我曾經也是個死人。」曾被蘇聯士兵提供性服務的黑川村婦女在鏡頭前講述了她們的經歷。

「我曾經也是個死人。」曾被蘇聯士兵提供性服務的黑川村婦女在鏡頭前講述了她們的經歷。 (影片《黑川村婦女》上映)

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「我曾經也是個死人。」曾被蘇聯士兵提供性服務的黑川村婦女在鏡頭前講述了她們的經歷。 (影片《黑川村婦女》上映)
「我曾經也是個死人。」曾被蘇聯士兵提供性服務的黑川村婦女在鏡頭前講述了她們的經歷。 (影片《黑川村婦女》上映)

戰後長期以來被視為禁忌的滿洲「性娛樂」事件正在接受調查。日本戰敗後不久,岐阜縣黑川村(原黑川村)的一群移民為了生存,將村裡的未婚婦女提供給蘇聯軍官。

近年來,一部名為《黑川的女人們》的紀錄片上映,該片透過相關女性的證詞揭露了黑川事件。導演松原文惠究竟想要表達什麼?

“我死過一次。”

1942年,作為一項國家政策的一部分,岐阜縣黑川村約600名村民被遷往中國東北的吉林省(原稱滿洲)。在「五族同盟」、「君福之地」等偽滿洲國成立口號的掩護下,這其實是日本帝國主義的侵略和統治行為。

這個定居點名不副實,許多定居者侵占了中國人耕種的土地和房屋。日本戰敗後,原本依靠的關東軍放棄了對平民的保護,南下逃亡,留下手無寸鐵的定居者,遭受當地居民和蘇軍的搶劫和暴力。

由於村民被逼到絕境,集體自殺現象屢見不鮮,黑川文村的村民決定以未婚婦女作為性服務來求生。村莊的頭目們聚集了十五名年滿十八歲的未婚婦女,懇求她們:“我們不能向那些參軍士兵的妻子們求助,所以我們請求你們犧牲自己的女兒。”

在防空洞裡,女孩們被一張膠合板隔開,她們的父母和兄弟姊妹也住在那裡。女孩們躺在地上,士兵們用槍指著她們,她們哭著互相鼓勵:“媽媽,媽媽,救救我”,“耐心點,耐心點”。

戰後一年,黑川先鋒隊的451名成員返回家鄉。但從那時起,此事被嚴令封鎖,連村裡人也被要求保持沉默。而那些為拯救村莊而犧牲的少女們,等待她們的卻是無情的誹謗。

她因為去接受治療而遭到村民的嘲笑,被迫離開村莊。

“我死過一次。”

第一個發言的是佐藤春江(1925 年出生),她搬到了戰後開發區日向高原,並向透過包辦婚姻認識的男子坦白了一切,然後嫁給了他。

導演松原文江的鏡頭細緻地記錄了打破長期禁忌、開始發聲的女性的證詞,同時也細緻地描繪了黑川村遺屬協會(由黑川先遣隊回國人員組成的戰後組織,以下簡稱遺屬協會)會長藤井博之的活動。藤井博之畢生致力於向女性受害者道歉,為她們父母那一代所犯下的「事件」道歉,並將真相記錄在紀念碑上。

在擔任新聞台製片期間,導演松原曾以記者身份隨主播古立一郎前往德國,並憑藉專題報道《魏瑪憲法的教訓》榮獲電視銀河獎大獎。該報告透過將自民黨憲法修正案草案中的「緊急狀態條款」與魏瑪憲法中「國家緊急狀態權力」直接導致納粹《授權法》的歷史事實進行對比,揭示了該條款的危險性。他堪稱將歷史教訓轉化為視覺影像的大師。

我們採訪了這位導演,他的第二部長片是繼《哈馬的唐》之後的作品。

「少女紀念碑」清楚地表明了受害者的出身。

——先前已有許多關於黑川的電視節目和書籍,但這部電影的獨特之處在於,它描繪了女性重拾尊嚴、走向靈魂重生的過程。是什麼促使您採訪他呢?

