直接的実行犯の井上清一中尉は何ら処分されないどころか、1934年には、「満州事変論功行賞」として功五級金鵄(きんし)勲章を授与された。
そして、日本の敗戦後、平頂山事件の裁判が始まった。1946年12月、瀋陽(旧奉天)で起訴され、1948年1月3日、判決が宣告された。国共内戦が激化していたので、控訴はまもなく棄却された。撫順炭鉱の次長だった久保孚(とおる)など7人が死刑となり、4月19日、7人全員の死刑が執行された。つまり、実際に虐殺を指揮して実行した日本軍の川上中隊長や井上小隊長などが責任を問われず、そのかわりに民間人が責任をとらされた。
井上中尉は1969年まで生きて大阪で病没した。GHQは戦犯として日本から中国へ送還できたはずだが、それはしなかった。南京大虐殺事件ではそうしたのに、平頂山事件では、しなかった。
井上千代子
佐野市の機屋の娘で、昭和5年岸和田高女卒業後間もない10月、井上清一陸軍中尉と結婚。1年後の6年12月12日、夫が満州へ出征することになった前夜「明日の御出征に先立ち嬉しくこの世を去ります…」という遺書を残し、岸和田市の婚家で、短刀でノドを突いて自害した。マスコミは“軍国の妻”として大々的に報道、映画にもなり日活が「あゝ井上中尉夫人」、新興キネマは「死の餞別」として上映した。
日本では銃後の守りという言葉があります。出征時に自殺することは本来はいけないことですが、めずらしかったので、色々取りあげられたのだと思います。(流すマスコミが馬鹿)。
結果論ではなく、何故自殺したのかを詳しく検討して、闇に葬るべき事件だったと思います。(自殺の方ね)
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