復員士兵的父親患有創傷後壓力症候群;武藏村山的一個社區中心的家庭形態被扭曲;

黑井昭夫拿出敬次郎的軍友申請表說:「我甚至無法想像他在戰場上表現得如此出色,而且還有部下。」(皆在武藏村山市)

黒井秋夫拿出慶次郎的軍友申請表說:「我甚至無法想像他在戰場上表現得如此出色,而且還有部下。」(皆在武藏村山市)

 “我的父親是一位‘絕望的老人’,實際上患有戰爭引起的創傷後壓力症候群(PTSD)。”武藏村山市的黒井秋夫(73 歲)意識到父親慶次郎去世後自己的感情受到了創傷,並繼續面對父親的生活。去年5月在他家的場地上建立的「患有創傷後壓力症候群的日本士兵及其家人的交流館」正在成為有相同經歷的家庭交流的場所。
患有創傷後壓力症候群(PTSD)的日本士兵及其家屬交流中心

患有創傷後壓力症候群(PTSD)的日本士兵及其家屬交流中心

 面積約10平方公尺的木質交換大廳。一面牆上展示著 Keijiro 的職業經歷和對退伍軍人家屬的採訪。書架上擺滿了慶次郎的軍事相簿和戰爭相關資料。
 慶次郎是山形縣人,滿洲事變隔年(1932年)(昭和7年)20歲入伍,前往中國吉林省。戰後,她在建築工地搬家,撫養了包括黑井在內的三個兒子,並於 1989 年去世,享年 76 歲。
 我一直被周圍的人視為「不同的人」。他昏昏欲睡,從一份短期工作換到另一份短期工作,從不微笑。雖然他並不暴力,但他避免與他人交往。這些年來,他變得更加沉默寡言,到了晚年,無論孫子叫他多少次,他都不接。 “噢,這不會發生。”黑井先生鄙視他的父親。
 黑井在 2015 年首次意識到創傷後壓力症候群 (PTSD)。在環遊世界的和平之船上,他看到一段從越南戰爭歸來的美國士兵講述現實情況的視頻,這讓他想起了自己的父親。當我們在船上設立論壇談論我們的父親時,許多人向我們承認他是個酒鬼,也毆打了我們的母親。 “肯定有一定數量的復員日本士兵患有創傷後壓力症候群。”
Keijiro的軍事專輯第1頁。據記載,他從事「剿匪」活動

Keijiro的軍事專輯第1頁。據記載,他從事「剿匪」活動

 我的父親為什麼會生病?當我打開我的軍事相簿想了解更多資訊時,我發現了一張年輕男子的照片,他有著一張棱角分明、健美的臉。我還是第一次看到這種表情。雖然原因不明,但從專輯和軍事記錄中得到了線索。 “這一定是相當殘酷的。”慶次郎參與了在中國的「民族討伐」行動,以擊敗與農民混在一起的遊擊隊。作為優秀軍人,他被授予“良好行為證書”。
 2018年,黑井成立了一個小組,為那些與創傷後壓力症候群(PTSD)的復員日本士兵住在一起的家庭提供交談。交流中心開幕後,他向訪客分享經驗並舉辦講座。他們中的一些人說,“我父親把我母親的收入都花在了喝酒上,並對酒精產生了依賴。”我們收到了 30 多起疑似患有創傷後壓力症候群 (PTSD) 案件的詢問,包括電子郵件和電話,例如針對家庭成員的暴力或成癮。
 透過她的活動,她也認識了廣島大學研究生院研究戰爭創傷的副教授中村惠理。中村指出了這個問題,他說:“到目前為止,幾乎沒有對日本復員軍人的精神疾病進行過全國性調查。”
 我現在為我的父親感到難過,他正在暗中受苦。 「如果沒有戰爭,即使我們很窮,我們也可能能夠像慈愛的父母和孩子一樣生活,」黑井說。他發誓要向子孫後代傳遞戰爭扭曲了家庭形態的事實。
黑井先生(右)接受交流中心研究員的線上訪談。他們旁邊還有當地的孩子。

黑井先生(右)接受交流中心研究員的線上訪談。他們旁邊還有當地的孩子。

 黑井將希望寄託在來到交流中心的孩子身上。迄今為止已有1300多人參觀了博物館。百分之八十的學生是放學後來的小學生。因為可以買到甜點,俗稱「忠屋」。每週都會和朋友一起來的小學四年級學生拉拉·山中 (Rara Yamanaka,10 歲) 笑著說:“我們總是坐在黑井先生旁邊閒聊。”
 “現在這樣就可以了。等孩子們長大了,我相信會有孩子理解我們在這裡做的事情並提供幫助。”黑井瞇起眼睛說。
 文字和照片由 Tomomi Hayashi 提供 
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復員の父、PTSDだった 戦争がゆがめた家族の形 武蔵村山に交流館