「2018年8月,我讀到一篇關於佐藤春惠在岐阜市民會館講述她經歷的文章。當時她已經93歲高齡,我被她一張表情嚴肅、嘴唇緊抿的照片深深吸引。我想採訪她,了解她演講時的想法。”

關於拍攝方面,我想拍攝她在公共場合與許多人交談的場景,而不是在鏡頭前進行一對一採訪,所以我向喪親家屬協會會長藤井博之詢問,他告訴我春江目前沒有發表演講的計劃。

然而,後來得知少女紀念碑碑文揭幕儀式將於11月舉行。由於我還有案頭工作要做,便請一位同事去報道此事,儀式於11月18日晚間新聞播出。 (松原主任,以下簡稱)

碑文是影片建構的另一個關鍵要素。 1982年,在白川町的一座神社裡豎立了一座“少女紀念碑”,以紀念黑川先行者,但碑文上沒有任何關於這些少女的說明。過去,一些罹難者家屬協會甚至會在未經原作者許可的情況下,從滿洲經歷的回憶錄中刪除相關段落。

然而,後來成為該協會第四任會長的藤井會長帶頭記錄受害者的來歷,並決定將他們的故事以文字形式記錄下來,於是他起草了一份碑文,並將其豎立在少女紀念碑旁。

“為了換取少女的生命,先鋒隊被獻祭一名年輕女孩作為人祭,以阻止該組織自殺。”

「偽滿洲國實際上是日本武裝入侵的結果,這些定居點是被武力強行佔領的,而且直到被佔領之前,那裡的人們都還與日本保持著和諧的關係。”

「這些婦女想要逃跑,但當整個群體的生死都受到威脅時,她們無法拒絕,只好被迫輪流取悅蘇聯軍官。即使回到日本後,恐懼仍然深深地烙印在她們的腦海中,她們還遭受了誹謗……戰後很長一段時間,這件事都無人提及。”

碑文提及了先遣隊男性對婦女的侵略行為應承擔的責任,以及日本對滿洲侵略的責任。罹難者家屬協會的成員多次討論過碑文,認為它應該永遠保存下來。

「我認為碑文寫得非常深刻。它既表達了獻祭女性的父母一代的責任,也表達了對被獻祭女性的同情。碑文於2018年揭幕,同年,近畿財務局職員赤木俊夫在被上級命令偽造公文後自殺身亡。”

在森友學園和加計學園醜聞中,財務省趁著事件記憶猶新之際,草率地篡改了一兩年前的審批文件,然後將責任推卸給下級部門。最終,無人承擔責任。掌權者可以為所欲為,篡改歷史,使自己的罪名更加不利。

與之形成鮮明對比的是,這塊碑文是由一般民眾所寫,他們充分認識到祖先的罪。身為一名報道人員,這件事讓我感到如釋重負。 」(導演松原)

“從今以後,我的職責就是坦誠說話,為後代留下遺產。”

藤井會長的活動也可以被視為對當前席捲日本的歷史修正主義浪潮的強大反擊。藤井會長出生於1952年,即戰後,自然與「伊索德事件」沒有任何關聯。

然而,除了創作碑文外,他還作為遇難者家屬協會的代表會見了受害者安江玲子,並就她父母犯下的罪行直接向她道歉。

「藤井先生常說,『碑文的完成並非終點。』我這麼說或許有些冒昧,但藤井先生是自民黨黨員。我還問過他,『您是否曾因持有這種受虐式的歷史觀而受到攻擊?』但對他來說,這似乎是一種非常自然的做法。」

假裝某些事情沒發生過是錯誤的,我們應該誠實地面對歷史。我覺得這部電影也和(前作)《哈馬的唐》有關聯,但我感受到了主角能夠克服來自社區的壓力的那種力量。

藤木幸雄,人稱“橫濱之王”,是神奈川縣任職時間最長的自民黨成員,曾負責橫濱港口事務,是一位與中央政界關係密切的保守派重量級人物。然而,他完全反對時任首相菅義偉力推的賭場項目,最後否決了該項目。

「港口賭博不應被允許」的信念促使民眾與持相反意見的公民團結起來,最終挫敗了最高權力機構奉行的一項國家政策。或許這兩部影片所展現的,正是不受黨派政治束縛的誠實的人們所取得的成就。

