近卫文麿,《野心与失败》
近衛文麿 彼はヒトラーに憧れ、彼のような独裁者になろうとグローバリズム勢力に手を貸して、日本を敗戦へと追い込み、最後は彼らによって始末されたという事ではないかと思います。
知っている人もいると思いますが、この写真の人物 誰だと思いますか?
アドルフ・ヒトラーに扮した近衛文麿です。
ヒトラー本人
近衛文麿
「近衛文麿とは第34・第38・第39代内閣総理大臣であり、藤原(中臣)鎌足を始祖に持つ一族(大化の改新の功により天智天皇より藤原の姓を賜る)で、蘇我氏を滅ぼしたのち、皇室との姻戚関係を結び摂関政治を行い、道長の時代には『この世をば我が世とぞ思ふ…』の和歌でもわかるように栄華を誇ってきました。近衛家は藤原嫡流の五摂家の筆頭で、文麿は鎌足から数えて46代目、近衛家の創始者である基実から29代目の当主となりました。」
この写真が撮られたのは、近衛の次女温子と熊本藩主の孫の細川護貞(第79代内閣総理大臣細川護熙の父親)との結婚式前夜の祝賀パーティーが永田町の邸宅にて、一族郎党揃って仮装パーティーでの一幕です。おりしも総理大臣に就任する三ヶ月前のセンシティブな時期に新聞に掲載されて物議をかもしたのです。
また、近衛文麿という男は『支那事変』拡大を扇動する声明を出して陸軍や世論を煽り、事変に強く反対していた石原莞爾陸軍参謀本部第一部長を更迭して、朝日新聞出身で近衛内閣嘱託として首相官邸内に部屋を構えた尾崎秀実などのオピニオンリーダーを輩出して事変完遂の世論を形成、事変を拡大・泥沼化させ、第1次・第2次近衛内閣を組閣、さらにはソ連に攻め込むべく、満州やその控えの支那大陸に、日本本土から全体で74万人も動員してる状況、まさに「北進するぞ」という気運が日本に満ちている7月16日、近衛内閣が総辞職して、北進論を強硬に主張した松岡外務大臣だけを外して、7月18日に第3次近衛内閣を成立させました。いわゆる北進論潰しです。
尾崎秀実
そして、事変遂行の理念として「東亜新秩序」をうたい、「大東亜共栄圏」構想をうちだします。さらには第二次近衛内閣成立後、三国同盟を締結して枢軸陣営に入り、支那においては汪兆銘政府を承認します。これが第二次近衛声明です。
この声明を発表する前、近衛は米国に渡りモルガン商会の トーマス・W・ラモントやウッドロウ・ウィルソンを大統領にして影で操っていたと言われるエドワード・M・ハウス(ハウス大佐) ら、いわゆる国際金融資本家達と謁見して、満洲国の権益などについて話した際に、ハウス大佐より「日本がワシントン会議の体制を否定するなら、それに変わる我々の納得するような新秩序(New Order)を示すべきだと指導された上での東亜新秩序だったようです。
エドワード・M・ハウス
他方、対米英戦を想定して設立された「秋丸機関」の研究報告書に基づく戦争戦略の原型が作られました。近衛首相は南部仏印進駐に同意して米英蘭の対日石油全面禁輸を招き、大東亜(太平洋)戦争への道を完成させ、最後は東條英機陸相に首相の座を明け渡し、自らは舞台裏へと下がったのです。これだけの事が一人の首相のもとで起きているのです。
話を写真に戻します。この頃の近衛はヒトラーの独裁的なカリスマ性に憧れを抱き『我が闘争』 に傾倒しています。
そして、彼は多くの共産主義者を側近として置いています。先程の尾崎秀実もそうですが、秋丸機関のリーダー的存在である有沢広巳、そして第一次近衛内閣発足時には、風見章という共産主義者を内閣の要である書記官長(現在の官房長官)に抜擢しています。
風見章
それ以外にも蠟山政道、西園寺公一、牛場友彦などもそうです。
これは想像でしかありませんが、近衛は彼ら共産主義者を利用して、日本を敗戦へと導き(共産主義革命)、天皇を退位させて、米国には中枢の要職に入り込み、現情勢において不可欠な人間であるように仄めかせ、戦後の日本を天皇になり代わり、指導する立場に立とうとしていたのだと考えます。
それは、彼が語った言葉に表されています。
例えば、日本を亡国へ誘う真珠湾攻撃で日本中が沸き立つ中、近衛は秘書官の細川護貞(義理の弟)に「とうとうやったね。僕は悲惨な敗北を実感する。こんな有様は初めのうちだけだろう。一年目はいいが、二年目から悪くなる」と述べています。
また天皇に対しては、第二次・第三次近衛内閣の書記官長であった富田健治の著書『敗戦日本の内側ー近衛公の思い出』には近衛が「御上には最悪の場合のご決心もあると思う。恐れ多いことだが、その際は単にが退位ばかりでなく、仁和寺とか大覚寺にお入りになり、戦没将兵の英霊を慰められるのも一方法かと思うし、又申すも憚れることだが、連合艦隊の旗艦に召されて、艦と共に戦死して頂くことも、これこそが、ほんとうの我国体の護持ではないかとも思う」と語ったと記されているそうです。
昭和天皇とマッカーサー
そして、戦後、彼は戦争責任を軍部と共産主義者の責任だとして釈明しています。
マッカーサーに対して、日本の赤化論を説き、それに対してマッカーサーは「有益かつ参考になった」と頷いた。さらに近衞が「政府組織および議会の構成につき、御意見なり、御指示があれば承りたい」と尋ねると、マッカーサーは自由主義的な憲法改正の必要性と自由主義的分子の糾合を指示し、近衞を世界に通暁するコスモポリタンと称賛して「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励しています。
しかし、彼の本心はGHQ対敵諜報局調査分析課長ハーバート・ノーマンにに見透かされ、結局はA級戦犯となり最後は自宅で服毒自殺(暗殺?)して54歳の人生に幕を閉じたのです。
最初の写真を見ると、支那事変拡大から、大東亜(太平洋)戦争の道筋を作り、戦争責任から逃れるようにその座から降りて、最後はGHQに取り入り覇権を取ろうと画策していた。そんな彼が雄弁に語り、国民を魅了しながら独裁政治を行う、アドルフ・ヒトラーに憧れていたというのを想像するのは私だけでしょうか。
参考文献: 近衛文麿 野望と挫折
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