』の巻末にある「校訂」には、 「 銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十一日といふ日は」の「昭和四十五年」について、<「昭和四十四年」の誤りと思われるが、原文のままとした>とあります。 4. この「檄」について、『全集』巻末の「解題」に、「「檄」と「辭世」は、昭和四十五年十一月二十五日、午後零時十五分、自衛隊市ヶ谷駐屯地、東部方面総監室にての自決に際して遺されたものである」とあります。 5. 著作権について:檄文の性質上、資料として掲載することは差し支えないものと判断して、掲載させていただきました。 6. 三島由紀夫は、昭和45年(1970)11月25日、楯の会隊長として隊員4名とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本庁)に東部方面総監を訪ね、その部屋で懇談中、突然日本刀を持って総監を監禁、部屋の前のバルコニーで演説してクーデターを促しましたが、自衛隊員は決起せず、約1時間後に割腹自殺を遂げました。享年45。 (フリー百科事典『ウィキペディア』による。) 7. 〇三島由紀夫(みしま・ゆきお)=小説家・劇作家。本名、平岡公威 (きみたけ) 。東京生れ。東大卒。20世紀西欧文学の文体と方法に学んで、秩序と神話を志向、純粋日本原理を模索して自裁。作「仮面の告白」「金閣寺」「豊饒の海」など。(1925-1970) (『広辞苑』第6版による) 〇三島由紀夫(みしま・ゆきお)=(1925-1970)小説家・劇作家。東京生まれ。本名、平岡公威 (きみたけ) 。東大卒。絶対者の希求、美的死生観、様式美への憧憬を昇華させて唯美的世界を構築。その傾向はしだいにナショナリズム的色彩を強めた。割腹自殺。著「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鹿鳴館」「豊饒の海」など。                         (『広辞林』第2版による) 8. 三島由紀夫の死をどうとらえるか。それを肯定的にとらえるにせよ、否定的にとらえるにせよ、いずれにしても、自分なりに検証しておく必要があるだろうと思い、資料の一つとして掲載しました。 9. 山中湖畔にある 『三島由紀夫文学館』 のホームページがあります。 10. フリー百科事典『ウィキペディア』に 「 三島由紀夫 」 の項 があり、 三島由紀夫についての 詳しい解説が出ています。 11. 三島由紀夫に、「私が組織した「楯の會」は、會員が百名にも滿たない、そして武器も持たない、世界で一等小さな軍隊である。毎年補充しながら、百名でとどめておくつもりであるから、私はまづ百人隊長以上に出世することはあるまい」という書き出しの、「楯の會」結成一周年記念パンフレット(昭和44年11月)に掲載された「「楯の會」のこと」という文章があります。 これを「檄」を読むときの参考に、資料の一つに入れたいと思いましたが、考えてみると、著作権がまだ切れていないということがあり、結局、資料に加えることを断念しました。関心のある方は、『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10) (新潮社、昭和51年 2月25日発行) などでご覧ください。 なお、三島由紀夫が 楯の会会員にあてた遺書「楯の会会員たりし諸君へ」 という文章がネット上に出ていて、これを読むことができます。 12. 『四国の山なみ』というサイトに、三島由紀夫が 自衛隊市ヶ谷駐屯地で行った演説 「三島由紀夫演説文」 が掲載されています。 13. 読売新聞文化欄、2011年(平成23年)6月6日の「今に問う言葉」で、文芸評論家の富岡幸一郎氏は、三島由紀夫の『太陽と鉄』(1968年)から「『武』とは花と散ることであり、『文』とは不朽の花を育てることだ」という言葉を引いて、次のように書いておられます。 昭和45年11月25日、三島由紀夫は市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部(当時)で千人の隊員たちを前に演説後、割腹自殺した。自衛隊がアメリカの傭兵 (ようへい) である現状から脱却し、名誉ある国軍となるために憲法改正に立ちあがれ、との主張であった。(中略) 死の数年前に著した『太陽と鉄』は、作家の思想を凝縮した文学的遺書であり、戦後のあらゆる価 値の転倒した時代にこそ、「文武両道」という古い徳目が復活すべきだと説いている。「武」と「文」という相反する緊張感のなかに、日本人の伝統感覚を追求しようとした三島。「武」が欠落すれば「文」は弛緩 (しかん) し腐敗する。その衝撃的な死からすでに40年。日本は何も変 わってはいない。 14. 『うずまく研究室』というサイトに、『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社) (2000年11月~2006年4月) の各巻目次が出ています。 この全集では、「檄」は第36巻評論11に入っています。 → 『うずまく研究室』 → 『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)各巻目次 15. 篠原裕著『三島由紀夫かく語りき』(展転社、2017年5月刊)が出ています。 (本の紹介文「三島氏は我らに何を遺していったのか? 膨大精緻なる創作と言動の一端に、元楯の会一期生が肉迫する!」)
http://sybrma.sakura.ne.jp/348mishima.gekibun.html

学生時代の三島由紀夫 虚弱体質で顔は青白く、あだ名は「青びょうたん」.

小説家として本格デビューした頃の三島由紀夫 1948年

何度も映画化された小説「潮騒」 写真は第一作目 1954年 主演 久保明 青山京子

青年期のコンプレックスから、肉体改造に取り組む

「武士道ごっこ」に傾倒し、切腹を自演する

小説「憂国」を、自ら主演・監督し映画化する 写真は切腹シーン

「楯の会」を結成 「兵隊ごっこ」を始める 1968年

1970.年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室を楯の会4人と共に占拠、バルコニーで演説し自衛隊員にクーデターの決起を促す三島由紀夫氏。  
結局、同調者は現れず計画は失敗、最後に「天皇陛下万歳」と数回叫んだあと、屋内に入り割腹自殺する(享年45歳)。

1970年11月25日 事件当日の新聞夕刊

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頭が良く感性の鋭さは他に類を見ないほどなのに下らないコンプレックスに苛まれ愚かな死に方したのはこの人ぐらいでしょう。私も美化するのは大嫌いです。また余計なお節介ですがボディビルに憧れる人をよく窘めます。

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横から失礼します。

愚かと言えば其れ迄だけど三だけ主義の日本人より賢く生きました。

確かに三島由紀夫の死は愚かだけどこの人以上に日本の未来を憂い本気で日本を変えようとして自殺した人は21世紀にはもういません。

それって少し悲しいと思います。

何故なら、三島由紀夫の死は意味のある死だけど大半の日本人の死は唯長生きして自分の為だけに命を使っているからです。

三島由紀夫が愚かな死なら一般的な日本人の死はもっと愚かだと分かります。

三島由紀夫は全日本人に施されたシビリアンコントロールという洗脳から日本人を解放しようとしました。

しかし、殆どの日本人は三島由紀夫以上に愚かなので洗脳を解こうとした三島由紀夫を追い詰め切腹に追い込みました。

三島由紀夫よりも賢い日本人なんて今では数人しかいません。

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