那麼,佐藤春惠的舉動產生了很大的影響嗎?她的哥哥也告訴她,“在滿洲被玷污過的女人永遠不可能再當妻子了”,於是她搬到了晝野,從零開始經營奶牛場。

他們在牛棚裡餵牛的場景也展現了他們所經歷的艱辛。當他們去世時,菊海康惠握著春惠的手說:“你在滿洲和日本都經歷了很多苦難”,這讓我感受到了兩人之間深厚的感情。

「我想我和藤井都被春惠的舉動深深打動了。春惠去世後,我感覺自己的生活方式受到了質疑。親眼目睹她離世的那一刻,讓我更加強烈地感到,我必須把她的故事傳承下去。”

春惠小姐只是謹慎地陳述事實。她在日野嫁的那個男人也是從滿洲回來的。她把一切都告訴了他,而且顯然還給他的父母看過他治癒梅毒的證明。

長期以來一直對自己在滿洲的經歷秘而不宣的水野大津,在鏡頭前說道:「從今以後,我有責任坦誠相告,為後人留下寶貴的記憶。」影片中還有一個令人印象深刻的場景:有人問松原是否同意他的名字出現在影片中,他欣然同意。

「水野多津過去曾接受過許多媒體的採訪。她一度匿名發聲,但她的兒子不希望她這樣做,所以她又保持沉默。然而,由於春江等人公開談論此事,以及藤井等人戰後一代人理解並接納了她,她才開始重新發聲。”

“奶奶,謝謝你跟我分享你那些不愉快的記憶。”

影片也展現了遠在東京的受害者安江玲子的情感變化。在很長一段時間裡,玲子在接受採訪時從未露面,但隨著她從周圍人那裡獲得更多理解,她逐漸開始展現出樂觀開朗的表情。

得知她過去的經歷後,她的孫子給她寄了一張明信片,上面寫著:「奶奶,謝謝您告訴我那些不愉快的往事」和「謝謝您給了我勇氣」。玲子擔心別人會說她不乾淨,所以一直隨身帶著這張明信片。

——你對玲子的情緒恢復軌跡有何感想?你打算如何拍攝?

“我們第一次採訪玲子是在2019年6月,當時她拒絕露面。我們也約好了電話採訪的時間。春惠會冷靜地陳述事實,而玲子則是那種自信地表達內心想法的人。”

我採訪她時非常小心,生怕觸動她的傷痛,讓她想起過去的痛苦回憶。她的孫女也說,她自己從未想過有一天她還能笑出來。我想,玲子離開岐阜去東京,是希望找到一個真正理解她、傾聽她心聲的人。

——玲子演講中最讓我印象深刻的一點是,她很高興日本戰敗。她用這句話表明,雖然她自己是受害者,但她也站在滿洲的侵略者這邊。

“沒錯。玲子那句‘我很高興我輸了’很有分量。”

這些話是在拍攝過程中自然而然地說出來的。我覺得他和孫子之間的互動中,父子情誼有所恢復,但他表情和語氣都非常溫柔。當他見到前來道歉的藤井時,他談到了超越世代的寬恕。 「這不是你的錯,」他說。

——旁白由大竹忍配音,但這個選角是如何促成的呢?

「我之前看過大竹在小松座話劇《太鼓太手,吹吹手》中的表演,這部話劇講述的是林文子的生平,所以我非常希望他能出演這個角色。我向他發出了邀請,但考慮到他繁忙的日程安排,我覺得這可能不太現實。後來我得知大竹了解黑川村,他說他很樂意參與這部電影的決定立即拍攝了。

戰後花了80年才重拾尊嚴的女性

在根據井上久志的小說改編的舞台劇中,主角林文子有一句台詞:「歷史書很快就會把我們遺忘,所以我們現在必須記錄下我們如何生活,我們犯過哪些錯誤,以及我們如何從這些錯誤中重新開始。」 這句話似乎完美地契合了女性們的心聲。

——大竹的旁白僅限於影片的前半部分,主要講述了偽滿洲國建立的歷史和相關史實。人們可能會想到讓一位偉大的女演員來朗讀影片的核心主題——墓誌銘,但您有意選擇保持這種冷靜克制的風格嗎?