2021年12月14日 07時07分
慶次郎さんの軍歴申立書を広げ「戦地では優秀で部下もいたなんて想像もできない」と話す黒井秋夫さん=いずれも武蔵村山市で

慶次郎さんの軍歴申立書を広げ「戦地では優秀で部下もいたなんて想像もできない」と話す黒井秋夫さん=いずれも武蔵村山市で

 「『どうしようもないおやじ』だった父は、実は戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいた」。武蔵村山市の黒井秋夫さん(73)は父・慶次郎さんの死後に心の傷を負っていたと気付き、父の人生と向き合い続けている。昨年五月、自宅の敷地に建てた「PTSDの日本兵と家族の交流館」は、同じ経験を持つ家族の交流の場となりつつある。
PTSDの日本兵と家族の交流館

PTSDの日本兵と家族の交流館

 広さ十平方メートルほどの木造の交流館。壁一面に慶次郎さんの経歴や、これまでに戦争経験者の家族らから聞き取った内容が展示されている。本棚には慶次郎さんの従軍アルバムや戦争関連の資料が並ぶ。
 山形県出身の慶次郎さんは、満州事変の翌年の一九三二(昭和七)年に二十歳で従軍し、中国・吉林省に赴いた。戦後は建設現場を渡り歩いて黒井さんら息子三人を育て、八九年に七十六歳で亡くなった。
 周囲からずっと「変わった人」と見られてきた。無気力で、短期の仕事を転々とし、笑顔を見せることもない。暴力を振るうことはなかったが、人付き合いを避けた。年々無口になり、晩年は孫が何度呼んでも返事をしなかった。「ああはなるまい」。黒井さんは父を軽蔑していた。
 黒井さんがPTSDに思い当たったのは二〇一五年。世界各地を巡る「ピースボート」の船内で、ベトナム戦争から帰還した米兵が実態を語る映像を見て、父の姿と重なった。船内で父親を語り合う場を設けると、「酒乱だった」「母を殴っていた」と打ち明ける人が相次いだ。「復員した日本兵も一定数はPTSDを抱えていたに違いない」
慶次郎さんの従軍アルバムの1ページ。「匪賊討伐」に従事したことが記されている

慶次郎さんの従軍アルバムの1ページ。「匪賊討伐」に従事したことが記されている

 父はなぜ発症したのか。それを知ろうと従軍アルバムを開くと、きりりと引き締まった顔の若者の写真があった。初めて見る表情だった。原因は分からなかったものの、アルバムと軍歴の申立書からヒントは得られた。「かなり残虐なことをしたのでしょう」。慶次郎さんは、中国で農民に紛れたゲリラを討つ作戦「匪賊(ひぞく)討伐」に従事。優秀な兵士として「善行証書」を付与されていた。
 黒井さんは一八年に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を設立。交流館の開館後は、訪れる人に自身の経験を伝え、講演会を開いてきた。中には「父が母の稼ぎを酒につぎ込み、アルコールに依存していた」と語る人も。メールや電話を含め、家族への暴力や依存症などPTSDの影響が疑われる相談が三十件以上寄せられた。
 活動を通じて、戦争によるトラウマ(心的外傷)を研究する中村江里・広島大大学院准教授とも知り合った。中村さんは「復員日本兵の精神疾患に関する国の調査は、これまでほとんど行われてこなかった」と課題を指摘する。
 人知れず苦悩を抱えていた父を今はふびんに思う。「戦争がなければ、貧しくとも情の通った親子でいられたかもしれない」と黒井さん。戦争が家族の形をゆがめた事実を後世に伝えていかねばと誓う。
交流館で研究者のオンラインインタビューを受ける黒井さん(右)。そのかたわらには地元の子どもたち

交流館で研究者のオンラインインタビューを受ける黒井さん(右)。そのかたわらには地元の子どもたち

 黒井さんは、交流館を訪れる子どもたちに希望を託す。これまでの来館者は千三百人余り。八割は放課後に立ち寄る小学生らだ。菓子がもらえるから通称「ただや」。友人と毎週来ている小学四年の山中ららさん(10)は「黒井さんの横でいつもくだらないおしゃべりをしてます」と笑った。
 「今はそれでいい。大きくなった時に、ここの活動を理解して手伝ってくれる子もきっと出てくるでしょう」。黒井さんはそう言って目を細めた。
 文と写真・林朋実 
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