「沒錯。我沒有為碑文配上旁白,因為我希望接觸到這件作品的人能夠親身感受。我想呈現事實,引發他們的思考,而不是用情感去引導他們。有人告訴我,解釋滿洲的那段場景像電視節目一樣,但我希望人們了解這一點,所以我也仔細地編輯過。”

有人評論說,節目中描繪歷史背景的部分,例如檔案影像,看起來像是一部電視紀錄片,但該節目不僅能夠披露美國官方文件,還能披露蘇聯文件,並且莫斯科政府已經揭露了滿洲-蒙古殖民集團的真實目的,以及其起源地、家庭數量和人口,這都歸功於電視的優勢:研究和檔案。

在一段場景中,春惠面帶笑容地對著剛出生的曾孫說話,說道:「我笑了,我笑了。雖然奶奶本該去世,但我卻喜極而泣。」這似乎是為奶奶的獲救和她重拾自我而流下的喜悅之淚。

“那些在戰爭中犧牲的女性,在戰後80年才重拾尊嚴。我覺得自己親眼見證了這一切。”

這些女性打破了禁忌,勇敢地站了起來。她們的勇氣促使罹難者家屬協會努力建立紀念碑,也讓身邊的人重拾笑容。攝影機似乎扮演了樞紐的角色,透過在勇敢站出來的女性和家屬協會的活動之間來回切換,默默地支持著她們的康復之路。

這部紀錄片告訴我們,以謙遜的態度進行報道,而不是僅僅關注報道對象,會給周圍的人帶來信任與和諧。

文/木村元彥


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「私はいっぺん死んだ人間です」ソ連兵に性接待に差し出された黒川分村の女たちが、カメラの前で語ったこと<映画「黒川の女たち」公開>

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2025年07月12日(土)10:00


「私はいっぺん死んだ人間です」ソ連兵に性接待に差し出された黒川分村の女たちが、カメラの前で語ったこと<映画「黒川の女たち」公開>

「私はいっぺん死んだ人間です」ソ連兵に性接待に差し出された黒川分村の女たちが、カメラの前で語ったこと<映画「黒川の女たち」公開>

戦後、長らくタブーとされてきた、旧満州で起きていた「性接待」事件。敗戦直後、岐阜県の旧黒川村から入植した開拓団は生き延びるため、村の未婚女性をソ連軍将校に差し出していた。



近年になって、当事者である女性たちの証言で明らかになった顛末を追ったドキュメンタリー映画「黒川の女たち」が公開された。監督の松原文枝氏が描きたかったものとは。

「私はいっぺん死んだ人間です」

国策によって岐阜県黒川村の村民約600人が、中国東北部旧満州吉林省に分村として入植したのは1942年のこと。満州国建国のスローガン「五族協和」、「王道楽土」の美名のもとで行われていたのは、日本帝国主義による支配侵略であった。


開拓とは名ばかりで、多くは中国人が開墾した土地や家を奪い取るかたちで居住した。敗戦を迎えると頼みとされた関東軍は民間人の警護をうち捨てて南へ逃げ、丸腰で取り残された開拓団の人たちは現地住民やソ連軍の侵攻を受けて略奪や暴行に苦しめられた。


追い詰められて集団自決も多発する中、黒川分村が選択したのは、村の未婚女性をソ連兵に性接待に差し出して生き延びることだった。18歳以上の未婚女性15人が集められ、「(兵隊に行っている人の)嫁さんには頼めないから、お前たち娘が犠牲になってくれ」と団の幹部から懇願されたのである。


親兄弟も生活していた避難所のベニヤ板一枚で仕切られた部屋で娘たちは、兵士に銃で突かれて横たわり、「お母さん、お母さん、助けて」「がまんしな、がまんしな」と泣きながら励まし合ったという。


敗戦から1年後、黒川開拓団451人は帰国するが、以降、この出来事についてはかん口令が敷かれ、村内でも沈黙を強いられた。そして犠牲にされて村を救った娘たちを待っていたのは心無い誹謗中傷だった。


うつされた性病の治療に通うことをかげでなじられ、村落から出ていくことを余儀なくされた。


「私はいっぺん死んだ人間です」


そう言いながら、語りの口火を切ったのは、ひるがの高原の戦後開拓地に移住し、お見合いで知り合った男性にすべてを話して結婚した佐藤ハルエさん(1925年生まれ)だった。



松原文枝監督のカメラは、長きにわたったタブーを破り、語り出した女性たちの証言を丹念に追うが、それだけではなく、親の世代が犯した「事件」について犠牲者の女性たちに謝罪し、碑文に真実を書き残すことに情熱を捧げた黒川分村遺族会(黒川開拓団の引揚者による戦後組織、以下遺族会)の藤井宏之会長の活動を丁寧に描いている。


松原監督は、報道ステーションのプロデューサー時代に古舘伊知郎キャスターをレポーターとして渡独し、ワイマール憲法の「国家緊急権」がナチスの全権委任法に直結していった史実になぞらえて自民党の改憲草案「緊急事態条項」の危うさを浮き彫りにした特集「独ワイマール憲法の”教訓”」でギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞しており、まさに歴史からの学びを映像化する仕事の手練れである。


劇場映画は「ハマのドン」に続く2作目という監督に話を聞いた。


犠牲者の由来を明文化した「乙女の碑」

――これまでも黒川を描いた番組や書籍はいくつも出ていますが、本作は女性たちが尊厳の回復に至り、魂の再生に向かう様子が描かれていて、それが非常に特徴的でした。取材のきっかけはどのようなものだったのでしょうか。


「2018年8月に佐藤ハルエさんが岐阜市民会館でご自身の体験を話されたという記事を読んだんです。当時93歳で、真剣に真一文字に口を結んでおられた写真にくぎ付けになりました。どういう思いで話されたのか取材したくてアプローチしました。


撮影に関しては1対1のカメラ前でのインタビューではなく、公の場で多くの人にお話をされているところを撮りたかったので、遺族会会長の藤井宏之さんに問い合わせたら、しばらくはハルエさんが講演される予定はないとの答えでした。


ただ、その後、11月に『乙女の碑』の碑文の除幕式があります、との連絡を下さったんです。私はデスク業務があったので、同僚に取材に行ってもらって11月18日の夕方ニュースで碑文除幕式を放送しました」(以下、松原監督)


この映画を構成する上でもうひとつの骨子になっている碑文である。1982年に白川町の神社に黒川開拓団の慰霊碑として「乙女の碑」が建立されるが、乙女に関する説明文は一切無かった。かつての遺族会は満洲体験の手記を集めた文集でさえ、書き手の女性に無断で文章を削除していた。


ところがその後、4代目の会長となった藤井会長が中心になり、犠牲者の由来を明文化して残すべきだとして、碑文を起稿し「乙女の碑」の横に建てたのである。少し引用する。


「乙女の命と引き替えに団の自決を止める為若き娘の人柱捧げて守る開拓団」


「満州国は現実は日本の武力侵略であり、入植地は武力を背景とした強制接収であり、そこには協和すべき人たちが直前まで住んでいた家屋であった」


「女性たちは逃げたかったが、団全体の生死が関わる事態に『嫌だ』とは言えず、交代でソ連軍将校の相手をさせられた。日本への引き上げ後も、恐怖は脳裏に焼きつき、そのうえ中傷もされた…。このことは戦後長く語られることはなかった」


文章は開拓団の男性たちによる女性に対する加害責任、そして満洲における日本の同じく加害責任に言及している。この碑文については未来永劫残す文章として何度も遺族会会員の中で議論が繰り返されたという。


「本当に碑文をここまでよく踏み込んで書かれたと思います。女性を差し出した親の世代の加害責任に向き合い、犠牲になった女性の心境に添った文章になっています。碑文除幕式があった2018年は近畿財務局職員の赤木俊夫さんが上司から公文書の改竄を命じられて、自死された年です。


森友加計事件で、財務省は記憶も新しい1~2年前の森友学園に関する決裁文書を平気で改竄して、下の者に押し付けた。そして誰も責任を取らなかった。権力者はやりたい放題で自分たちに都合の悪い歴史を書き換えている。



対してこの碑文は市井の方々が自分の父祖の罪をしっかりと認めて書きつらねておられる。この出来事は私自身、報道に携わる者としてメンタルの救いになりました」(松原監督)


「これからは正々堂々と話して後世に残すのが私の役目」

藤井会長の活動は今の日本を覆っている歴史修正の波に対する強烈なカウンターとしても見てとれる。藤井会長は戦後の1952年生まれで、当然「事件」には何も関係がない。


しかし、碑文の作成だけではなく、遺族会の代表として犠牲者である安江玲子さんにも逢いに行き、親の代の罪について直接的に謝罪の言葉をかけられている。


「『碑文が出来て終わりではない』と藤井さんはよく言っていました。こんなことを言うのも失礼かもしれませんが、藤井さんは自民党員なんですよ。私も『自虐史観とか言われて攻撃されませんでしたか?』と訊いたりしましたが、彼にとってはとても自然な行動なんですね。


あったことをなかったというのはおかしい、歴史には真摯に向き合うという考えです。(前作映画の)『ハマのドン』ともつながると思うのですが、コミュニティの中での圧力に打ち勝つ人としての強さを感じました」


ハマのドンこと藤木幸夫氏は横浜の港湾事業を取り仕切ってきた神奈川の最古参自民党員で中央政界とのパイプも強い保守の重鎮であったが、ときの総理である菅義偉が推し進めたカジノ誘致に真っ向から反対してこれを覆した。


「港で博打はさせない」という信条が反対派市民との連帯を生み、最高権力者による肝いりの国策をついに阻止した。二つの映画で表されたのは、政治党派にからめとられない真っ当な人間性が成し得た仕事の結実だろうか。


――やはり佐藤ハルエさんの行動がもたらしたものは大きかったでしょうか。ハルエさんは弟からも「満州で汚れた女は嫁にはもういけない」と言われて、ひるがのへ移住してゼロから酪農を開拓されました。



苦労の生き様が牛舎で飼い葉をやるシーンからも拝察できました。お亡くなりになるときに安江菊美さんがハルエさんの手を握ってかけた「満州で、日本で、難儀されて」という言葉から、二人の大きな絆を感じました。


「藤井さんも私もハルエさんの行動に突き動かされたと思います。私自身、ハルエさんの逝去に際して、生き方を問われた気がしました。そして亡くなられる瞬間に立ち会えたことで、伝えなくてはいけないという気持ちがさらに強くなりました。


ハルエさんは事実のみを丁寧に語られるのです。ひるがので結婚された相手の男性も満州帰りの方です。すべてを話されて、梅毒が治った証明書を相手のご両親に見せられたそうです」


――満洲での体験をずっと秘めてこられた水野たづさんも「これからは正々堂々と話して後世に残すのが私の役目」とカメラの前で話されていました。松原さんが、(映画に)お名前を出しても良いですか?と訊かれて快諾をされているシーンが印象的でした。


「これまでも水野たづさんのところにはいくつものメディアが取材に来ていました。一時期、匿名で話をされていたこともありましたが、息子さんが嫌がるので再び沈黙されました。それでも話すようになったのは、ハルエさんらが声をあげ戦後世代の藤井さんたちが理解し受け止めたからですね」


「ばあちゃん、嫌な思い出を話してくれてありがとう」

映画では犠牲者であり、遠く東京で暮らす安江玲子さんの心の変化も追っている。長い間、取材に関しては一切顔を出さずに対応してこられた玲子さんが、周囲の理解とともにどんどん変わってにこやかな表情も見せるようになっていく。



過去を知ったお孫さんからは「ばあちゃん、嫌な思い出を話してくれてありがとう」「勇気をだしてくれてありがとう」と記されたハガキが届いた。「汚いと言われるかもしれない」と思っていた玲子さんは、それを常に携帯している。


――玲子さんの心の再生の軌跡はどのように感じてどう撮影していこうと考えていたのでしょうか。


「玲子さんの取材は2019年6月が最初で顔出しはずっとNGでした。こちらが電話をできる日も決まっていました。事実を淡々と語られるのがハルエさんで、玲子さんはご自身の内心をしっかりと口に出されるんですね。


フラッシュバックさせて傷つけるのではないかと、インタビューのときも慎重に聞きました。お孫さんにも言われていましたが、ご自身もまさか自分が笑う、笑顔になる日がくるなんて思いもしなかったと語っておられました。岐阜を離れて東京に行かれた玲子さんはきちんと自分の話を理解して聞いてくれる人を欲していたのではないかと思うのです」


――玲子さんの語りの中で(戦争に)負けて良かったという言葉が際立って耳に残りました。自らは被害者でありながら、満洲では加害の側にいたことをそういう言葉で発信されたのですね。


「そうですね。この玲子さんの『負けて良かった』という言葉はとても重いです。



そして撮影時にこれはとても自然な流れの中で出てこられた言葉なのです。お孫さんとの交流の中での再生もあったと思うのですが、本当に柔らかな表情と口調になられて、謝罪に来られた藤井さんにも会われて世代を超えた赦しを話されたんですね。『あなたは悪くないですよ』と」

――ナレーションは大竹しのぶさんが担当されていましたが、このキャスティングはどういうところからされたのでしょうか。


「林芙美子の半生を描いたこまつ座の芝居、『太鼓たたいて笛ふいて』で主演されているのを見て大竹さんにぜひやっていただきたいと思っていました。お忙しいし、無理かもしれないと思いながらオファーを出したら、大竹さんは黒川村のことをご存じだったんです。この映画に参加させてもらえて嬉しいと仰っていただいて、それで一気に決まりました」


戦後80年かかって自身の尊厳の回復した女性たち

井上ひさし原作の同舞台には「歴史の本はわたしたちのことをすぐにも忘れてしまう、だから、わたしたちがどんな思いで生きてきたか、どこでまちがって、どこでそのまちがいから出直したか、いまのうちに書いておかなくてはね」という主人公・林芙美子のセリフがある。まさに女性たちの心情とシンクロしたと思われる。


――大竹さんのナレーションは前半の満州国建国の経緯や史実に関する部分に限定されていますね。偉大な女優にテーマとなるあの碑文を読んでもらうという発想になりがちですが、あえてそこはストイックな演出を選ばれたのでしょうか。


「そうですね。碑文については、作品に接した方々に自身で感じ取ってほしいから、ナレーションでは入れませんでした。情緒的な誘導にならずに事実を差し出して、考えていただきたかったです。満州についての説明シーンはTVっぽいと言われましたが、そこは土台として知っていただきたかったのでこれも丁寧に編集しました」


歴史背景を資料映像などで描く部分がテレビドキュメンタリーっぽいという声があったという。しかし米国の公文書のみならず、ソ連側のそれまでも開示させ、満蒙開拓団の真の目的や出身県、戸数、人口などがモスクワ政府に丸裸にされていた点を浮き彫りにしたのは、テレビの強みである調査とアーカイブが活かされているからである。


ハルエさんが産まれたばかりの曾孫に向かって、満面の笑みで語りかけるシーンでは「笑った、笑った。おばあはもう死んだはずなのに、(嬉しくて)涙が出る」という言葉が出てくる。命を繋いだことと自分を取り戻したことへの随喜の涙のように見受けられた。


「犠牲に遭った女性は、戦後80年かかってご自身の尊厳の回復をなされた。それを私は目の当たりにした思いです」


女性たちは自らタブーを破って告白し、その勇気は遺族会の碑文建立の動きへとつらなり、周囲に振りまく笑顔を取り戻した。カメラは告白の決意をした女性たちと遺族会の動きを丁寧に往還することでハブとして回復のサポートをしたようにも思える。


対象をただ消費しない謙虚な取材姿勢は周囲に信頼と融和をもたらす、それを教えてくれるドキュメンタリーでもある。


文/木村元彦


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